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『生き延びる叫びよ』 (予告編)

【悪いのは】


 ロバータ・フラックの"Killing Me Softly"が頭のなかでこだまする。曲のトーンに陰うつさは感じられない。ただ、自分の行いを省みると、この曲が頭でループするたびに、叫び出したくなるほどの苦しみを覚える。

 「逃げて」--。かのじょの最後のひと言だった。どこに逃げるべきなのか分からないまま、僕は右に行き、左に行き、前に進む。後ろに戻れない。涙は流れない、不思議と。

自分が安全でありたい、解放されたいと、願っているだけなのだろうか?

 恋人を殺めたというのに、自分だけは捕まりたくない、誰にも追われたくない--。自分のあざとさに幻滅していると、自己嫌悪を感じるように演じれば、罪の意識が軽くなってゆく気がした。

そんな自分の心は、夜明けに光る太陽に見透かされているのだろう。

 最低すぎる。初めて大罪を犯した人たちは、このあさましい自己嫌悪感と「せざるを得なかった」との正当化する気持ちに、揺らされるのだろうか。

【破滅する月へ】

                ***
 「ねえ、加害者になる気分ってわかる?」とみえ子は言った。夜中の2時、個人が経営しているバーの中は静かだった。フランク・シナトラの"Fly Me to the Moon"が閑散とした店内に、虚しく響いていた。

 「どういうことだろう?たまに、みえ子は突然なんだよ、話がさ。答に困っちゃう時があるんだよね。確かに自分がなったことはあるはず。だからといって、加害を加えている時にどんな気分でいるかは、言葉にしにくいんだと思う。加害すること以外頭にないんじゃないかな」と言うと、みえ子が一呼吸置いて、「わたしはね、他人の不幸をひとり占めした気がするの。なんだか、それが自分の幸せに思えて」
 「よく分からないな」と言うとかのじょは微笑んだ。
 「まあそろそろ店を出ましょう」と言い、会計を済ませた僕らは、夜中の暗さに包まれながら、解放された気になっていた。何からかは分からない。分からないままでいいのかもしれない、と思っていた矢先に、かのじょが万札の束を見せつけた。

 目算して数十万の額ではなさそうだった。

 その札束の枚数で大体、百数万円と気がついた。

 僕は、浮かれず、同時に、何か悲劇の始まりかもしれない、と思いを抱いた。間の中途半端な気持ちで無機質な万札を眺めていた。

 まるでそこに存在しないかのように。確か「イージー・ライダー」では偶然手にした、大金と言えるような、言えないような、金を手にして悲劇に突っ走る。なのに、浮かれていたっけ。

 なんだかそんな顛(てん)末が見えていた気がした。ぼんやりと考えていた矢先に突然、だ。

 死去した父の言葉が脳裏に浮かんだ。眼前の金額の驚いたものの、なぜか。

 「いいか、健一郎。金なんてさ、賞味期限付の生き物みたいなもんさ。その額が10万だろうと、1000万だろうと。億単位だろうと。賞味期限を延ばすか、明日にするかは使い道次第。単純に延ばしたきゃ、タンスにしまうなり、新しい口座に入れときゃいい」
 と、税理士だった父が饒舌(じょうぜつ)に話していた過去を思い出した。
 「がな、期限を縮める手っ取り早い方法はよ」
 「散財?」と、中学生の僕は覚えたての言葉を、あたかも自由自在に操れるかのように、言った。
 「散財…まあ、『溶かす』とも言えるな。泡みたいに消えちまうんだ。金は理性を狂わせる、諸悪の根源と覚えとけ」と言い、すぐさま新聞に目を通した姿--。突然、出てきた百数万を見、驚くこともなく、冷静に鮮やかな記憶が蘇った。

【光】

 夜中の光は煌々(こうこう)と僕たちを照らしている。そんな気がした。すべてが見られているのだろうか。突然、機能不全に陥ったような僕の姿を見、みえ子は「健一郎、何を狼狽えているの?このお金、使いたいと思わないの?」とすかさず返した。

 「使ったところでさ、なんの得があるのかな?」と応えると、
 「徳も損も、何も私たちは記号なのよ。地球に生きる記号。お金も記号。生きる記号が、お金って記号を動かしたところで、散財したところで、地球はビクともしないじゃない?」
 「でも記号の僕らは何が何だかってなるのが普通じゃないかな」と、「記号」という言葉--突然な、理解に苦しむ言葉を即座に消化した自分が、現代社会の奴隷になっていると、すぐさま気がついたように思えた。

【社会のアリ】


奴隷なんだ。

 記号として生き、記号を使い回す。そして記号として死ぬ。そんな簡単な話なのだろうか、すぐさま腑に落ちた。

 「いいよ。出所だけ知りたいんだ。ここで話すことじゃないだろう?」と言うや否や、ゴネると予想していた。だが、反してみえ子は従った。中野のマンションに帰ることにした。

 拾ったタクシー越しに眺める、町のネオンは「記号」である、人間の僕らと違って、生が宿っているように思えた。

 生きているネオンと記号にすぎない人間の非対称性に、僕はつい、笑みをこぼした。きっと、ワーグナーのオペラにみられる生きる苦しみを、町の生命力にみなぎった光は、嘲笑っているのだろう。

 マンションに着くなり、みえ子は「健一郎の気持ちがね、"Ready or Not"なのか確かめたいの。隠れられないわ。ここで話の先を、曲の進行に合わせて進めるのよ」と、キザなセリフを放ち、僕を中に導いた。


【まばゆい夜に】


 マンションのなかに入った。みえ子は自信に満ちた笑みを見せた。反して、僕は困惑した。
 ことがことだ。

 心穏やかではない--突然の百数万円の姿、外でけたたましく鳴るサイレンの音。もうすうぐ夜中の4時だというのに、心の落ち着きのなさとパトカーの赤灯が、僕らにあてられているような気がした。

 睡魔に襲われることなかった。眠気をライトが照らし、僕から睡眠する猶予を奪っているように思えた。

 落ち着かない。

 テレビだ。つけてなにが起こっているのか、確かめられない限り、僕に照らされる、赤色のライトは消えないように思えた。

 そう思い、リモコンに手を伸ばした矢先に、みえ子が「ねえ、つまらないことしないでよ。今日は『大収穫』の日。違うのかしら?」と言い、続けて「はい、健一郎の分」と僕の手元に無理やり10万円の束五つ、つまり50万円を渡した。
 「あ、これで"You can't run away"ね、ローリン・ヒルの言葉を借りれば。お金を持っているのはわたしだけじゃない。健太郎もなのよ。共同管理。そうよね?」

 あ然とするしかなかった。僕はこの現金の出所を訊こうという気で、マンションまで戻ったというのに。みえ子ときたら、天真爛漫(らんまん)で呑気な様子。

 拍子抜けしてため息すら出ない。今置かれている状況を理解できているのだろうか。僕は、春の夜明けの寒気を感じながらも、汗をかいていた。無関係な僕まで、出所が不明な札束を抱えている--共犯にしたてあげられているんだ。

 もし手元の50万円が法を犯して得た金だとする。だとしたら、僕はまさしく共犯者だ。みえ子は、そのことに気がついているのだろうか?気がつけていたとしたら、あまりに無神経、気がつけていないのなら、あまりに無頓着。

 失望しかなかった。

 虚無を感じながら、居間に広がる黒く光るテーブル一点を眺めていた。時が止まった感覚がした。--どうするんだ?と、唸るようにテーブルが僕に問いかけている。そんな奇妙な錯覚に陥った。

 急な展開だと思わないか?

