今から泥の中であがくので見ていてください
自分が「特別だ」と思ったことはあるだろうか。
僕はある。
それが「いつ、どんな時に、なぜそう思ったか」というように具体的に説明できるわけではないけれど、なぜか常に漠然とそう思っていた。
通学中の近鉄電車の車内、通勤中の信号待ち、気だるい朝の授業中、仕事の休憩時間、何の予定もない放課後のことを考える午後の授業中、残業中、その全ての些細な瞬間に、そう考えることで何者でもない自分を救っていた。
モラトリアムを経てちっぽけなアイデンティティを形成した末にゆっくりと心を殺して大人になっていく自分が、かつて憧れた「特別な自分」であるとは到底思えなかった。だから20年近く過ごした学生時代の中にある、両手で数えられるほどの特別なエピソードを思い出して、大人になりきれない自分を必死に抑え込んでいた。たった一回だけ作文を褒められたこと、可愛い同級生の女の子に話しかけられたこと、国語のテストで良い点を取ったこと。
取るに足らないそんな些細なエピソードで必死に自分を特別だと思い込むことが、過去が自分を救ってくれる唯一の方法だったのかもしれない。
でも特別なんてすごくぼんやりとしたものだ。そりゃあ世界を救ったり、テレビスターになったり、億万長者になれたらいいなと思うけど、そんな風になっても僕の心のそこらじゅうに絡まってほどけない真っ黒な糸くずみたいな不安が綺麗になくなったり、真夜中に理由もなく切なくならないわけでもないような気はする。でも、ぼんやりとしているから救いがある。
僕は自分に自信がない。過去の自分の失敗や上手くいかなかったことがトラウマ的に自分の脳よりもっと深い所へ刻まれていて、不意にそこから泥水のようにドバっとあふれ出てくる時がある。何かをしようとしたり、前に進もうとした時、特に。その泥水を振り払おうともがいてるうちに、また新しい泥が増える。そういったことを繰り返している。だけど自信がないで解決することなど何もないことも知っているから、自信が欲しい時、過去の自分の特別なエピソードを思い出す。
あふれ出てくる泥水の中を這いつくばって、思い出す。
褒められたこと、認められたこと、受け入れられたこと、わずかな成功体験、自分の発言で誰かを笑顔にできたこと、誰かを救えたかもしれないこと。自分だからできた「特別な」エピソード。
今、自分が特別かどうかは割とどうでもよくなっている。
ただ、こうやって僕を救ってくれる特別をこれからも増やしていきたいと思っています。
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