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「最後のセリフ」の素晴らしさをひたすら語りたい

華恋とひかりが対峙して華恋が死んでポジションゼロ型の棺桶に入れられて電車に突き刺されてアタシ再生産を遂げて再びひかりと対峙して口上を言い合って華恋が「最後のセリフ」を告げてワイルドスクリーンバロックが終幕して華恋と東京タワーの中からポジションゼロが弾け飛んで東京タワーが砂漠に突き刺さるあの素晴らしいシーン、なんという名前なんですかね!?

例えば他のレヴューには名前がついていますよね。皆殺しのレヴューとか。でも最後の華恋とひかりのシーンだけ「○○のレヴュー」みたいな名前がついていないんですよね。監督がどこかのインタビューで「あえて他のレヴューみたいな名前をつけなかった」と言っていた気がする…。でもいくつかの記事では「再生産のレヴュー」(アニメディア 2021年10月号)という名前が使われていましたがあれは正式名称なのか…?ここでは取り敢えず「最後のセリフ」シーンと呼ぶことにします!

★追記
古川監督が横浜ブルク13の舞台挨拶で「レヴュー名を2、3日前に最後のセリフに変えた」と発言していたそうです。監督天才すぎるよ…。情報を提供していただいた めのフェさん ありがとうございます!!


最後のセリフの素晴らしいところは、なんと言ってもキャラクターが「動いていない」ところだと僕は考えています。いやいやいやいや最後のセリフめちゃくちゃ動いてるだろ!!と言われそうですが実際動いてるのってキャラクター以外の部分なんですよね。砂漠を爆走する舞台列車とか、縦横無尽に輝きまくるスポットライトのCGとかが死ぬほど動いている一方で、意外と華恋とひかりはFIXだったり、ただ立っているだけだったりするんですよ。これがまじでめちゃくちゃやばいんですよね…。普通に考えたら映画の最後はもうどんちゃん騒ぎのごとくキャラクターも背景も何もかも動かしまくってクライマックス!!!!にするもんだと思うんですけど、劇場版スタァライトはそれを一つ前の魂のレヴューで終えていて、そのあと映画のシメに最後のセリフを持ってきてるんです。そもそもアニメーションって、ディズニーが芸術に昇華させたときはキャラクターが動いてナンボでしょみたいな認識があったと思っていて、日本はそこから止め絵、歌舞伎でいう「見栄」みたいな技(同時に低予算ならではの工夫として)を使ってさらに別次元のメディアに変えてしまったと思ってるんですけど、まさしく劇場版スタァライトのクライマックスは日本アニメの歴史的なクライマックスでもあるんですよね…。キャラクターをぐりぐり動かさなくても、それ以外の舞台装置によってキャラクターを動かす以上の圧倒的な感動を与えることができることを証明しています。実はあの最後のセリフシーンは、舞台装置のレヴューだったのではないかとも思っています。劇場版スタァライトだけでなくテレビアニメ版のときから、スタァライトは常に舞台装置というものを際立たせていました。それはアタシ再生産バンクという、キャラクターを生み出している工場を見せるのが最も顕著な例だし、キリンも「舞台が、照明が、音響装置が勝手に動き出す」と言及していました。驚くべきことに、映画のクライマックスである「最後のセリフ」シーンは、キャラクター自らが全然動いてないんです。スーパー スタァ スペクタクルが流れ出してから終わるまで、華恋とひかりはほとんど自分で動いてないです。キャラクターは「勝手に動き出している」舞台装置によって演出されているのです。

これが本当に凄い!映画のクライマックスシーンでキャラクターをぐりぐり動かすのを止めることを決断できるのが凄い。やっぱり最後に一番すごい作画てんこ盛りどんちゃん騒ぎシーンを持ってくることが最もシンプルなクライマックス制作方法だと思うんですけど、あえてそれをやらないという決断が凄すぎる。だって、下手をすれば手抜きだと思われてもおかしくないわけです…。僕はシャフトのアニメが大好きなんですけど、よく「紙芝居」と批判・揶揄されているのを見て本当に怖いと思っています(制作が遅れていたのか、本当に紙芝居になっていた回も確かにあったけど)。とにかく何でもかんでも手当たり次第どんどん動かして観客にカタルシスを与えるより、キャラクターや画面を止めながら面白くするほうが遥かに難しいはずなのに!観客が手抜きだと思った瞬間に作り手の努力は吹き飛んでしまう。でも劇場版スタァライトは最後の最後でそれをやってのけたし、観客も絶賛することになりました。これはもう古川監督をはじめとするアニメスタッフが舞台創造科を本当に信じていないとできないはずだと思うのです。そして観客もそれに応えることができたからこそ、「最後のセリフ」は演者と観客たちのために捧げられた真のクライマックスシーンになっているわけです。

