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東京。

高橋幸宏さんが亡くなった。まだ信じ難いけれど…。

わたしが高校3年生の時に結成されたYMO。進学のために上京し、東京生活にも慣れて来た1980年に大ヒットした『ライディーン』。ディスコや有線でかかりまくっていたのを覚えている。

その3年後、ユキヒロさん(当時は片仮名表記だったはず)のマネージメント会社の面接を受けた。

転職先を探していた時に、たまたま見つけた求人広告。YMOのファンだったとか、音楽にものすごく詳しかったという訳ではない。ただ、前職も前々職も音楽関係だったので、少しは経験が生かせるかもしれないという単純な理由での応募。しかーし、面接までは受けられたものの、採用は叶わず…。

ただ、そのご縁で別の会社を紹介され、ご親切にも履歴書を回してもらって、そちらで再び面接を受けることになった。予備知識が何もないまま、紹介された会社へ。そして、ありがたい事に採用していただいた。

そこは矢野顕子さんのマネージメントをしている会社で、別フロアに坂本龍一さんのマネージメント会社があり(さらに別フロアにMIDIというレコード会社が後に入った)、世界的アーティストを抱える会社とは思えないほどアットホームで働きやすい環境だった。

ちなみに当時は教授のマネージメント会社にピーター・バラカンさんも在籍されていた。JAPANのメンバーがふらりと出入りしたり、矢野さんの制作物のデザインを立花ハジメさんが担当していたり、夜のミーティングと称して霞町のお店に繰り出したり、何もかもが面食らうほどに都会的で刺激的な職場でもあった。

最初に勤めた六本木のど真ん中にあった海外アーティストの招聘会社でも、次に勤めたTBSのすぐそばにあったアイドルの所属会社でも味わったことがない、「これぞ東京」という感覚を肌で感じた日々。同じビルの中には、著名イラストレーターや作家のオフィスもあった。

就職後、ユキヒロさんとは数えるほどしかお目にかかったことがない。

矢野さんのライブや、イベント会場の楽屋でお目にかかるユキヒロさんは、スタイリッシュで、上品で、穏やかな空気をまとっていた。その佇まいが「まさに東京」。わたしにとって、東京という街を象徴する存在のお一人がユキヒロさんだった。

このところ、当時の諸先輩の訃報が続けて届く。バブルの終わり頃、華やかな80年代の思い出の火がひとつずつ消えていくようで寂しい。年を重ねるってこういうことなのか…。

憧れて憧れて、早くその地で働きたくて、胸いっぱいの夢と希望を叶えに、窮屈な田舎を飛び出した。いまの若い人たちが向かう先は世界だろうけれど、わたしは東京w。ライターとして編集に携わる夢も叶え、本当に楽しかった。充実していた。子どもとしての責任を果たすために帰郷したけれど、東京はいまも大好き。

ユキヒロさんの逝去を機に、昨日から何となく過去を振り返っている。人生にいくつかのターニングポイントがあるとすれば、ユキヒロさんの会社に履歴書を送ったあの時もそのひとつ。

本当に感謝しかない。さまざまなご縁をありがとうございました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

今年は東京に行きたいな。画像は20年来のお気に入りのお店のテラス席からの眺め。待ってろ、東京w。



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