 突然、百数万円取り出して、うち50万円を僕の手元に押し付ける。どこで、どう、得たのか、それすらも分からない--。そんな時に平然としていられるのが珍しいだろう、きっと。

 「いい時間だしもう寝るの?」と僕が訊くと、みえ子は「ううん、お札と一緒に寝たい。お札で夢を見たい。健一郎と私とで、"Fly Me to the Moon"の旋律みたいに、上に上にと、進む夢を見たいの」と、相変わらず地に足の着いていない返事。

 「わかったよ」と、返したとたんに屋内の電気が点いていないことに気がついた。電気をつけようとスイッチに手を置くと、みえ子が実は疲労でぐったりしている姿が見えた。このまま眠るのだろう。電気はつけないことにした。

【初】

 僕はみえ子の隣に腰掛け、眠りゆくかのじょの姿があどけな映った。
 初めてしたセックスを、なぜだか突然思い出した。GoGo Motowの"Don't Stop"を流しながらした、かのじょとの初めての性行為。身体を交えてから5年が経つというのになぜだか、初めてのその体験が鮮明に頭のなかに浮かぶ。

 その曲のサビ部、"Keep it goin' long, stay strong tonight"が何度も流れる。みえ子との思い出に耽(ふけ)っていたら、本人はもう寝ていたようだ。

 つけよう。

 テレビを音無しでつけた。アルゴリズムで、どの番組を僕たちが好むか、どの番組が相応しいかを選別して、チャンネルが事前に決まっている。要はつければ見たい、もしくは、見るべき番組が流れてくる。

 もうそんな時代なんだ。

 「○○組傘下の強盗集団、現金1500万円を強奪か 新宿区」と、テロップが流れ、アナウンサーが何かを言い放っている。深刻そうな演技が上手なのだろうか、緊張感が痛く伝わった。
 その切迫感のある声は、釘のように僕の胸を突き刺した。僕は凍る痛みを覚え、背筋の髄が震えあがった。

 ――まさか。

【白昼の吐息】


 「ねえ、名前の書いてないものって落とし物って言わないわよね?」と、白昼の静寂に音符をつけたような声音で、みえ子は、寝起きの僕に言う。僕はテレビをつけたまま寝ていたのだろう。

 「実は6人での実行だったのか?」と、問い詰めるようによし子に迫った。寝起きだというのに、迷いもなく、突きつけるかのように。

 --そう、「まさか」との予感は当たっていた。そう思えるほどの確信を突如抱いた。

 --そう、まさか、みえ子が「アノ」現金強盗事件に直接加担していた、もしくは、間接的に関与していた可能性があると踏むには、十分と思えるほど、妙に説得力のある口調だった。

 僕が眠る前の記憶に遡る。


【アノ予感】


 明け方--。

 その時には、おそらく高揚のあとの疲労感からなのか、みえ子は快眠。

 その間の「アノ」テレビ報道の続き--

 「新宿区での現金強奪事件。実行犯は5名とされており、うち1名(20代)が逮捕との速報が入りました」。続けて「逮捕された1名は認否を明らかにしていないとのことです。強奪した金額は1500万円以上とされ、実業家の被害男性とは金銭トラブルがあったとされています」

 --アナウンサーの声から伝わる切迫感が、僕の胸を容赦なく締め付ける。みえ子と初めて身体と身体を重ねた、過去の淡い記憶を、鋭利な言葉がナイフのように、切り刻む。締め付けられながらえぐられる自分に、「耐えろ、耐えろ」と言い聞かす。

 みえ子に対する絶望的な確信を抱いた。その絶望を象徴するのが、百数万円という記号だったのかもしれないと、僕は考え始めた。着地点などないというのに。そのつかみようのない、深みに沈む僕の考えは、感情に食い込んでくる。

 頭で錯綜する考えが感情に侵食--正体不明な黒い渦のようにうごめく感情は。その不明な感情に、僕は呑まれ、あがいているように思えた。

そこで、だった。

 僕の記憶は途絶えたのは。導かれるように眠りに就いたのだろう。

             ***

【信じよ】


 「ねえ、私が加わったってこと?ねえ、6人なわけないじゃない。実行していたら今ごろ、健一郎と過ごせるわけないじゃない」と、嘲笑しながらみえ子は僕の問いに応える。「ねえせっかくの大金なのよ?そんなに深刻にならないで、パーっといきましょうよ」と、みえ子。

 沈みゆく鉛のような僕の心を、海上に引き上げようとする。そう思えるほどの無頓着な神経が見え透ける。頭のなかで、チェット・ベイカーの"My Funny Valentine"が流れる。

季節外れなヴァレンタインが。

 "But don't change your hair for me
Not if you care for me
Stay, little valentine, stay
Each day is Valentine's Day"

 みえ子には、初めて身を交えた時の姿のままであってほしい--。僕の傲慢が芽が咲いた。

【失われて】


 「そのドジった人の落としたお金を拾っただけよ。教育だと思うのそれって。1500万円以上の強奪をすると、百数万--正しくは115万円なのね--の代償はつきものだって」と、みえ子は偉ぶった様子。

 怒りを覚えた。

 教育?なぜ言えるのか、言える立場にあるのか、みえ子は。ただ、僕は口をつぐんだ。緊迫しているさなかに憤りの塊のような言葉を投げかけると、ことがいっそうこじれてしまう。

 「その拾った115万円、警察に届けないと。今なら間に合うし、使ってないことにすればいいだろう?」となぜか、僕はみえ子が盗んだ金をすでに使ったとの前提で話していた。

 「健一郎、なんで使った体なの?まだよ。これから散財するの」と言い、息継ぎをすることなく、「私は、ね。罪深いなにか--それがなにか分からなかったけれど、お金だったの、今回はたまたま--を使い果たしてから、死にたいの。拾った私は本当に愚かというか、これから追われる身になるのはバカな私でもわかるのね。ただ、不幸と罪の上に死ねるって、あまりにもロマンティックじゃないかしら?」

 「分からないよ。みえ子のことはもちろん好きだし、愛してる。ただ、みえ子は突飛なことを言うだろう?そんな時には、さ。まるで僕から離れてゆく、変な感覚に陥るんだ。それにみえ子は懐に余裕があるだろう?なんでそっちじゃないんだ?」

 「2回も言わせないで。私のお金は体で稼いだのよ。罪のあるお金を浪費したいの。分からないでしょうね、この気持ちは。変な感覚でもなんでもいいけれど、それすらも受け入れるのが本当の愛じゃないかしら?私は本心では激昂している健一郎が大好きよ

 「それにね。私が拾った、強奪されたお金の一部を持ったり使ったりするのが、いかにも道理に反しているようなこと言うじゃない。それなら訊くわ。あなたの手元にあるお金は、クリーンなのかしら?犯罪者が荒稼ぎした、汚いお札なのかもしれないでしょう?汚いお金って気づかなければ赦されると思うって、あざといわよ。出所なんて探れば探るほど『汚い』かもしれない。そもそも、よ。お金は罪深い記号じゃないかしら?そのなかでも、不幸と罪にまみれているのが、はっきりわかる『記号』を使い果たしたいだけなの。それなのに、私の拾ったお金が、拾ったお金だけが、汚い。使うことは犯罪に加担するのと同じと、一方的なレッテルを貼るのね。クリーンな自分を貫こうとしているのかしら?」

 返す言葉が見つからない。

 「違う」と応えられない。かといって「そう」と、貫こうとしていると認めるのも違和感があった。かのじょの言うとおりなのかもしれない。

【鼻腔】



 憤りは鼻腔から抜けていった。みえ子の旅路に付き合うほかないと、諦めを悟った--たとえ行き先が、地獄のようなものだとしても。僕はかのじょに偉そうなことを言える立場にない--かのじょは夜、客の性欲を煽り、満たす仕事をかれこれ14年もしている。

 そのうちの3年はかのじょの稼ぎに頼っている、ただの寄生する人間に過ぎないのだ、僕は。そんな立場の者が、かのじょの上に立つなんて、ムシが良すぎる。相手の言うことに従うしかないか、と断念しながら、自分のふがいなさに同情を求める情けなさに嫌悪感を抱いた。みえ子は見抜いているのだろう。

 その「弱み」とのトレードオフは疾走というわけか。

 「強盗集団と警察に追われてもおかしくない。シリアルナンバーが割れたら、ただの紙切れと同じだ。早く高級品でも買って、それを売れば足はつかない。早くしよう」と、思いがけず、自分から逃げるのにうってつけな提案をした。

 名案とでも言わんばかりの、清々しい表情でみえ子はほほ笑んだ。「支度して。表参道あたりに行こうよ。新宿だとリスクがあるじゃない」と付け足し、外に出る支度を整えるよう促した。

 春風を受けながら歩く、午後の表参道。僕らは昔の初々しいデートを思い出した。気がついたら手をつないでいた。手と手を合わせて歩く道はどこか幻想的で、過去の記憶をプレイバックさせる。その思い出に漂う、甘い香りが鼻腔に入っては、霧のように消えてゆく。

