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ルーツ・オブ・ジミー・バトラー

「お前の顔が気に入らない」

そう言ってジミーの母はジミーを家から追い出しました。ジミーはその時13歳。お金は持っていませんでした。

そして31歳になった今シーズンのジミーのサラリーは約億円。今の契約が終われば、NBAのサラリーだけで約220億円の稼ぎになります。

逆境という逆境から這い上がってきたジミーの中学~NBA入りまでを簡単にまとめました。

家を追い出された後

家を追い出されても頼る人がいなかったジミーは友人の家で寝泊まりするようになりました。それは高校卒業するまで続きます。

ジミーはホームレスになったとは決していいません。ホームレスは橋の下で寝て、道で金を物乞いをする人たちの事で、自分には家があったと言います。しばらく泊めてもらって、また次の友人の家に泊まる… そんな生活が続いていたそうです。そして、ジミーが高校3年の頃、運命を変える出会いがありました。

中学3年のジョーダン・レスリーは、地元トーンボーンでバスケで目立っていたジミーに注目していました。あるサマーリーグの試合の後、ジョーダンはスリーポイントで競争しようと誘います。その後2人はすぐに意気投合し友人になります。ジョーダンは彼を家に招待するようになりました。

レスリー家

レスリーの母のミッチェル・ランバートには亡くなった夫との間に4人の子供がいて、現夫のレスリーには3人の子供がいたので、レスリー家には合計7人の子供がいました。7人の子供を育てるために、家計がとても厳しく、ジミーの分の食事を出してあげるのもたいへんだったそうです。また、その頃はトンボールでジミーは問題児だと言われていたそうです。そこで夫は子供たちに、ジミーが家に泊まれるのは連続して1晩か2晩だけだ、と伝えました。

しかし、子供たちは1日ごとにジミーを招待し回って、毎晩違う子が「今夜私がジミーを招待する」という作戦を続けたので、最終的にミッチェルと夫が折れたそうです。彼らはジミーがそれだけ子供たちに愛されているなら仕方ないと考え、彼にこれからずっと家にいてもいいと伝えました。ジミーに家族ができました。

でもそれには条件がありました。まず門限厳守。そして、クラスには出席して成績をよくすること。家事雑用をすること。もっとも重要だったのは、子供たちの模範になることです。子供たちはジミーに懐いていたので、ジミーは彼らのためにも、問題を起こさず、勉強を一生懸命にして、子供たちに模範を示さなければいけません。ジミーはそのすべてをやってくれたそうです。

ジミー:「私を家族に迎えてくれた。バスケが理由じゃなかった…信じられなかった」

(by Michelle Lambert)

バスケ

家族を見つけたことで、ジミーのバスケ物語が動きはじめます。

家族のサポートもあり、高校ではバスケチームのキャプテンになる事ができ、地元地区では1stチームに選出されるようになりました。しかし、AAUに参加していた訳ではないので、大学からのスカウトもなかったそうです。ミシシッピ州立大へ行けそうでしたが、奨学金がなかったのであきらめました。残った道は近くのテイラー・カレッジ(短大)に行くことでした。

本来ならここでNBAの道は閉ざされますが、ジミーはバスケを続けました。カレッジで1年生でエースになり、大学のコーチたちも注目しはじめました。

2008年にはマーケット大、ケンタッキー大、クレムソン大、ミシシッピー州立大、アイオワ州立大からオファーがあったそうです。ミッチェル:「彼にはたくさんのオファーがあったけど、勉強もできるようにマーケット大を選びました。彼には、バスケは長期的にみてうまくいかないかもしれないからマーケットに行くべきだと言いました。何かあった時のためにも教育と学位は必要ですから」

