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いとおかし、いとおかし11

プロ仕様です。法話・説教に関心があればどうぞ。話すための台本ですので、読む法話とは少し違います。

冬説教「煩悩具足(ぼんのうぐそく)」一座前席


讃題)

〽煩悩具足と信知して. 本願力に乗ずれば.
すなわち穢身すてはてて. 法性常楽証せしむ

 

法説【釈】) 

仏教は仏道といいますから、ブッダになる方へ向かってブッダになるように生きていくという教えです。最初に読みそなえましたのは、そう生きて行かれた、親鸞聖人が、唐の善導大師さまをほめたたえられたお歌、和讃であります。

中国語漢文でかかれた善導大師様からの教え、うるおしをやわらげて、日本語におきかえてほめられたもの。そのみ教えは、自覚して仏道を生きていけということではない。反対常にアミダさまが「よりどころ」となり、私たちを仏道を歩むものと育てられていくぞと聞かれたので、親鸞さまは仏徳をこそご讃嘆なさるのです。仏道における自力、とは自覚の道、対して他力とは、仏さまのお力のことで、仏さまに調理されるままに仏道を歩むという道です。

〽欲深き 人の心と降る雪は 積もるにつけて 道をわするる
(くりかえし) 

こんな道歌、人生の生き方を問う歌があります。しんしんと雪がふりつもる季節になりました。雪国のお寺では、朝のおつとめのあとはまずは雪かきだと、友人達がアップする写真から教えられます。そうしないと誰も家からでられない。道が見えないので進めないのです。 

日本では、剣道柔道に茶道華道芸道と、スポーツ文化においても「どう、みち」というコトバが使われてきました。かつて彫刻家弟子人の高村光太郎が、「〽ぼくの前に道はない ぼくの後ろに道はできる」 といわれた。ように、道路はある方向にむかって進んでいく足どりに喩えられ、人生そのものとも喩えられます。 

「道」といえば、スポーツであれ文化活動であれ芸能であれ、単なる趣味や娯楽にみえても、それを人生として生きる人があり、またそれを生業とされている人にそれを習うことで、生き方そのものを習っているということになります。 

日本語で「みち」というときは、そのように「生まれがい・死にがい」をいい、ある規準、価値観のある生き方を意味しております。「欲深き 人の心と降る雪は 積もるにつれて 道を忘れる」とは、

 

〽目の前の雪で道がかくれているように、ドンドン毎日」おきてくるこの世での欲望をむさぼる、それがうたがいもなくわが人生やー、と。 人生のまことのねうち、このいのちを尊く生きることを自分の欲で隠してしまって、迷っていくよ、と教える歌です。

 そんな様を、「煩悩具足」とアミダさまは見抜かれた。煩悩という自己を支配する衝動のままに、目の前のことにウロウロしている。それだけの人生になっているものと。その上それで満足しているものであると、見抜かれたから、じっとしてはおれなくなり、教えにこられる。

 

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