 確か、だ。

 付き合いたての時に、"03' Bonnie and Clyde"をよく聴いていた。お互いが、お互いを求めていた時期を象徴しているとも思えた。 "All I need in this life of sin is me and my girlfriend."--「罪を背負った人生には俺と女がいりゃ十分」と、キザなパートを二人で口ずさんでいた。

 そのころのみえ子と僕は愛のカタチを探し求めていたように思える。

 「ねえ、レベッカ・ブラウンの『私たちがやったこと』を私たちは読んだじゃない。お互いが補完しあう関係でありたいの、欠かせない存在。耳を自らなくした”私”と、目を自ら見えなくさせた”あなた”。その二人のどちらかがいないと、生活はできないし、本当の愛がわからない気がして。欠陥がないと、愛の姿ってなんなのかわからないんじゃないかなって思うことがあるのよ」と、遠くに目を向ける、みえ子のあどけなさ--。

 昔の思い出の断片が、頭に浮かんできた。それは、鉛のように脳内に重い。重力のある思い出に、僕自身が、路上に沈んでゆく錯覚が襲ってきた。

【いいわけのかけら】

 午後から夕方に移りゆく、表参道の風景は、幻想的だ。光り輝く外装に、洗練されたすれ違う人たち。僕らにとっては「非日常的」な景色だった。

 そこに溶け込めず、不似合いなのだろう。質素な二人の場違い感--。なんだか恥ずかしく思えてくる。誰かに見られているわけでも、スキャンダルになるわけでもないというのに。

 目線だ、気になるのは。誰のそれなのかが、わからないにしても。

 質素。とはいえ、みえ子は「拾った」金額の100万円代に近いくらいの金額をひと月で稼ぐのに、僕らはブランド品に身を包むことはもちろん、高級な商品とは無縁な生活を送っていた。

 これという理由はない。

 僕自身は贅沢をしようという気にならないし、32年間の人生でその気持ちは変わらない。

【遠くへ】

 みえ子――。もともとは貧しい家庭に生まれ育った。18歳で性産業に就いてから、客が貢いだおかげか、贅沢を味わえる立場にもあった。確信は持てないが、そうした貢ぎ物が、いかに虚しいかわかっているのだろうか--。

 金で愛を買おうとする客からもらう、ブランド品で武装することがどれほど空虚なのか、わかっているのだろうか。質素な生活をあえて選んでいるように思えた。貢ぎ物のブランド品の数かずが彼女を満たすことはなかったのだろう。

かのじょは僕の前を歩いている。

 確かにそれなりの期間、ともに生活し、かのじょを理解していると思っている。同時に理解している「つもり」なのでは、と問い詰めると、わからなくなる。

 かのじょが何を考えているのか、かのじょが何者なのか、かのじょの相手である自分とは何者なのか--。みえない溝があって、かのじょに近づこうとすればするほど、それは広がり深みをもつような感覚に陥ることがある。

 ふたたびみえ子に目を向ける。

 かのじょの姿は、季節外れな蜃気楼のようにおぼろげな姿として浮かび上がっては、現実のそれとなって目の前にいる。手を伸ばし、かのじょをこちらに引き戻そうと試みるも、掴めなくなる。まるで、陽炎(かげろう)のように、現れては去ってゆく。

 どれだけ手を伸ばしても届かない無力さと、掴めない自分のふがいなさを僕は感じた。何もできないのだ、つまるところ。抜け殻のような自分と、質素な格好ながらも、街に溶け込んでいるみえ子とを物欲を煽る光は照らす。

 夕方の表参道は、人の欲を躍らせているように映った。金なんて記号にほかならない。記号を持って買うブランド品も記号に思えてきた。だれかが使い、飽きたら売る。シンプルな消耗品で承認欲求を満たす人びと―― 。

 「ねえ、ワクワクしない?」とみえ子は、踊るような声音で言ったものの、目の奥には悲壮感が漂っている。

 かのじょのパセティックな目線を、ネオンは明るく照らしていた。それは確かだった。

【欲と旅】


 「わたしはね、このお金で高級品を買って売る。質屋で買う人がいる--。流れるお金って汚い。そう気づけない人たちがいることに、増えていしまいかねないことに、面白みを覚えるの。愉快じゃない、だって」
 「蔑みすぎじゃないかな?」と本心で答えた。
 「もちろん。気づけてないことがバカバカしすぎて笑えちゃう。人間って、上っ面なんだなって思えるの」

 と、みえ子は侮辱すればするほど、盛り上がっていくように映る。

 確かに。上っ面がいかに愚かか、わかっているのだろう。金で買う疑似恋愛とセックス、愛情や他にも汚い面を垣間見てきたのだろうか。

 「とにかく買いにいくよ。グッチにプラダ、ルイヴィトン…グッチとプラダで50万円使い切ろうかな。多分、時計とカバンを合わせたら、それくらいはするハズ」
 「プラダを『流す』ことだけはやめて」と言い、かのじょは財布を見せた。見たところ、オンボロだ。ただ、僕はなぜこの財布を愛用しているのか、理由を知っている--。かのじょを一人で育て上げた母が、高校の入学祝いに買ったから。その母との過去を象徴する財布のブランドに、抱く思いは特別なわけだ。
 「わかった。グッチで手持ちの分を全て使えそうなら、そこで」
 「時計とカバン、財布でも買えばすぐ消えるわ」とそっけなく言い、お互い、別々のラグジュアリーブランド店で持ち合わせている分を買うことにした。

 

【欲と旅】


 「わたしはね、このお金で高級品を買って売る。質屋で買う人がいる--。流れるお金って汚い。そう気づけない人たちが増えちゃうんだろうな。なんて想像すると、面白みを覚えるの。愉快じゃない、だって」
 「蔑みすぎじゃないかな?」と本心で答えた。
 「もちろん。気づけてないことがバカバカしすぎて笑えちゃう。人間って、上面なんだなって思えるの」

 と、みえ子は一般の、罪のない人々を侮辱すればするほど、盛り上がっていくように映る。

 確かに。上面がいかに愚かなのか、わかっているのだろう。金で買う疑似恋愛とセックス、愛情や他にも汚い面を垣間見てきたのだろうか。かのじょの思う「盲目」な人びとをけなせばけなすほど、かのじょの機嫌は良くなってゆくようだ。

 「とにかく買いにいくよ。グッチにプラダ、ルイヴィトン…グッチとプラダで50万円使い切ろうかな。多分、時計とカバンを合わせたら、それくらいはするハズ」と、僕はかのじょの罵詈雑言を終わらせようとした。
 「プラダを『流す』ことだけはやめて」と言い、かのじょは財布を見せた。見たところ、オンボロだ。ただ、僕はなぜこの財布を愛用しているのか、理由を知っている--。かのじょを一人で育て上げた母が、高校の入学祝いに買ったから。その母との過去を象徴する財布のブランドに、抱く思いは特別なわけだ。
 「わかった。グッチで手持ちの分を全て使えそうなら、そこで」
 「時計とカバン、財布でも買えばすぐ消えるわ」とそっけなく言い、お互い、別々のラグジュアリーブランド店で持ち合わせている分を買うことにした。かのじょはルイヴィトンに。

 僕のような質素で場に不相応と思えるような一人の客に、店員は冷たい目線を浴びせるかと思いきや、丁寧に接してくれた。「お探しものはなんでしょう?」「御用があればおっしゃってください」といった具合に、僕に真摯に接してくれたのは意外だ。

 無難な柄のバッグを一つ。もう一つは時計。僕自身、着けたくなるくらい洗練された時計だった。これまでは、ラグジュアリー品を求める人、買う人の神経が理解出来なかった。ところが、今となっては、その気持ちの理解が出来た--かっこいいから、おしゃれだから買うだけなのだろう。

 僕は50万円を少し下回るくらいの額で商品を購入した。感じたことのない風に吹かれた気分で、自分のステータスが上がったように思えた。

 ラグジュアリーブランド品を買ったことで。

 ラグジュアリーブランドの袋を持っていることで。

 内心では見下していたのに。

【風】

 みえ子も店から出、僕たちは合流した。かのじょも同じく50万円に届かない程度の買い物だったよう。余った分は表参道の高級料理屋で使い果たした。店から出たらすぐに、

 「手元にある、端数の15万円でレンタカーを借りようよ。今すぐなら、足がつかない。違うかしら?」と、みえ子は陽気そうだ。父の言っていた金を「溶かす」--。本当に一瞬だ。