Ric Bucherの記事ではちょっと違っていて、オファーはマーケット大からしかなかったと書かれています。タイラーのアシシタントコーチはそれを車内でジミーから見せてもらった時、それがジミーの人生にとってどれだけ大切なのか瞬時に理解したそうです。ジミーのゴールデン・チケットです。それをすぐにマーケット大に送るために、コーチはその場でジミーに覚書にサインさせ、そのまま最寄りのマクドナルドまで行ってファックスを使わせてもらったそうです。この時ジミーは車内でコーチを待っていたそうです。

ジミーにオファーを出したマーケット大のコーチもバズ・ウィリアムスによると、彼がジミーを見たのは、ジミーのチームメイトをスカウトしていた時だったそうです。バズは当時アシスタントをしていましたが、ヘッドコーチがインディアナ大へ移ったためにヘッドコーチに昇進。1人選手枠を埋める必要があったので、ジミーを知っていた選手からの推薦を受けたバズはジミーにオファーを出したようです。なんだか軽い感じですね。最初はバズからは期待されていなかったようです。

バズ:「ジミーはテキサスで73位だった。全国ではない。72位の選手はシタデル大に行き、74位の選手はディビジョン2に行った。彼は認められてこなかった」

マーケット時代 厳しさと成長の物語

ジミーはマーケット大へ行った時、6-6で体重は200ポンドでコンディションが良いとはいえませんでした。そんなジミーにバズは厳しかったそうです。練習は激しく、いくら疲れていてもダッシュや守備などはできるまでやらされたりしたそうです。バスはジミーはもっといい選手になれると信じていたようで、特にジミーにはきつくあたっていました。バズは「ジミーほどつらくした選手はいない。彼はどれほどすばらしいのかわかっていなかった。人生でずっと良いと言われてこなかったけど、チームにはあらゆる角度から影響をあたえることができる」と言っていました。

そのため、ジミーは何度もバズに辞めると言っていたそうですが、その度にチームメイトやアシスタント・コーチたちから説得させられて思いとどまっていたそうです。

同時に、バズはただ厳しいだけではなく、過去を話さないジミーの信頼を少しづつ得ていく努力もしていたそうです。ジミーは過去を話すことが嫌いで、そのことについてあまり話すことはなかったそうです。それでも少しづつバズやチームメイトたちが自分のことを受け入れてくれて信頼関係を築くことができたからこそ、ジミーは厳しい練習に耐えられたのでしょう。

(Paul Sakuma / Associated Press)

練習にも慣れると、ジミーはジミーらしくなってきます。コーチには「今日私をコーチできるか?」「今日のコーチングはソフトなのかハードなのか」「やりたいだけハードにコーチしてくれ」と言っていたりしたそうです。もちろんチームメイトがディフェンスをまじめにやらなかったり、パスを両手できちんと取らなかったりしたらソフト過ぎると厳しくあたっていたりしたそうです。この時からジミーの競争心と鼻っ柱の強さは他の選手たちを圧倒していたようですね。ブルズのフレッド・ホイバーグやシクサーズのブレット・ブラウン、そしてウルブスのKATやウィギンスとは合わなかったのがわかる気がします。

またある時は、チームメイトとパーティーへ行って飲んだ次の日のブートキャンプでは、みんながヘロヘロなのに彼だけはきちんと走ったというエピソードもあります。チームメイトたちからは実は水を飲んでいたとか吐いたんだろうとか言われたそうですが、ジミーは「オレはそれでエネルギーをもらった」と返したそうです。タフですね。

そんなジミーは相手チームのエースを守ることも多く、特にプロヴィデンスのマーション・ブルックスやコネチカット大のケンバ・ウォーカーの守備でNBAのスカウトから注目されるようになりました。あるNBAスカウトは、ジミーのことを、「バランスが良く、どのチームに入っても即戦力として使える」と評しています。

