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もっとかろやかに


#創作大賞2022

私は昔から好奇心旺盛な子だった。幼い頃の写真を見返すと、ベロをだして右手をちょうど顔の前に振り上げ、
海外のやんちゃな男の子がFワードを発するそのポーズにも似た、なんとも挑発的なポーズで写真に写っている。これが私なのだ。思春期に大人しく振舞ってみたり、社会にでても社会に適用しようと猫をかぶってみても、所詮根はこれなのだ。この1枚の写真がすべてを物語っている。

人間もって生まれたものは変えられない。どんなに環境に適応しようとがんばってみたところで、結果はうそをつかない。それは恋愛関係、仕事関係、家族関係、すべてにつながっている。そう悟るまで色んな経験をした。
結局は収まらないのだ。じゃあその収まらない経験がすべて無駄だったとは思いたくないし、そう信じたい。
世の中いろんな生き方があふれているが、よく変わっていると言われるので実際変わり者なんだろう。
時代に合わなかっただけか、はたまたそういう使命をもってこの地球に生まれてきたのか。

最近UFOを見た。飛行機かと思って、交信してみた。右に移動してみてください、左に移動してみてください、
消えてみてください。その通りにやってくれた。驚いた。現実なんだ。
なんか心が通じ合ったような気がして、夜中3時半に満たされた気持ちになった。宇宙人はやっぱりわかってくれてるんだ。そのあとも夜空を見上げては、あれ星か飛行機か?と念のため話かけて交信してみるも全くUFO
らしきものは見なくなった。一つ言えるのは宇宙人の話をその夜友人としたこと。もしかしてそれを聞いてくれて現れてくれたんじゃないのかな。

それを機にではないが、私は私生活で変化があった。周りの変化というよりも、自分の中で何かが終わり、
何かがスタートした。仕事のモチベーションが減り、量を自ら減らした。
ぼーっと物思いにふけることが多くなった。自分の潜在意識の水面下で何かを分析しているような、整理整頓しているようなそんな時間だと思う。自分しかできないと思い込んでいた仕事がそうでもなかった。きちんとまわっていた。自分の中に余裕が生まれた。なんだか心の断捨離をした気持ちだ。なぜこんなに一生懸命やっていたのだろうと思う。やりたかったのかやらないといけないからやっていたのか、気づけば疲弊していた。
そこにはわくわくはなかった。あの好奇心いっぱいに外を見ていた自分がいなかった。

よく何かを手放すと何かが入ってくるというフレーズをきいたことがあったが、本当にそうだった。
これは偶然ではないと思う。新しく出会う人だったり、たまたまその日に興味のある文化教室が開催されていたり、御縁を感じる出来事が紐でつながっているかのように、とんとんと起きてきた。
そういうタイミングだったのだろう。人は渦の中にいても気付くことはない、自分が気づいたように思っているだけで実際気づかされているだけだ。
何か大きなエネルギー分子の偶然の重なりの連続で、それは突然すとんとやってくる。
私はもう運命論を信じざるを得ないところまできている。自分で選択しているかのようで本当は違うんじゃないか。このタイミングでこんなこと起きる?というメッセージ性を信じざるを得ない出来事が起こる。
そう思ったら心が軽くなる。結局なるようにしかならないのね、天におまかせってことね。今ある生を受け入れ、
その日までがんばって生きたらそれでいいと思えるようになった。
正解も不正解もない。人の生き方をどうこうジャッチしても何も生まれない。

さあ今日は何を食べようかな。
日本に住んでいるアメリカ人の友人がヨーロッパを旅行して日本に帰ってきたとき、何食べたの?と聞かれたが、
あれは日本人しかきかない質問よ、アメリカ人は何食べたの?なんか聞かないわと言っていたことを思い出した。
面白いな。日本人食べものに興味あるもんな。私も聞くと思う。日本人って世界水準で言うとほとんどオタクなんだと思う。

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