 夕方を過ぎた帰りの表山道--。暗い道は発色のいい、ライトに照らされイルミネーションのようだ。暗い道とでは明るさが全然違ってくる。

 「青森県に行きたいの。私が生まれたのは青森。もしかしたら父に会えるのかなって。捨てたことを赦(ゆる)す日はこないと思う。ただ、会える日がいつか来るのかな、なんて空想に浸っちゃう時がある。空想でもいいの、青森に行ってもしかしたら、ってシナリオを楽しみたいの。父が居るかもしれないし、居ないかもしれない、青森に行きたいのよ。確証なんてどうでもいいわ」
 「わかった。お父さんに会えるかはわからないけれど、行こう」と妙に前のめりになっている自分が不思議だった。日常の閉塞感からの解放を、僕は求めているのかもしれない。
 「旅の途中に質屋に寄りましょう。都内だと警戒されるから早くここを離れて、ここじゃないところで現金にして」
 「うん…」と応えると、
 「健一郎のいじけた表情が好き。マンションに戻って、持っていく荷物をさっさと持って帰って、車に積んじゃいましょう」と言い、今からレンタカーを借りに行こうとの話になった。

 とにかく機敏。ただ、それくらいの危機感をみえ子も持っているのか、自身の立てた計画を早く実行しようと焦っているの--そのどちらか、もしくは、両方に映る。

 「さ、旅行よ」と底抜けに明るい表情でかのじょは言う。はつらつとした表情とは裏腹に、声はどこか濁っていた。--ためらいと、迷い、声にできない願望をを押し殺しているように感じられた。

 大げさにとれば、青森で彼女が自身の人生を終わらせようと、願っているようにも思えた。

【霧に】


 霧雨が降り始めていた。

 僕の中に走る緊張感をほどよく解きほぐした。

 この霧のなかに、隠れおおせられるかもしれないと、淡い期待を抱いた。何から?誰から?――警察なのか、現金強盗犯のうち、逮捕されなかった4人からなのか。それとも、下らなく思える日常生活からなのか。

分からない。

 それでも、逃げ出せる絶好のチャンスだと、先行きの恐れを感じながらも気持ちは昂りつつあった。この足で、中野のレンタカーサービスに寄って、車を借り旅路に出ようという気でいた。妙にロマンティックな感情だった。危険と隣り合わせで、出る旅――スリルがある分、興奮気味になっているのかもしれない。

 霧雨の中に逃げ、危機から解放されれば…と、願えば願うほど、危険な輪に飛び込みたくなる、複雑な思いだ。みえ子は顔色ひとつ変えず、

 「雨が気持ちいい。こういうジトジトした感じの雨、よく降ってたのね、青森で。懐かしいな。イヤなことが起こるお知らせみたいなもので、雨が降ると何か悪いことに見舞われちゃう。そんな風に思っていたの。ただ、『悪いこと』を経験しすぎた気がするな、私は。だから、かな。これまで経験したことのない、悪いことがなんなのか気になって、ワクワクしちゃう」

 ――これまで経験してきた悪いこと。それがなにか確かめようとしたものの、父に捨てられ、都心に来ては身体を売る生活を送っている。深く訊きたいようで、訊いたらかのじょを心底嫌悪しそうになる気がした。それなら、と訊かずに「これまで色いろあったんだ」といったくらいの返しで、流せば
いいように思えた。

 「まあ、どうなるかは霧雨にもわかるよしはないでしょう」と、無難に片づけようとする僕。みえ子は身体の距離を近づけ「こっから先、どうなると思う?」と笑わず僕に問いかけた。返せない。どうなる?どうなっていのか、わからないというのに、どうなるか訊かれても言葉が出てこない。

 気まずい沈黙の壁が二人の間に、立ちすくんでいた気がした。
 近づこうとしても、返される目に見えないバリアが僕とかのじょの間にはある。

 それがいつなくなるかはわからないし、なくなるかもわからない。

【まさかの】

 電車に乗り、中野に着いた。急ぐ理由は十二分にあるような気がする。切迫感に押しつぶされそうな気持ちだ。一方のよし子は焦る表情はもちろん、追われている身にあることすら、忘れているようにも映った。だがそれも今更。かのじょが恐れや焦りなどの感情に揺さぶられている様子は、まったくと言っていいほどなかった。

 まずはマンションに戻ることにした。――気がついたら夜。早いような遅いような中途半端な時間感覚だ。

 マンションのポストに大量の紙が入っていた。僕はがく然として、そして、恐怖に凍てついた――みえ子が現金を拾う写真の数かずが投函されていた。警察がこんなことをするはずはない。かのじょに電話をかけるに決まっている。5人中、逮捕されていない4人の誰かが居場所を突き止め、写真を入れたのだろう。わかっているだけで5人なだけで、実際には、多数いたのかもしれない。背筋が凍るような思いだ。

 「みえ子…」
 「バレたのかしら。急いで巻けば問題ないんじゃないかしら。行き先を知っているわけがないでしょう?」
 「悪いことが起こっちゃったな…」と乾いた口で、小声で話した。
 「それを期待してたの、悪いことを。バレて状況が悪くなっちゃった。でも、それを楽しみにもしてたの。盛り上がるじゃない?」と淡々と話したあとに「中に行っても取りに行くものなんてないんじゃない?なんなら今から車を借りに行こうよ」と、能天気すぎるくらいみえ子はことを軽くみているようだった。

 うなずくほかない。とにかくレンタカーに行って、軽自動車を1か月借りることにした。店員はいぶかしげな表情でこちらをみているようにも思えた。が、どうでもいい。

 とにかくここから――警察だけでなく、強奪集団からも逃げなくては。カーミラーを見た時に、冷や汗と霧雨が垂れる顔がやつれていることに、気がついた。

 行こう。

【逃げよ】

 一刻もはやくここから、東京から、関東から、逃れたい--。その一心だった、僕を突き動かしていたのは。レンタルしたのはフォルクスワーゲンの小型車で軽とも呼べるような、微妙なサイズ。

 みえ子が車を借りる時「外車はないのかしら?」と店員に詰め寄り、嫌いやな表情で、ワーゲンをその場で渡してくれた。悠長なものだ。切迫し、一刻をも争う場面で、外車がいいだなんて。

 車内で僕は黙り込んでいた。

 この先どうなるのか、考えたら悪い予感しかしない。いつ強奪犯の誰か--それも逮捕されていない4人ではなく、別軸で動いている”誰か”--に追われている可能性は多分にある。

 警察は?あまり気にならなかった。むしろそのまま、逮捕するなりなんなりして、留置されるほうが僕は安心するだろうと、走りながら危機と安全とを天秤にかけていた。

 が、ここはその二つを放棄して、逃走するのが僕ら。

 誰がどう見ても無謀としか思えないだろう?

 そうだ、父の言葉を思い返した。「信用はな、金で買えるんだ。んなもんでさ、人対人つっても愛情ってモンがなきゃ、損得勘定で付き合える。ところがよ。愛だの恋だの……信用問題でもあるんだけど、金で片づかないんだ、厄介なことに」

【厄介】

 --厄介なことに。

 気晴らしにラジオでもつけようと手を伸ばした。John Coltraneの"Blue Train"が流れてきた。「走れ、走れ、先の道は長い」と、僕の焦りに拍車をかけるようなグルーヴ感だ。

 出だしのマイナーコードが、速く走らせろ、と急かしているようだった。そんな僕の焦りを意に介さないかのように、
 「ねえ、雨が強くなってきたわね。雨といっしょに、この身体が流されちゃえばいいのにって思うこと、ないかしら?」
 「ないよ。突然なんなんだよ……」といら立ち気味に応えた。集中力を切らすようなことは言わないでくれと、付け加えたかった。
 「ああ、焦ってるんだ!」と笑いながら、「逃げるわけじゃない。かといって追うわけでもないのよ。道を進んでいたら、たまたま流されました。流されたが最後なのかな、行き先は不明。それだけじゃないのかしら?」。

