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いとおかし5 朝寝八石

日本の全ての物語は、インド・中国からもたらされた「お経」や「お説教」の「おはなし」がはじまり

おもしろいお話を 少しでもしってほしくて

「朝寝八石」

 大和国奈良には、「朝寝八石」ということわざがあります。正しくは、「朝寝坊は八石の損」。これにまつわるこんなお話がございます。
 

興福寺の歴史


 今も奈良公園に参りますと、鹿が沢山おります。ここの春日大社に祭られています主たる神さまは、近畿では藤原の姓をいただきます「中臣氏」の氏神さまなのです。軍神ともいわれまして、768年に春日大社が創建された時に、常陸の国の鹿島神宮から白鹿に乗られて奈良へ来られたといいます。そこで、春日大社および奈良では「鹿は神様の使い〈神鹿〉」として、ずっと大事にされてきたのです。
 
 一方日本の名家であり、多くの人の祖先にあたるのが藤原氏。佐藤、伊藤、後藤、なっど「~藤」という姓は、その後裔であるといわれます。歴史上の人物でその祖である藤原鎌足の妻は、仏教に帰依し夫の病気平癒のために、山背国山階(現・京都市山科)に「釈迦三尊像」を祭られた「山階寺」を創建されました。都が藤原京、平城京と移転するに合わせて、この寺も奈良へ移転しましたのが「興福寺」なのです。以後、春日大社と神仏習合しまして、春日大社の神様は観音様、地蔵さま、薬師如来が本地とされ、興福寺が春日大社を合祀しているかたちで明治維新まで続きます。そこでは、僧侶が社僧となります。

 興福寺は、藤原氏の権力が増大することで氏寺から国家の寺になり、大和国を領地とするような大権力になります。それは、織田信長と豊臣秀吉が政権を把握するまで続き、大和武士や僧兵を抱えて、大和国を仏法領として栄えたのです。やがて戦国時代を経て、その政治権力は削られ、織豊政権から江戸幕府にいたって政教分離がすすみ、二万一千石を与えられて政治とは一線を画して、一大宗教勢力となります。

鹿は神鹿

 
 この歴史の中で、鹿はずっと「神様の使い〈神鹿〉」として養われてきました。興福寺=春日大社が領主であるということは、裁判権処断権をもっているということです。いつしか門前町から奈良一帯では、「鹿を殺してはならぬ」「鹿殺しは人殺しと同等」ということが不文律になり、「鹿を殺せば死刑」ということが定めになり、興福寺によって処断されたようです。 
 「シカを損なうものは春日の権現さまを損なうもの」だから、死罪。中世に3人が石子詰めで死刑になったという伝承が春日大社に伝承され、遺跡も境内に残されております。そして、この定めは宗教的な背景をもったタブーとして、江戸時代になっても興福寺の伝統としてずっと言い伝えられ、行われてきたのでした。
 というてもシカですから、死にます。これが店先なぞで死んでおりますとえらいことになる。まずは人が死んだのとゝで町役へ届を出さねばなりません。そして、奈良奉行所の役人の死因を含めて詮議、おしらべがある。結果、自然死であったとしてもそれが判明するまで、一月二月と御調べがあると商売も何もあがったりになります。現在でも、SNSの書き込みや噂だけで潰れる店はありますからね。そこで、いつしかその対策も行われる。
 

シカが死んでいたら

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