【余談】舞台装置、かっこよすぎ
舞台装置、かっこよすぎるんですよね。これまで散々クライマックスなのに動いてない!と叫んできましたが、それは舞台装置が動いているからこそ成立するものです。
特になんといってもスポットライトがかっこ良すぎる。古川監督が「アニメには発明が必要だ!」と宣言して、カミヤヒサヤス氏が作り上げた3D舞台照明。このスポットライトがなければこの「最後のセリフ」シーンは成立しないと言っても過言ではなく、そういう意味でもまさに発明と言えるとんでもないものだと思います。
華恋が一度死んでから生き返るまでの時間、華恋はポジションゼロ型の棺桶に入れられて舞台列車に刺さってるし、砂嵐はやってくるし、ロケットエンジンが点火したりと訳の分からないことばかり起き続けてからの、観客に「このあとどうなる?どうなる??」と思わせてからの、華恋誕生。ここで真正面からスポットライトの明かりがぐわああああっと観客席を照らすわけです。これはもう祝福ということですよね…。おめでとうシーンなわけです。スタァライトにおいてはスポットライトをはじめ、舞台装置の全てがキャラクターになっています。ただの無機質な演出上の明かりじゃないんですよね。スポットライトは生きているし、意思を持って演者を照らしているのです。つまりこれはスポットライトが演出者でもある(どのシーンで、どの演者をクローズアップするか決定している)わけで、すなわちアニメでいうところの監督とか演出家とかの仕事を表現していると言うことが出来ます。あのアニメの世界に古川監督がいて、スポットライトを舞台袖からぐりぐり動かしていて、アニメの世界のキャラクターから見ればそれらが「勝手に動いている」ように見えるという話なんですよ…。余談終わり。

実際にキャラクターが止め絵になっている時間を調べてみましょう。例えば華恋がポジションゼロ型の棺桶から出てきて「♪二人の~スタァライトたどれば~」のところで列車の上に立つ華恋が描かれますが、ここから華恋は60秒間にわたってずーーっと立ったままです。そこからひかりと対峙して、自分の口上を言い始めるところも立ち絵。ようやく足元から華恋のPossibility of Puberty(思春期の可能性、名前かっこよすぎ)が登場したところでやっと華恋は動くという感じ。クライマックスなのにキャラクターが1分も止め絵のままの映画他にあります???

これ現実でやっている人がいて、マイケル・ジャクソンなんですけど…
1992年、ルーマニアのライブでマイケルはステージに登場したあと1分39秒間もずっと立ったまま微動だにしなかったそうです。これによって観客は興奮状態に陥り次々と失神してしまったとか。なんだか最後のセリフと似たものを感じてしまいます。

▲華恋がポジションゼロから出てきた時、このライブの観客と同じぐらい叫びましたよね、心の中で

実際、最後のセリフのあたりってわりと失神してるまでありますよね。先日古川監督が舞台挨拶で

「スーパースタァスペクタクルのあたりはみんな気絶していると思う。だから何を見たのかよく分からなくなって何度も見に行ってしまう」

2022年4月18日 舞台挨拶@新宿ピカデリーでの発言

って言ってましたけど本当にそうだと思います。脳の感情許容値を上回る勢いでスクリーンから情報が飛び込んでくるんですよね。そしてこれは「とにかく何でもかんでも手当たり次第どんどん動かしてカタルシスを与えるクライマックス」とかではなかなか難しいものだと思います。なぜならどんなにアクション作画や映像全体が物凄くても、脳の処理能力を超えたものは処理が追い付かないから限界があるわけです。つまり観客を気絶させることは難しい(観客を気絶させるな)。でも最後のセリフは「キャラクターは基本的に止め絵」+「動きまくる舞台装置」+「スポットライト」という「静」と「動」を両方向から使い尽くすことで、視覚における脳の処理速度は超えないままスクリーンから飛び込んでくる感情値だけはありえないぐらい多くすることに成功しているんですよね。脳の安全装置が機能しなくなった状態で、スクリーンからは容赦なく華恋とひかりが飛び込んでくる状態で正気を保つ方が難しいわけで、自分も初見時はシナプスが焼き切れて劇場版スタァライトの記憶を失ってしまいました。

