先月末で突然一人退職した。

このどうにもならない気持ちは、ツイッターに投下していいねを貰うことで慰めてもらいたいところなのだが、と本音を言ってしまうとnoteを読んでくれる方に失礼になってしまうが、ツイッターで画面の向こうのフォロワーと、対等に関わるというのはとんでもなく難しいのだ。
本音を言ってしまうと失礼という点で話すと、先日職場の上司に(僕がいうと変だがとても優秀な上司に)軽く相談を持ちかけてみた。
ひとしきり回答をいただけたあとで、
「あなたは社会人として出遅れているかもしれないけれど、それを気にする必要はない。これからどうしていくかだから。」
みたいなお伝えをいただいた。
ちなみに上司が相談に乗ってくれて、しかも二十代の僕に真摯に向き合ってくれることは本当に有難く、文字通り珍しく、恵まれていることだ。
とにもかくにも、ツイッターで本音を話すというのは、二十代半ばの社会人として、避けられるところは積極的に避けていきたい。
高卒なので社会人歴は若い者としてはそれなりに長くなってきたが、未だに人とぶつかることを厭わない性格なので、どうにかこうにかクセを直そうと四苦八苦しているところだ。

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僕は、誰もが「大変だったね」と言うような、同級生は「テレビの向こうの世界」と言っていたような家庭環境で育ったので、それなりに苦労をしてきたといえるはずだ。
いまでも一応その苦労は続いているが、一人暮らしができているため、働いてもお小遣いが月に五千円ということくらいが窮屈なだけで、別に生活費に困っていない。
職場と自宅の往復をしていれば事足りる生活ができている。
お金がないと精神的に参ってしまうこともあるが、衣食住はそれなりに整うようになった。

そういうことだから、苦労をしてきたといっても既に昔のこととなってしまった。
「現在」を生きる「僕たち」にとって、想像だけれど現時点で苦労を重ねている歳下の世代からみると、僕はのんびりしたオジサンというくらい、差があるようにみえるのかもしれない。
そうは分かるものの、感覚的に僕は高校生に毛が生えたくらいの精神年齢のままである。
時間は待ってくれないし、そのうえ実際の高校生をみると、こんなにも幼いのかと半ば驚き、またもう半分は現実が垣間みえるのだが。
だから、「僕たち」にとって「現在」に価値がある以上、僕にお金がなさすぎることとか、そういうのは歳下で現時点で苦労をされている子からすれば、問答無用で拒絶だ、と断罪されてしまうかもしれない。
どうやって寄り添えばいいのか、なにを言ってあげるべきなのか、考えていくと彷徨ってしまって、僕にはあまりよく分からなくなった。
僕がしんどかったときは愛と食事が欲しかったけれど、僕は男性だから僕の愛(?)にニーズはないだろうし、というような具合だ。
その態度が、さらにイラつかせてしまうこともあるかもしれない。


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職場で一人退職した。
予算の都合上、いずれ人員が補充されるだろうと噂されている。
本当は僕が何か動かなくてはいけないことは分かっていた。
でもそれ以上に、何もできないことも、余計なことをして状況を悪化させるのは避けるべきということも理解していた。
「仕事だから。」
よく聞く言葉だ、本当に何度聞いたか分からない言葉なのだが、「仕事だから」に続くのは「仕事だから見捨てなさい」だったのだろう。
それが指示なら全く迷わなかった。
そうじゃなくて、僕たちはひとつの問題に負けてしまったのだろうから、少し後悔している。
ただ、もう後悔に苛まれることもなくなってきているので、どうせこの気持ちも忘れてしまう。

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親しい間柄になっていくにつれて、ケンカをして超えていかないと、僕は仲良くなったといえることはない。
でも、その価値観を押し付けてしまうのは、あまりにエゴというか、僕のなかに押しつけがましい正義感があることを客観的に察しているので、なんとか避けていきたい。
これでも少し大人になれたのだが。
どうやら大人になるというのは、迷わないことではなく、迷っても戸惑わないこと、迷いを受け入れることらしい。


ツイッターで、それはそういう意味じゃないと思うだとか、ちょっとでも否定的なリプライをするとすぐにリムられたり、ブロ解されたりしてしまう。
そういう行動を選択してしまうのは僕にも共感できるのだが、一応僕には「指摘されるうちが華だ」という理解が備わっている。
ただ、それをそのまま伝えてしまうと、暗に「人の話を聞けないなんて幼稚だな」というニュアンスも混じってしまい、それはそれは強烈な否定になってしまう。
多分、僕が否定したくなるようなツイートって、本人は自分が幼稚だということを、だいたい自覚しているんじゃないだろうか。

大人になるって、楽しいことが増えるのは確かだけれど、例えば僕は仕事が問題ないし、趣味の勉強も進んでいる。
だから苦労していたり、仕事に情熱をもてない人に変に同情してしまって、少し距離を感じる。
人生が順調になるように、それはそれは努力しまくったけれど、逆にいえば努力でどうにかできるような能力を備えていたらしい。
そんなに頑張れないよという人や、それは大した苦労じゃなかったと言われてしまうと、そうなのかな?そうだったのかな?と勘ぐってしまう。
どうやら、努力できることはそもそも羨ましがられることみたいなのだ。
東大生の頭脳は共有財産だとみなされてしまうみたいなツイートをみた。
気持ちは分かるけど…………
たかが大学生、十代後半から二十代前半の子どもに対して、そんなに本気で人格を拒絶するような言動って信じられなかった。
東大生も取り合ってないし、個人的にはそんな世間の声は無視して、もっと好きなことをやっていけばいいと、東大生を応援してしまう。

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とにかく、僕は本音を言いたくて仕方なくて、本当に幼稚で申し訳ないのだが、でも逆にいえば努力してきたことや、正しい意見をいえることに自信がある。
でも、いまやそんな正論とか、指摘されるうちが華とか、そういうのって時代遅れなのだ。
本当に最近、一昨年くらいまではどうやって目上の人に気にいられようとか、子供のままの感覚だった。
でももうそうじゃなくて、本音を伝えることを避けられるのが大人なんだとか、本音を伝えるならその三倍は本人を肯定する必要があるとか、そういうことを考える立場になってきた。
僕は正しいことは分かるけれど、それを伝える術をもっていない。
できるようにならなきゃいけないことが山積みすぎて困る。


2020/8/15

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