ジミーが試合にスカウトが来ていると知ったのはシーズンが終わった後だったそうです。これでNBA入りも視野に入ってきました。

そして、大学の最後の試合の夜がやって来ました。ジミーがコートから出て行った時、ファンたちから声援を受けたのを見たミッシェルは泣いてしまったそうです。トンボール時代は高校のコーチも校長もはじめ、誰も彼のことを信じませんでした。それが大学ではファンやチームがあのジミーを応援してくれている... ジミーのつらい時期を見てきたミッチェルにとって、チームからもファンたちからも受け入れられたジミーの姿は何よりも誇らしいものだったに違いありません。

ミッチェル:「私はずっと泣いていました。その夜は完全にぼやけて見えていました」

ミッチェルは続けます「ジミーはいつも私たちが彼にやってきた事を言ってくれるけど、彼が私たちに与えてくれたこともあります。彼は私たちも変えてくれたんです。彼の家族になれて、私たちも良い人間になれました」

バトラー:「彼女は、私が私として成長するのをを助けてくれた。愛している。私を産んでくれたと思っている。毎朝彼女と話す。私の家族だ。それがミッチェル・ランバートだ。彼女は私の母だ」

ジミーは、大学バスケを通して、中学から高校の頃にはなかった自分を信じてくれる家族、チーム、コーチを得ることができました。そして、それは激しい練習を乗り越えた先でやっと手にできたものだからこそ、ジミーにとって「激しさ」は自分をつくる大切な一部になったのです。だから、例えそれを人からどう思われ(*ブルズ/ウルブス)、何を言われようが(*メディア)、「自分自身でいる」ことを貫き通しているのではないでしょうか。

ドラフトまで

ドラフト・コンバインでは強い印象を残し、ポーツマス・インビテーショナルではMVPを獲得し、ドラフトのモメンタムに勢いが出てきました。ドラフトのためにジミーのワークアウトをしたすべてのスカウトやGMの間では評価が高かったそうです。特にインタビューでは、ジミーが逆境を乗り越え続けて続けてきた若者を見て、偉大さを感じたGMもいるようです。

ドラフト当日、ジミーはテキサスに帰り、レスリー家で過ごしたそうです。

そしてブルズにドラフト30位指名!

実の母親からも見放され、友人の家を泊まり歩き、高校の時にテキサスランキングでNo.74で、大学からのオファーもなく、それでもあきらめずに短大でバスケを続けた若者がNBA入りすることになったのです!

ヒート

それからもジミーはハードワークを続け、MIP受賞、オールスター選出、マックス契約と成功し、このファイナルズでの活躍でスターの仲間入りを果たしました。なによりもヒートというジミーのすべてを受け入れてくれるチームに行けたのが大きいですね。きっとジミーにとってヒートは大切なものを見つけたマーケット大のような場所なのではないでしょうか。

信じてくれた球団、コーチやチームメイト... 彼らがいたからこそ、ジミーはプレーオフですべてを出し切れたのだと思います。

NBAファイナルズ前のジミー:「自分自身でいる事がかつてないくらい心地いい… 今は自分自身でいることが正しいとわかる」


ジミーはあまりメディアに取り上げられず地味だったので(これも変わる)、彼のキャリアを知らない人も多いのではないでしょうか。かんたんにジミーのNBAのキャリアをまとめました。

2011-12シーズン:NBAにドラフト30位でブルズに入団。

2013-14シーズン:NBAオールディフェンシブ・セカンドチーム

2014-15シーズン:NBAオールスター初選出/NBAオールディフェンシブ・セカンドチーム/MIP受賞

2015-16シーズン:NBAオールスター選出(左膝ケガのため辞退)/NBAオールディフェンシブ・セカンドチーム

2016年:オリンピック金メダル

2016-17シーズン:NBAオールスター選出/オールNBAサードチーム

2017年:ウルブスへトレード。

2017-18シーズン:NBAオールスター選出/オールNBAサードチーム/NBAオールディフェンシブ・セカンドチーム

2018年:シクサーズへトレード

2019年:ヒートへトレード

2019-20シーズン:NBAオールスター選出/オールNBA3rdチーム/NBAファイナルズでスターに


参考サイト:Jimmy Butler finds a new home, hope

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