映像文化研究支部

演技の技巧、そして、その対象についての一見解


大衆文化研究会映像文化研究支部長のイデアです。うちでやってることはたった一つ。映画を観るだけ。皆でデケェ画面を観散らかすこの支部は笑顔でいっぱい!アットホームなサークルです。ええやろ。

さて、この支部では勿論、海外の映画も取り扱います。この時に立ちはだかる壁、吹替字幕問題を皆さんはご存知ですか。元の演技で聞きたいオーガニックや通ぶりたいガキは大抵が字幕を、楽して映画を観たいニートや声優が好きなフェチカスは大抵が吹替を選ぶわけですが、これによって変化するのは日本語外国語という言葉だけでしょうか。いいえ、違います。

知らない人もいると思うので記しますが、字幕の日本語スクリプトと吹替の日本語スクリプトは全く異なります。前者が原語に忠実に訳されがちなのに対して、後者は原語に掠りすらしていない事がしばしばあり、これは声を入れる時間と演者の口の動いている時間を同じにするためだったり、これに係る文脈の辻褄合わせのためだったりします。例えばdamn itの訳が、前者だと「くそっ!」なのに、後者だと「なにっ!?」となる事も考えられます(原語の母音がa iと続くため、前者の母音u oだと口の動きに違和感が生まれてしまう)。これにより、物語の根幹や全体の流れは同じでも、細やかな差異が出てきます。おおよそ字幕に於いての映画が素材とすると、吹替は既に料理されたものになりますから、演技に関しても最早料理され尽くしており、演者の演技は吹替を担当する声優の演技に上書きされます。有名な海外俳優に決まった声優さんが付きがちな理由に、このスクリプトによる演技補正があるのでしょう。同一化と表してもいい。演技が切っても切り離せなくなるわけです。

つまりまとめると、海外の映画では吹替を安易に選ぶとスクリプトの技巧にハマって抜け出せなくなるから注意しようねってこと!むしろそれがいいっていう変態もたまにいるけどさ!それは誰……?

俺!

俺!?

俺俺俺俺!

それは置いといて、演技に関してもう一つ語りたいことがあります。それは対象の違い、特にドラマに関するものです。演技はそれを受け取り、解釈する対象が存在して成立します。では映画、ドラマではその対象とは何でしょうか?

映画は主に映画館で観ることを考えて作られています。したがって、対象は集中してこれを観ている前提になり、意匠や細部を凝らしても気づくことができます。家で映画を観る時、音量がいつも以上に小さく感じることが多々ありますが、囁くような演技やノンバーバルランゲージが映画に多いのもこの集中力のためです。緻密に練られたストーリーがドラマやアニメよりも多く見られるのも対象の集中への信頼から成っているのです。

反してドラマは家で観ることを考えて作られています。主婦が家事をやりながら、家族が食事をしながら、ふとした空き時間を潰すため、そういった理由で観られるものなので対象は集中しているとは言えません。たとえばドラマでは無駄にオーバーなリアクションを取ったり、少し無理矢理感のある脚本の繋ぎ方をしたりします。これは俳優の演技が下手なわけでも、脚本家が下手なわけでもありません。あえてそのような作りにすることで、対象の需要に最適化された供給を行っているだけなのです。したがって、映画に比べて現実味のない演技がよく披露されます。これも、一つの技巧と言えるでしょう。

普通に考えるとネガティブな点(映画の音量が小さい、ドラマの演技が大袈裟等)も、実は突き詰めると非常に論理的で、充分に構成されたものなのです。これらの理解を深めるためにも!お前!俺達と一緒に映画を観ないか?^^

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