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感想: コレラの時代の愛

 コロナの時代なので、ガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』という作品を読みました。内容はどちらかというと、題のとおり「愛」について、あるいは愛という人生についてだったと感じます。

 初めて読んだガルシア=マルケスの著書は、『ガルシア=マルケス「東欧」を行く』というルポルタージュ作品でしたが、のちに作家であることを知り、文学作品も読みたくなりました。

 先日ドイツで知り合った、コロンビア人の友人にガルシア=マルケスの話をしたところ「あんまり本は読まないけど『百年の孤独』だけは読んだよ」と笑っていたので、そちらを読もうとしましたが、やはり、現在の状況をめいっぱい楽しむには『コレラの時代の愛』を読むほうがふさわしいだろうと思い、読むことにしました。


 なにか物語があるかといえば、人生がそこにあるというほかなく、なにかの目的があって話が進んでいくのではなく、ただゆったりと、あるいは慌ただしくも、等しい時間をもって人生が流れてゆきます。後記の解説で木村榮一さんが述べているように、ほとんど会話がなく、にもかかわらず飽きることなく読み進められるのは、語り口の巧さと、良いテンポ感によるものでしょう。

 好きな箇所がいくつかあるので引用します。

人生経験を積むと、だんだん父親が自分の息子のように思えてくるものだが、フベナル・ウルビーノ博士も父親をそういう目で眺めて、同情の念を抱くようになり、数々の過ちを犯しながらも孤軍奮闘していた父のそばにいてやれなかったことを悔やんだ。(166頁)

 ガルシア=マルケスも1982年にノーベル文学賞を受賞していますが、2017年に受賞したカズオ・イシグロの『日の名残り』においても同じようなシーンがあったことを思い出します。このような事柄について、わたしはかってに「老いと尊厳の問題」と呼んでいるのですが、避けられない老いと尊厳の折り合いのつけかたは難しく、切ないものだと感じます。もちろん、老いというのは悲しいことだとは思っていませんし、栄光からの転落だとも思っていません。むしろ、そう思えてしまうことが切なく感じるのです。

民政と軍の総括司令官が《コレラです》と説明した。ふくれ上がった死体の口のところに白い凝塊があったので、すぐにそれと分かった。うなじに止めの一撃のあとが見られなかった。「そうなんです」と司令官が言った。「神様もやり方を変更されるんですね」(365頁)

この前の文章で、このような節があります。

それまで望遠鏡で地上の様子を確認していた軽気球の操縦士がぽつりと言った。《死体のようですね》。そしてフベナル・ウルビーノ博士に望遠鏡を渡した。博士が畑の間の牛車や鉄道の線路の柵、水の涸れた灌漑用の水路などを眺望したところ、あたり一面に死体が転がっていた。大沼沢地の町々にもコレラの被害が出ているんですね、と誰かが言った。ウルビーノ博士は望遠鏡を目から離さずに言った。
「だとすると、非常に特殊なコレラでしょうね。どの死体にも、首筋のところに止めの一撃の跡が見えますからね」(329頁)

 感染症による死も、内戦による死も、死です。あるいは、フベナル・ウルビーノ博士のようにオウムを捕まえようとハシゴに登った際に転倒して死んでしまっても、それは死です。死は等しくやってきますが、しかし死の原因は等しくありません。なんだか不思議な気分になりました。

 現在も、日ごとの感染者数が減っているとはいえ、世界中に新型コロナウイルスで死ぬ人がいます。そして、それ以外の理由で死ぬ人も、この世界にはたくさんいます。感染症を悲劇だと捉えるのではなく、ひとつひとつの死と向き合って、ひとつひとつの問題を対処できるようにしたい。わたしは医学や科学の能力を持ち合わせていないので、感染症の患者を救うことはできませんが、このまま歴史や政治を学んでいけば、社会構造によって殺されたであろう人びとを救えるのかもしれません。

 救うという言い方もへんですね。わたしに何かが成し遂げられるとは思いませんが、それに気づけただけわたしはこの本に救われました。


 本はもっと「愛」を追求しているようで、愛にかんしての話がいくつも出てきますが、わたしには愛が理解できないので、感想を書くことはためらわれます。代わりに、最後にこの引用をもってnoteを締めたいと思います。

彼女のおかげでフロレンティーノ・アリーサは、自分では気付かずに何度となく経験してきた痛みを改めて思い知ることになった。つまり、人は同時に何人もの人と、それも誰一人裏切ることなく、同じ苦しみを味わいつつ愛することができるという教えを学んだのだ。(391頁)

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