 漠然としすぎていて埒(らち)が明かない。具体的な話を切り込まないと、僕はアクセルを踏めない。窓の外に目を見やり、みえ子の顔に目線を戻す。

 「とはいえ、現金の強盗犯の連中に追われているリスクは十分すぎるくらいにある。わかるだろう?」と問うと、
 「そのリスク、楽しむ余裕がないのかしら?なんか健一郎ってつまんない。気にしてるのは自分の身の安全で、わたしの身は二の次に思えるの。だって『守る』って私に言ってくれた?それより危ない、テンパる様子しか伝伝わらないわよ。自分のことばっか?」
 
 そう言われたら何も返せなかった。

 そう、かのじょの身の安全より自分が無事で居られるかしか、考えていないのだから。こんなことを話していたら、みえ子は僕の弱みに漬け込んでくるだけだ。余裕をみせるフリだけしよう。そう決めた。

 「いっしょに青森まで行こう。『』を楽しむんだ」と、無理やり言葉を「逃げ」から旅へと切り替えた。言葉の強引さに、気持ちが追いついていないのは分かっている。分かっているものの、ここで、みえ子との波長を合わせないと、先ざきに災厄が待ち受けているとしか思えなかった。

 埼玉までとにかく向かおう。今晩中に着いて、どこかの安ホテルにでも泊まればいい。疲れているんだ。だからなのだろうか、みえ子の一言一句に過敏に反応してしまうのは。

 走れば走るだけ、気がまぎれると思い込んでいた。事実、埼玉県に近づくと気が晴れた--。どんな災厄があっても、もう散々な目に遭っている。これ以上何にも襲われないだろうと、まじないのように自分に言い聞かせた。

 ところが、川越でとんでもないことになるとは、みじんも想像していなかった。--雨は何も教えてくれないのだ。

【渇き】


 最悪な危機を脱した気になっていた。現金強奪犯たちに追われているのかもしれない。だが、それでも都内で生き残り車を借りて、逃げおおせている。これだけで十分だ。もう災厄に見舞われるわけがないと、高を括ってしいた。脇が甘くなっていたのだろうか。

 車を走らせながらみえ子と話し合う。

 みえ子と僕とで、手分けをしてブランド品を川越市内の質屋に出すことになった。逃げている身である手前、昼に堂々と売りにだすわけにはいかなかい――。

 その晩に僕たちが売りに来た、と質屋が情報を流すリスクを想定してのことだ。みえ子と僕で、夕方から晩にかけて、計4店に当たる運びになった。かのじょの案で、あえて一つだけブランド品を出して、もう一点は持っておく。そうすれば、購入してからすぐに不要と判断したと、思わせられるとの発想から。

 多少、乱雑に思えたが一理ある。

 質に出すにしても演出が要と心得ていたのだろう。みえ子と話をしていた時、かのじょの人生経験からこうした知恵が働くのだと納得した。かのじょの「飢え」の正体を、その話の中から垣間見た気がした。

 川越市に着き、ラブホテルを探しに市内を車で回していた。無難なんだ。性欲の昂じた数組のカップルの中の1組――ありきたりな二人、どこにでもいる二人。それがいい。探している途中だった。

 「万引きってしたことあるわよね?」
 「いや、僕はないよ。多分前にも言ったと思うんだけど……」
 「僕は?いかにも『わたし』ならあっても違和感はない、というか、わたしなら万引きくらいしていて当たり前、みたいな言い方ね」
 「いやあ、そういう意図はないけれど。誤解を……」と返した。続けて、謝ろうと思ったが、みえ子が遮った。
 「いいわ別に。違和感ないわよね。実際してたもの。ねえ、家に食べ物がなかった日に抱く気分ってどんなものかわかるかしら?私は、ね。父に捨てられるわ、母――ババアは夜な夜な、別の男を抱くわ。猫が交尾する時の超えみたく、耳障りな声を上げては私の鼓膜を圧迫してきたわよ。居場所がどこにあるのかなんて分かりやしない。そんなふうに渇いた娘たちがどこ行くのかわかるかしら?」

 ――もうかのじょの独壇場だ。何も返せない。

 「駄菓子屋。そこでやっすい、誰が盗っても困らないくらい、やっすいお菓子をね、こっそりパンツの中に入れるの。小学生の時の話よ。駄菓子屋にいつもいる店番のおじちゃん。万引きってわかっていても、『パンツから出せ!じゃないと、取るぞ!』なんて言えるわけはないわよね。取るんじゃないの。奪うの、体で。そんなふうに体を武器にしていたら、いろんな男とセックスしたわ。だってね、心を奪って、私のものに出来るんだもん。皮肉だわね、嫌っていた『猫の交尾』の声を狂うようにあげていただなんて」

 「奪う……」引いて自分のものにするということなのかと、逡巡するや、またもや僕が挟む余地なく、「心を奪う、もっというと、ね。相手の欲を満たすことで性欲を奪うの、根こそぎ。飢えた環境に育ったわたしの快楽ってなにかしら?当ててみて」

 「もう自分で言ったんじゃないの?奪うことでしょう」と、運転の疲労にのしかかる、重みのあるかのじょの一人語りに耐えかね、突き放すようなもの言いで放った。

 ――これ以上聞きたくない饒舌(じょうぜつ)を止める方法としか思えなかったのだ。気分で移ろいゆく、春の早朝の天気は霧雨から、曇りに切り替わりつつあった。

【身を伏せて】


 「好き」と的の外れた言葉を僕にかけた。もちろん休むためであるが、その一言が僕の胸に火をつけたのか、ラブホテルに入った。

  何日ぶりだろうか、ゆっくり落ち着けるのは。浮気をする人、ここで子作りに励む人、欲情したカップル、勃起不全な男と不感症な女――ラブホというちょっとした異空間で、高揚している人たちが多いのかもしれない、と部屋を通りすぎるたびに思った。

  部屋に着くやいなや、思いがけないことに。「ねえ、健一郎を奪いたい。そうすれば私は加害者になれるじゃない」

 「なんでもいいよ」と疲労からか、シラを切り通すように返した。

 そのあと、言葉は要らなかった。そこにあったのは、絡み合う身体と結びつく性器だけ。同じ動作の反復。その先に快楽がある。それだけ。なのに、今日と来たら怒りなのか愛なのか、正体の掴めない感情から激しくみえ子を求め、みえ子の性器に自分のそれを重ねた。狂うように。

 行為を終えてからだ、僕らがシャワーを浴びたのは。――「”Last Tango in Paris”を流しましょうよ。激しく突き合ったあとには愛のシャワーも、耳に流したいの」と言い、僕らは深い眠りに落ちた。”We are shadow of dance”のところで、僕の記憶は途絶えた。

 寝起き。

 昼の3時だった。こんなにも眠るとは、と驚いている自分がいた。
 みえ子はまだ眠っていた。まるで人魚のように、息を殺して眠っていた。
人魚の眠る姿を知る由はないが、存在するのなら、今のみえ子のような姿をしているのだろうと思えた。優しくかのじょを撫で支度をし、質屋で売りに出そうと声をかけた。

 重たいまぶたを開き目が覚めたようだった。その動作は、重いシャッターを持ち上げようとしているように映った。まぶたという、小さく重たいシャッターを、上に。

 さきに書いた要領で質屋に出すのが目論み。

 ただ僕たちは、2軒目以降は、怪しまれる可能性があることを、暗黙に了承していたし、失敗する「かもしれない」スキームに刺激を感じていた。二手に別れて行動して、合流地点に戻る。それだけのことと言えば、そう。リスクを多分にはらんでいると言われれば、それもそう。

【異常なし】

 車を出そう。

 ――午後4時ごろには川越市内で質屋を見つけ出し、質に出す段取りをすませていた。春の雨は強弱をつけて降りつづけていた。一定のリズムがあると思わせては、それはまた崩れる。不協なテンポの連続だった。不安定だ、僕らとおなじように。

 みえ子のリクエストでクインシー・ジョーンズの「愛のコリーダ」を車内で流した。"Just you and nothing else."--「きみ以外何も(要ら)ない」この歌詞は一見ロマンティックだ。しかし曲のタイトルは、愛情なのか愛憎ゆえに、男性性器を切り落とした、阿部サダをモデルとした映画のタイトルでもある。

 この曲は好きだが、タイトルと映画のシーンを思い出すと怖くなってしまう。半面、みえ子は浮かれているもよう。「二人だけの世界に生きられるね、健一郎」--。切り落とされる恐怖を、一瞬感じた。

