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いとおかし11 キリがない 

紀伊国屋亦右衛門

文左衛門じゃない

紀伊国屋といえば、みかん商いで分限者となった紀伊国屋文左衛門が思いだされる人も多いでしょう。五十嵐文吉は、紀州湯浅出身で江戸で大商人となったので、出身地域を「屋号」としました。土地持ちの一次産業者以外は、京・大坂・江戸の三都や、各地の城下町へ移動して、商売人になるものも増えたのが元禄バブル時代。

この時期から、屋号に出身地を入れることが増えます。歌舞伎で「紀伊国屋」といえば、京役者の系譜をひく澤村宗十郎家のこと。

「衛門」とはもともと朝廷の警護担当役所のことで、9世紀以降は左右二つあった。そこで勤務したものが「~衛門」と通称にし、時代が下って武士が一般名として使用し、箔漬けとして、江戸時代から明治にかけては農家や商家の男性の名前にも使われるようになりました。

ああ、左衛門と右衛門では天皇からみた左右で、「左」が上位だそうです。向かっては右側になりますね。今、京都市区域をみれば、地図上の右(東)が左京区、左(西)が右京区になります。

それで、文吉は幕府の御用を引き受ける大商人になったときに、「文・左衛門」と名乗ったというわけです。同じく「~兵衛(べえ)」というのも、左右兵衛府から由来した名前でです。

亦右衛門(またえもん)

さて、お話の主人公は、亦右衛門。大坂の商家、紀伊国屋で奉公していたといわれるので、その時代は亦七とか亦吉とかであったでしょう。のちに店主となって亦右衛門となったのでしょうが、ややこしいので最初から、亦右衛門で通しましょう。

あるとき、商才を見込んだ紀伊国屋の旦那が、亦右衛門を呼んで言った。「おまえはいかにも商売向きの才能を持っている。金百両を与えるから、思う存分好きな商売をやって 一千両にしたら帰ってこい。」

京都へ出る


亦右衛門は、京都にのぼり西の洞院に店借りをした。 初めから大きな商売をしては失敗するかもしれぬ。小さい商いから始めて確実に利益をあげてゆこうと考えて、紙くずを集めそれをちり紙にすくというこまめな仕事を手掛けた。三年間に三百両でき、五年間でついに千両の財産を作った。たいしたもんで、そこで、
「先年頂きました百両で、千両の資本を作りました。」
と、亦右衛門は大阪の主人の元へ帰ってお礼の挨拶をした。

大商人への道

主人は彼の商才に感心し、
「才能のある人間だと見込んではいたが、驚いた奴だ。今度はその千両で一万両作ってみないか。」
と激励した。亦右衛門は、畏まってもう五年かかって言われたように一万両にして帰ってきた。 

主人は驚嘆したが、ならば今度は十万両にせよと言われたので、亦右衛門、
「百両を千両にし、千両を一万両にするのは大した骨折りでしたが、一万両を十万両にするのはいと容易なことでございます。」
といい、三年後にちゃんと十万両をもって帰ってきた。

主人は京で紀伊国屋の名前があがり、商売繁盛しているので、
「さてさて、お前の商売上手と辛抱強いことには感服した。それなら、これを百万両にすることも容易いであろう」
とさらに、言うたので、亦右衛門さらに畏まってこう答えた。
「なるほどこうなりましたら、十万両を百万両にすることは一万両を十万両にするよりも易いことであります。」

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