2022年に向けて燃える

漫画、小説、アニメ、お笑い、映画、、、わたしは文化芸術が好きだ!今までそれを楽しむためだけにここまで生きてきた気すらするくらいには欠かせない。好きなものは年を重ねるにつれ変わっていってはいるけれど、昔好きだったものは今だって好きだな。思い出がおまけについてくるし。

最近はあんなに好きだった映画も音楽も新しいものを探す旅に出る回数が減ってしまった。新しいこと、独創性、選ぶものから得られるセンスというアイデンティティを小さなプライドとして携えていた私が、こんな風になるんだ~と不思議な気持ちになります。私が大人になったのか、2年前くらいからがらりと変わってしまった世の中のせいなのか、はたまた全く別の要因があるのか、それは自分に聴いてみてもわからなかったので、生活する中で引き続き調査したいですね。

私は2020年の振り返りをしたnoteの記事で、「周りを傷つけない」が裏テーマみたいな社会を感じたと記していました。今年もおんなじことを考えています。

私は映画もお笑いもドラマも好きです。フィクションを楽しめるってすごく人間的なことだと思うので、動物になりたいと常々思っていても今世は人間でよかったなと感じます。


多様性という言葉を去年は用いましたが、友人が薦めてくれた朝井リョウ著「正欲」を読んで、軽々しく使っている自分がとても恥ずかしくなったので、慎重に使いたいと思います。

去年の私は多様性とは認め合うことが前提ではないか、と記していました。ただ、それはうわべで分かりやすい世間一般が考える多様性に近いのだと思います。本来は、多様性が本当に実現した時にはわざわざ「認め合う」なんて言葉使うはずないのに。当たり前になってないことの査証になっているのが皮肉です。

人権や蔑視と戦う姿や世の中が間違っているとは思っていません。こんなこと言っておきながらこの先私が書くことを読んだら「こんなこと書いてるんだからほんとは思ってないんだろ」と感じる思慮のキャパが小さい人もいるでしょうが、私は本当に今の流れ自体は正しいと思っているんです。より多くの人が見ていてくれる人一人一人が表明していくことで考えが伝播することは数々の歴史が証明してくれています。この前置きを前提に私の気持ちを理解してくれる人がいるだろうという希望を込めて。

わたしは文化のすべてをその場限りのものになんてしたくないんです。このままだと、何となく、中身が薄いものばかりになってしまいそうで。

何を楽しむにも知識が必要だと思います。でもそれは何をしなくても得られるものではないです。小説を読むならまずは字、そして様々なたとえをみずみずしく思い浮かべられる感性を養うためにいろいろなもの、事、歴史を引き出しにしまえればしまえるほど一つの文章から得られる感覚は増えますよね。

何よりそういう知識の蓄積が、芸能・文化を楽しむときに「俯瞰」というフィルターをかけてくれ、物語を濃密にするために入れられたスパイスをスパイスだと感じられるような体にしてくれるのだと思うんです。

私はその努力をしてきた人からすると物足りないものばかりが並んでしまったら、みんなが本当になってほしい多様性なんてないと思うんです。克服の仕方が違うと思うんです。今本当に必要なのって、冗談を冗談だとはっきり自信をもって判別することができる感性をみんなが持つことだと思うんです。こちらのほうが排斥するよりも何倍も難しいことのはずですが、私はそれでも「みんながみんなそれぞれちゃんと楽しめる」世界になってくれたらなあ、と思わずにはいられない。

好きな10年前くらいの映画を見ていて、やっぱり好き!と思いフィルマークスを見ると「今っぽくない」と書かれていた。当たり前でしょ。意図して時代を選んでいたとしたら、史実に忠実に描いていたら、とか考えられるならきっともっと楽しいのに。すべてを総合してその評価に行きつくことがナンセンスに感じられるのだ。一言でいうと的外れでならないと思ってしまいます。


ちょっと前は自分の好きな芸人が「今の世間の状況じゃ炎上しちゃうかも」と思うこと、こんなに多くはなかったと思います。

本人の意思を無視した批判があることが悲しくて、笑うために見ているはずなのに悲しくなることがあります。

世間を風刺した芸風の漫才とか、いつでもしびれますね。この前のTHE MANZAIでのウーマンラッシュアワー、正直私はテレビの前で感動してたんです。お笑いの力で声を上げる姿がまぶしかったです。

私は結局、一人の人が自分で決めた道を何も知らずに批判して自分がいかにもニュータイプの人間だと謳うための道具にされるのが我慢ならないんですよ。大事なものを人のための振りして自分のために使う人って何なんですか。そういう人の語気って大体断定ばかりだから、相手への配慮とかは本当に感じられないんです。

世の中100人中100人に受け入れられるものなんてほとんどないんだから、と思っても、個人が自分らしさを求めて行った犠牲や研究や知識のことを一回でも顧みたらこんなこと言わないんじゃないかってものがあるのは事実です。

逆に、本人は素でやっていることをわざわざ「こういうところがいい!最高!」と故意に持ち上げるものもあんまり快くないんです。そういうものはだいたいなにかと対比されて持ち上がるのですが、対比にの対象になっているものが概念や思想ではなく今生活している人にも向いてしまう時がもやもやします。よし悪しは状況によるだろうというものを頭ごなしに批判する姿勢が多様性という言葉を使わないでほしい。

でも、そこに正義が宿っていて、犠牲も理解していたら話は変わってきてしまうが、正義は表裏一体で、ぶつけ合わねば何も変わらないから、私も私の正義を私の考えの至る範囲の人々を顧みて、常に自分の中の「最善の答え」を用意して立ち向かうべきだと思う。

私はいつもそういうことを考えても考えるだけで終わってしまうから、もっと私から変えていけるような努力をするべきだなと思った。

書きたい放題書いてしまいました。

2022年はもっと恥じらいも何もなく自分の意見を発言したいし、様々な方面への知識をつける努力をしたいし、周りを変えるには何をしたらいいかを行動まで移せるようになっていたいと思います。

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