 一軒目で僕はGUCCIのサイフを無事に売れた。首を突っ込まれるかもしれないと、警戒しいたものの、杞憂に過ぎなかった。それどころか、買い手側はうれしそうな表情と話しぶりだった。うっとうしかったのだが。

 質屋に入った。

 二つの袋を持っている。両方ともGUCCIで怪しまれないのだろう。おそらくこの店は、築20年は経っていて、外装だけ塗り替えただけなのだろう。表向きは新品に近づける。外装費に僕は目をつけた――。

 きっとその費用を補うには商品を買取り得る必要があるのだと、野生的なカンが察知した。ピンク・フロイドの”Money”が頭のなかでリフレインされる――”Money, it’s a gas."要は「金なんてガス」のように蒸気となって散ってゆくのが定めなのかもしれない。

 「いやあ、このGUCCIの財布いいヤツじゃないですか!これ売っているところ限定されているよ?ねえ、売るのはもったいないんじゃないかな。だって日にち経ってないじゃん!なんか事情あったの?兄さん」と買取終わってからも長々と話し始めた。

 長くなるな、とため息を漏らしそうになった。

 「いや、いいんです。プレゼント用でした。ただ、プレゼントをあげる相手と連絡もつきません。眼中にないのに、思わせぶりをされたわけです……タグも切れているので返品はできませんし、かといって持っているのもみっともない。ようはムダ買いです」

 「もったいない。いい男なのにね……あ、この店で質に出す人の恋は成就しやすいって、この辺じゃ有名だよ。恋愛運上がるってね。なんかあったらまた来なよ。うまく行くよう念じるからさ。あ、もう一個の袋には何入ってんの?」
 「時計です。ただこれは自分用に」
 「そう、どんな型なのか…‥」と切り出した矢先に、僕は「まあ、カバンですけれど、相手に振り向いてもらえたら取りにきますよ。ちょっと、電話が」と言って、鳴ってもいないし、鳴らしてもいない携帯電話を取り上げ「あ、例のアポ。ちょっと巻きでそちらに」といかにも急いでいる雰囲気を醸し出し、店をでた。

 ――いるんだ一定数。こうやって詮索しては話を続けようとする人は。こうやって話の主導権を握ろうとしてくる人は。こうやって話のペースメーカーになろうとする人は。目的もなくただ単に自分が主体となっている心地よさに酔っているだけなんだけれども。
 ――外に出ると、雨はすっかりと止んでいた。川越市に吹く、心地よい風が僕の頬を撫で、安堵した。夕方に少し冷えた、この風が僕らの「これから」を優しく導いてくれるような確信を抱いた。根拠なんて一つもないのに。「ような」でいいんだ。根拠や安定を求め過ぎたがあまり、僕は一歩踏み出せずにいるだけなんだ。

 駐車場で待ち合わせをしていた。やってきたみえ子は要領よく、二つとも売り払った様子。一個だけだと怪しまれると、お互い警戒していたのだが、質屋の店主の心の懐に忍び込む術にたけているのだろう、かのじょは。

 「最後ね」とかのじょ言い、115万円が75万円分に目減りしたことに気がついた。とはいえ、シリアルナンバーを追われることもなく逃げられる代金が75万円なら証拠を消すには安いと思えた。それにGUCCIの時計も売れば、足しになる。もしかしたら100万円近くにはのぼるかもしれない。
 
 --売れれば、の話だが。
 
 人--というか僕とみえ子--は綿密に計算している「つもり」なだけで、取らぬ狸の皮算用でうまく行くと、青信号をだしてしまう。--その安直な考えが、命取りとも知らずに。
 

【導火線】

 僕は最後の店で質屋の店主を殺してしまった。GUCCIの時計を売りに出す矢先のことだった。なかなかいい表情を浮かべない店主。なにかバツが悪いのか?この不況時代に買い取っても、売り手は見つからないのか――さまざまな憶測が憶測を呼び、呼んだ憶測が僕の殺意を膨らませていった。

 「君、何件目?それ盗んだりしてないよね?ほら、この前も物騒な事件があったし、なんだっけ15000万円だっけ?人を殺して強奪された、結構危ないのだったり、さ。物騒なんだよ、世の中が。買うのが仕事でもあるんだけどねえ。こんなん買い取って厄介ごとに巻き込まれるのはごめんだ。右をみても、左をみてもヤク中がぶっ倒れるわ、ホームレスが店にタカリにくるわ。まあ、こんなご時世だ。帰ってくれ」――夜9時の15分前。堪忍袋が切れた。厳密には、この店主が切った。

 ――ぼくはどこまでいっても被害者意識の枠内で他責をする。
 「僕はけして怪しいものでもなんでもないですよ。ただ要らなくなったんですって。返品のしようもありません。タグも切れていますし」
 「違うんだ、さっきの話聞いたろう。そういうことなんだよ、じゃあね」

【発露】

 これまで溜めていたと思える、怒りと不満、それら以外の言葉にできない、渦巻く感情を思い切り店主にぶつけた。胸ぐらを掴みカウンター越しに僕の方へと引っ張った。「火事場の馬鹿力」とはよく言ったもので、なぜか異様なエネルギーがみなぎりこちらへと店主を持ってこられた。

 そこから、だ。

 僕のサディスティックな感情が爆発したのは。相手が痛がれば痛がるほど、やめてくれと言えば言うほど、さらに攻撃をしたくなる衝動を抑えられなかった。

 爆発する衝動に合わせて動く身体。炎のように燃え盛り、それがかれを包みころしたというわけだ。引き寄せてから、時計で頭を何度も殴り、叩き、パンチを見舞った、何度も、何度も、何度も、何発も、何発も、何発も。

 妙なもので、店内には「新社会人おめでとう」と書かれており、ダニー・ハサウェイとロバータ・フラックの”Back Together Again”が流れていた。もう戻れないとわかっているのに。店の雰囲気は、温かく迎え受けているように思えた。反対に僕を追い払う、店主の冷淡さ――この温度差にゾクゾクしながら僕は、容赦なく殴りつけた。時計を手に、頭に何発も攻撃を喰らわせた。

 気がつけば、夜9時半。

 みえ子から「どうしたの?」と電話が入った。そういえば、だ。この男は生きているのだろうか?首元の動脈に触れる。止まっていた。僕は素直に「殺した」と返した。急いでみえ子が店に来、僕らはなるたけ早く車に戻ることにした。

 放心状態な僕にかけたみえ子の言葉は「加害者になる悦びってどう言う類かわかったでしょう?」と笑みを浮かべた。駐車場まで足早に歩いていった。遠くに目を向けると、ここには名残のある観光地と気がついた。

 最初はうまくいったというのに…‥また逃亡の旅だ、と僕は肩を落としてしまった。

 さっきまで、僕の頬を優しく撫でていた、春の風に霧雨が混じってまとわりついてくる。行き先をも決めてゆくのだろうか?と頭によぎっては、そんなことない、と両方の考えが往復しては衝突した。

 春の天気は情緒不安定だ。

【吹けよ風】



春風の吹く方へ--。春風に吹かれ、僕は車を運転していた。ひたすら、脇目もふらず。風に任せ走っていった。

 質屋で店主を殺してから、急いで車に乗った。大量とは言えずとも服に--自分のだか、返り血なのだかわからないが--、血が付いていたものだから、那須高原のパーキングエリアで、みえ子に新品の洋服を買うように伝えた。

 Tシャツ程度のものでいい、半袖で十分だと。

 肌寒い春の夜に、上着がないのは、心許(もと)ない。だが仕方がない。仮に今、警察が追っているとする。半袖だから犯人と外見が逮捕の決め手になるはずはない。

 みえ子は「はい、これでいい?」とぶっきらぼうな口調で、僕に無地のTシャツを渡した。不機嫌な様子。なにがかのじょを不機嫌にさせているのだろうか。――今になって、店員を殺めたことにた対して文句があるのか、もしくは別の、かのじょの隠している、なにかがあって、それが堆積のように溜まっているのか。どちらなのか、それとも両方なのか知る由はない。Tシャツを着た。そうなれば、追っ手が警察であろうと、怪しまれることはないだろう。が、自分が自分を怪しんでしまう。

 夜中に明るく輝いている、パーキングエリアのライトがまぶしい。金と寂しがりやは、ネオンに集うと、どこかで聞いた覚えたある。活気がみなぎっているのにもしかしたら、皆、孤独なのかもしれない。今ある喧騒は、一時的なもので、明日になれば、つるんでいる人たちと連絡をとらなくなるのかもしれない--。人がどれだけ集まろうと、結局のところ一人なのだ。そう考えていると、救いを求めるような寂しさが、夜を包んでいるように思えた。