気絶するもう一つの要因としては音ですよね。

視覚だけにとどまらず、耳も感情許容値を超えているわけです。ここまで敢えて言及しませんでしたがスーパー スタァ スペクタクルという音楽が果たした役割はとてつもなく大きいと思います。それは「最後のセリフ」シークエンス全体の感情線を決定しているからです。感情線というのは今思いついた言葉ですが、簡単に言うと映像にメリハリを与えるということです。音楽はまずヴァイオリンのフェードインから始まりました。いつの間にか音楽が流れているというわけです(怨みのレヴューとは対照的ですね)。そこから華恋が東京タワーから落とされて砂漠の夜が明けると音楽はいきなりマッドマックスになります。メリハリが凄すぎる。

▲これの 2:05 からスーパー スタァ スペクタクルっぽくなります。

そして華恋が東京タワーに戻ってくると Jesus Christ Superstarになるわけです。

このメリハリは異常ですよね…。僕は仕事で様々な映画やアニメ、ドラマのサウンドトラックを聞くのですが、こんなサントラはあり得ないです。レヴュー曲全般に言えることですが、サウンドトラックとしても、1つの音楽としても詰め込まれている要素・展開が多すぎます。メリハリをつける目的は観客の感情をコントロールするところにあるかと思いますが、スーパー スタァ スペクタクルは完全にやりすぎです。観客からしたら音楽の展開が想像を超えすぎているのに脳の処理能力は超えないように調整されているので、耳から無限に感情を受容することになって気絶するわけですね。

そして音楽が映像の感情線をコントロールするものだとしたら、効果音は映像の感情点をコントロールしています。「このポイントでこの音が流れる」というのが効果音の役割ですよね。それはスポットライトが光るのと同時にバババババン!!という効果音が流れるからこその感動もそうだし、青いキラキラした宝石に音がついているのも意味があります。それはおそらくテレビアニメ第5話で描かれた露崎まひるから見たキラめきの演出に音がついていたから、こちらの宝石にも同じような音がついているわけです。すなわち、この青いキラキラした宝石は、華恋の目に映る神楽ひかりのキラめきだということが音で分かるんです。そしてもうひとつ素晴らしい効果音ポイントとしては、ひかりが「貫いてみせなさいよ、あんたのキラめきで」と言ったあとカメラが華恋にトラックアップするところで列車の音が入ってるんですよね。つまり冒頭で華恋が運命の列車に轢かれるところのリフレクションと分かるわけです。華恋は最後に運命の列車に立ち向かうことが出来たんです!!これが分かるのも実はSEの効果が大きいですよね。

そして神楽ひかりに刺されるわけですけど、貫いてみせなさいよって言ってたのにお前が刺すんかい!!って思いましたよね初見!!!あれはでも神楽ひかりが華恋を刺してあげてるんですよね。華恋に穴をあけて、華恋の中から二人の約束の舞台の象徴、そして華恋が舞台少女を目指すために犠牲にしてきたあらゆる可能性の象徴としてのポジションゼロを出してあげて、このレヴュースタァライトという呪いから解放する。刺してくれてありがとう神楽ひかり…。

なんかもう記憶を失うとか気絶というよりも死んでる気がする。この最後のセリフを見たあと、見る前の自分は多分刺されて死んだのだと思います。観客を殺して生まれ変わらせてくれる映画もそうそうないので本当に出会えて良かったと思います。大体「最後のセリフ」ってテロップなんだよ…映画に「最後のセリフ」っていうテロップが入ることなんて想像できないですよね…つまり最後のセリフさえも演目だったんですね。怖いよスタァライト。多分あの最後のセリフっていうテロップが出たところで僕は死にました。散文を最後まで読んでいただきありがとうございました!

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