 ――「なんだかわたしが言いなりになった気分がして、少し嫌な気分だったの。ごめんね。ことの成り行きでせざるを得ないのは十分わかっているわ。それでも、だったの。まるで逃げるのが目的で、動いている気がして」とみえ子はこぼした。うなずくことも出来ず、何もかえせなかった。

 今の僕には逃げることしか頭にない。

【星の海】

 「わたしの意に反するのよ。わたしは星の海の谷間を泳ぐような旅がしたい。健一郎に『買ってきて』と言われて、スクロールを中断させられたような気がしたの。自分本位よね。成り行きだし、不測の事態があっても仕方がないわね。ただ、喜びも不満も、言えるうちに言いたいの」と、雨の降る重苦しい夜中の高速道路で、哀れな自分を演じているような話ぶりだった。

 その口調が僕の胸を切り刻んだ。

 みえ子のワガママな話が、かのじょの声が、どこかのタイミングで聞けなくなる。――終わりに向かってゆく寂しさを覚えたから。

 「言えるうちに」との言葉が、重い鉛のように、僕の胸に沈んだ。その重みが僕の心の内奥にまで沈みゆく--そう感じられた。この旅をもって、みえ子とぼくが最期を迎えるのかはわからないが、なんだか、この旅でかのじょとの関係に終わりが思えた気がしたのだ。

 片道だけの、最期の旅路になるのだろうか。

 心を軽くしようと思い、「いいんだ。想定外すぎることをしでかしたのだから、僕は。自分を守ろうとしてお願いしたのはみえ子にとって不快だったのかもしれない」と言うと、かのじょは急に笑顔を見せた。目は「わかっているじゃない」と語っていた。そのメッセージを受け、僕は、もう開き直ろうとの気持ちになった。

 その矢先に、だ。

 「埼玉県警です。お尋ねしたいことがありまして、ご連絡しました。A質屋での殺害事件について伺いたいんですよ。何せ、田上様が質に出した店の録画動画から犯人が田上健一郎さんなのでは、と。その線で捜査を進めていくかもしれません。とにもかくにも、お話だけでも、ね。警察署にお越しいただけませんかね?違うなら違うで、別の線をあたりますし。急な話なのですが、まあ田上さんのお名前と番号が書かれていたメモがあったんで、照会にかけたんです」

 背筋に注射を打たれたような衝撃が走った。

 もうバレてしまったのだ。僕が犯人で、逃亡をしていると。スピーカーにして話を続けた。

 「いや、違うはずですしそもそも埼玉にいませんでした。その証拠動画を基に周辺の方々にあたられては?」と、なかば自分が犯人と認めるような言い方で、一方的に電話を切る。電源も勢い任せにオフにした。

 ――警察にも追われるのか、と一気に恐怖と絶望に襲われた。ため息が出、警察か……とこぼしてしまった。一本の電話から、神経という神経に追われるという危機から逃げろ、この状況はマズいと、信号を発しているように思える。その信号はまるで電気ショックのように、五臓六腑を刺激する。全身が硬直しているように思えた。

 一方みえ子はなぜだか高揚している様子。さきより表情が緩くなっている。

【罪の行き先】

 「ね?加害者になるってわかるのは、他人に『加害者』と疑われた時、断言された時じゃないかしら?うまく交わせるかしら、私達。ただの旅なのに、私が行きたい場所に行くだけのなのに、こんなにも膨らんで、いろんな人を巻き込むなんて。予想していないことが起こるだけでワクワクしちゃうの」と、屈託のない無邪気な笑みを僕に見せる。

 お構いなしときたもんだ。僕が、この先にある、不吉なことの数かずや、危機的な現状を案じても、みえ子にとっては、その不安要素はそよ風のようにすぐ吹き飛んでしまう。ぎこちない温度差を感じながら東北へと車を走らせる。

 道路の雨が光を反射させる。後ろから警察はやってくるのだろうか?強盗集団のメンバーの誰かが僕らを追いかけているのだろうか?

 焦燥感を抱きながら道中、話し合って決めたこと――。手元に残った75万円を旅で使い果たす。かのじょの言う「散財」は行き当たりばったりで無計画なものだろう--1日10万円以上を使う。その金で何がしたいのか見当がつかない。同時に、どこかで、この旅がかのじょとの最期になり得るのではないか、と確信めいた予感を抱いた。

 ワイパーを動かしながら車を走らせる。

 ラジオをつけることなく、閑散とした道路の上に、春の大気から流れる汗がコンクリートを打ち付ける。その音だけは、雑音のする車内にも響いてきた。雨音が拍車をかけるようにみえ子の饒舌(じょうぜつ)が始まった。僕は運転する疲労と、かのじょの話に付き合う疲労を存分に感じながら、話の内容が下らなく思えもしたし、不吉な先行きを暗示しているようにも思えた。

 気を紛らわそうとラジオをつけると、ビル・エヴァンスの「枯葉」が流れてくる。季節はずれの枯葉のように、僕たちは流されてゆくのだろうか。

 この暗闇はどこへ僕らを運ぶのだろうか。

【後方】

一度走ったら最後まで、引き返せない。

 この車は目的地の青森に着くまで、着いても走りつづける。直進以外の操作を受け付けない車体のように。後ろに戻ろうとしても、僕とみえ子の意思が戻らせない――。もう後ろには退けないのだ。

 罪のある万札を盗んだみえ子、罪のない質屋の店主を殺した僕、現金強盗犯に追われているかもしれない、警察にも追われているかもしれない僕ら。ここで戻ったら罪人を裁く世界から抜け出せなくなるとの焦りからなのか、僕は気がついたらみえ子に「大丈夫」と声をかけていた。安心させようと思ったが、かのじょは寝てしまっている。

 自分に言い聞かせただけだった。

 ――「なんとかなる」と、根拠はないのに、自分を奮い立たせては、不安が襲う。その繰り返しだ。森の新緑の輝きがその不安を吸い込むように思えた。みえ子はいっこうに目を覚ましそうにない。安堵して寝ているのか、緊張の糸が切れて寝ているのかはわからない。

 交際歴が長ければ相手の気持ちがわかるようになると思われているのかもしれない。しかし、みえ子に限っては別だと思っている。長くなれば長くなるほど、真意が読めなくなってくる。――左右に見える森以上に奥が深い。この旅はかのじょの飢えを満たすためのものなのだろうか、と反芻してしまう。かのじょに翻弄され、思うがまま、動いていると逡巡してしまう。巻き添えだと、被害感情からかのじょを責めたくなってくる。――僕は関係ない。悪いのは、110万円盗んだかのじょで、満たしたい欲を僕にまで植え付け、行動させるよう仕向けたのもかのじょだと。

 その矢先に勢いに任せて、僕は携帯電話を森に向かって投げた。イラ立ちが昂じてきたからなのか、それとも深い緑に魅せらせたからかわからない。要らないものは要らない。あるものを無くしていけば身軽になれそうな気がした。僕の葛藤がかのじょに伝わるわけはないと諦めている。

 深い眠りについているみえ子に対して、僕の目はあたりを警戒するように、つねに左右前後を見渡しているのだろう、きっと。緊張から瞳孔を見開き、あちらこちらへと、僕の目線は忙しかった。

 忙しなく続いた運転のすえ、午前6時には宮城県に着いた。ようやく、と安堵のため息を吐く。眠気に焦り、他にも渦巻く感情――怒りに近い、心のうずき――が胸を圧迫し、全身を蝕んでゆくことに気づいた。蛇のように解けず、僕に絡まりつづける。

 「宮城だよ」と声をかけ、みえ子を起こそうとする。
 「もう…朝なのね。75万円を使い切らないと。せっかくだからいいホテルにでも泊まりましょう」
 「ニューオータニがある。とにかく入ろう。眠りたいんだ」
 みえ子は無言でうなずいただけで、何も言わなかった。もう寝たから急がなくても……といった表情だが、寝ていない僕は一刻も早く横になって疲労を取り除きたかった。

 ホテル代は川越市で泊まったラブホテル代の何倍も高くついた。とはいっても、手元には旅行--これを旅と呼べるのなら--をするのに、不自由のない金がある。東北の地で散財するのが目的でもあるわけだし、思い切り使い切るつもりでいた。

 ダブルの部屋が空いていたので、3日は連泊すると伝えた。ホテル代以外で使う金額はあまりなさそうだが、余ったら、延ばせばいいだけの話だ。みえ子は連泊すると勝手に決めた僕に「たくさん贅沢しましょう」と、少女のように純粋無垢な笑顔を振りまいた。ロビーで言うのか、と思ったが思ったことをすぐに言い出してしまうところが、かのじょらしいといえばかのじょらしい。

              ***

 気がついたらもう夕方の4時。あたりは暗くなりつつある。夜更けに近づく、空模様は怒りをこらえた表情をしていた。

 「やっと起きたのね」。酒の匂いがする。寝起きの目で見るみえ子の横には、ルームサービスで頼んだと思われるワインのボトルがあった。
 「不思議と酔わないのね。健一郎が寝ている姿を見て、私、安心したのよ。目が血走っていたから。今日は外に出ず、ここでゆっくりしましょうよ。慰労の日にするのはどうかしら?」
 どうでもよかった。とにかく疲労感がなくなればいい。この疲労は約10時間の睡眠ではなくならない。休めれば、それだけで十分だった。黙って、首を縦に振ると、
 「豪勢なディナー、楽しみましょう。せっかくなら罪と血にまみれたお金を使い切りたいもの。それから死ぬのよ、私は」
 「とりあえずは服を着させてくれ」と言った途端に自分が裸なのに気がついた。
 「意外と元気だったわよ」と舌を少し出し、微笑むみえ子の存在は、愛おしくもあり、憎悪の的でもあった。二重性があるからなのだろう、僕がかのじょに惹かれたままでいるのは。嫌悪感を抱くと同時に、根底には愛があった。
 「そういうことか。笑えないよ、疲れているんだ」と、苦し紛れに言ったものの、かのじょは高笑いするだけだった。とにかく準備がしたい。正直、あとは成り行きでいい。

 警察に捕まるかもしれない。強奪犯の誰かにさらわれるかもしれない。みえ子は僕を見捨てるかもしれない--。「かもしれない」を考えたらキリがなかった。それならいっそのこと、現金を使い果たしてしまうほうが得策だ。

 急がず、ゆっくりとした動作で服を着、僕は部屋の外に出る準備を整えた。いつどこで何をしようと、その瞬間が最期の時になると、自分に言い聞かせていた。

【晩餐】

 レストランに着いた。幻想的な空間に"Por Una Cabeza"が流れている。悲壮感のあるタンゴ曲に聴き入っていた。曲の酔いから覚めると、あたりを見渡し、場違いな感じがしてきた。

 ブランド品に疎い僕ですら、十数万円以上の高級服を身に纏っている人たちが多いとわかる。これ、といった根拠や理由はない。見ていかにも高そう--その印象からだけだ。僕といえば、パーキングエリアで買ったTシャツに、デニム姿と場不相応に思えた。

 みえ子は周りの目線を気にしないタイプ。

 「なにオドオドしてんのよ。お金だって払ってあるし、払う余力もあるのよ?いちいち自分を溶け込ませようとムリするから浮くのよ」
 「いや、別に……」
 「不器用なんだから。わかるわよ、ただ、思っているほど周りの人は健一郎を見てはいないわ」と言った。僕は周りを気にし過ぎているようだ。そう自分で、納得させていた矢先に
 「自意識過剰なところ、好きだったりするのよね」と不敵な笑みを浮かべたみえ子に脅威に近い、得体のしれない何かを感じた。得体がしれない--お互いのことをお互いが知っている、と思いきや、見えなかった一面が現れるのだ。言葉を失いながらも、平静を装ってレストランのスタッフに案内されるがまま、自分たちの席へと移動した。

 言われてみれば、確かに自意識過剰だ。それにつねに周りを気にしている。みえ子からしたら下らなく思えるのだろう。--笑えばいいさ、と敵対心のある笑みを僕は返した。

 ほどなくして、食事の案内を受け、注文の仕方や今日売り切れてしまった料理、相性のいい酒などの話をする時間が長く感じられた。耳馴染みのない話を聞いていたふりをしていたら、突然ホテルの支配人がやってきた。息を切らしているハズなのに、切らしていないよう、無理やり取り繕っている様子。

 「田上様でございますでしょうか?電話がかかってきております。お急ぎのようなので、ご対応お願いできますでしょうか?」と支配人。表情に出さないよう努めているものの、焦りに駆られているのは即座にわかった--。

 警察からの電話だ。全国的に探されているのだろう。

 急ぎだ。電話には応えはする。ポーズでもなんでもいい。時間をどうにかして稼ぐしかない。とにかくこの夕食はスキップするなりして、ホテルから別のところへと移るしかないと、瞬時に思い浮かんだ。 

 首を縦に振り黙って、駆け足気味に電話口へと向かった。「もしもし」
 「田上様でよろしいでしょうか?」。気味が悪い。さきに受けた警察の電話の声音とは違う。特有の高圧さがないのが不気味に感じられ、同時に、警察以外の者が警察と名乗って、接触しようという意図が電話口から透けて見える。
 
 「はい、間違いはございません」。後ろで騒々しい物音がする。
 「もうご事情はお分かりですよね?」
 「いえ、なんのことか……」。今さら小手先でごまかすのは、ムダとわかっているが、知らない体でシラを切ろうとしたその瞬間、
 「おい!おめえの女早く電話口にもってこいよ、なあ?」
 背筋が震え上がった。実行犯メンバーの誰かだ。僕らの居場所を確実におさえてある。
 「おい、情報が回ってねえとでも思ってたか?あんまりナメんじゃねえぞ!」
 「そう言われましても……」
 「そっちに向かう」と言い、電話を切った。

 一番マズい状況になった。警察以上に恐ろしいメンバーに特定されてしまった。警察も僕を追っているものだから、頼るわけにはいかない--あくまで僕は人殺しだ。

  顔面の血の気が引き倒れそうになるのをこらえた。支配人は我関せずといった様子。急がないと。支配人に「連泊代支払います。ただ、チェックアウトすますので」と、手短に伝えた。黙ってうなずき代金を受け取った。「荷物もこちらまでお願いできますでしょうか?」と尋ねると、重い口を開いた。「はい」
 
 一分一秒を争う展開。急いでみえ子の手を引っ張り、僕は「出よう」と声をかけた。逃げるしか道はない。事情を説明しなくてもどうなっているのか、わかっているようだ。「車を出さないとね」と力も込めず淡々とした話ぶりだ。

 車に乗り移るまでの時間はものの数分だったと思う。さきの支配人のように焦っている様子が伝わらないよう、必死に努めた。支配人は、動転していると気がついているだろう。そして今の電話が警察でないこともわかっているハズだ。犯罪者に追いかけられる厄介者を追い払いたい--目がそう語っていた。

 荷物をまとめ、ワーゲンにエンジンをかける。行き先は不明だが、とにかく巻けばいい。--青森まで直行だ。みえ子にはなにも告げずに車を走らせた。途中、向かい合う車が強盗犯のものか考えては冷や汗を垂らした。後方の車をミラーで見張るようにみえ子には伝えた。

 みえ子を追っている人間が「アノ」実行犯のなかにいるのだろう。彼らも追われている身だ。みすみす警察に跡をつけられるようなヘマはしないだろう。--微かな希望に託し、僕はかのじょの出身地へと勢いづけていった。

 【集落の崖へ】

 どうにか交わせたようだ。それも束の間だろう。ここ--東北エリアを出、目のつかないところに逃げない限り、僕たちは容赦なく危害を加えられ、手持ちの財産のすべてを奪われる。

 どうやって特定したのかは、この際考えても意味がない。それより、どう交わすか、無事に交わせたらどうするか--必死になって考える。みえ子は寡黙な様子で、僕が追っ手から逃れられるか、手腕を試しているようだった。

 かのじょにとってはすべてがゲームなのだ--血と罪と命がかかったゲーム。

 暗闇のなか集落にでも隠れようと思った。咄嗟の発想で深い緑に埋れれば見つからないと踏んだだけ。なんの意図もなかった。みえ子は深妙な表情を浮かべず、焦る僕を嘲笑うように見ていた。



















































































































































































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