2020年秋号・10月4日成人科 ナザレン希望誌ウェブ版

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信仰によって義とされる ローマ 3:21-31

 最初にパウロがローマへの訪問をどのように見ていたか、を把握しておく必要があるでしょう。パウロはローマへの訪問を常に福音宣教の最終目的地として視野に入れていました。ぞれは、ローマが当時の世界の中心地と考えられていたからです。
 そのために書簡の中で前もって、福音の知っておくべき信仰的教義を丁寧に展開し、説明しています。いわゆる、罪・咎・赦し・救いと言われるものを、イエス・キリストの十字架による死と復活によって福音的に明確にしようとするものです。
 ここで学ぼうとする「信仰による義」は、ローマの信徒への手紙の中心的テーマといえるほど重要な位置を占めています。
 この問題は、今の私たちの信仰においてさえ曖昧になりがちな事柄です。
 今もって、行為の良し悪し、熱心・不熱心などにおいて信仰の充実を図ろうとすることのみで信仰が決まってしまうような錯覚に陥る危険性がいつも存在します。これが「聖潔」に対する誤解となりがちです。
 パウロもこのことは、イエス・キリストの死による罪の贖いと復活による救いと当時のユダヤ人が信仰の規範としていた「律法」を比較説明しながら丁寧に福音による信仰を展開しています。今回与えられているのはその教えの一部です。
 いわゆる信仰の規範として与えられている「律法」をしっかりと守っていれば、それで信仰か、と問われるとそうではありません。これは「行為義認」と言われるものです。
 もちろん信仰には、目に見える形、すなわち行為が伴って当然ですが、その前に私たち人間が持つ見えない形、すなわち罪の問題が解決されなければ信仰にはなりえまぜん。だからこそイエス・キリストによる十字架の罪の贖いと復活の永遠の命によって生かされることを信じることが求められるのです。これが「信仰による義」と言われるものです。パウロはこの問題を具体的な形で展開しています。それがⅠコリント13:1-13の愛についての教えに垣間見られます。
 私たちは常に自分の考える主観的立場で信仰を考えてしまいます。時に信仰的行為が勝ったり、ときにイエス・キリストの十字架と復活に触れて涙するあまり、罪が赦されたことに対してことさらに感傷的になったり、と。このことも間違いではありません。
 しかし、基本はパウロが明確にしている通り、主イエス・キリストによる十字架による死と復活に生かされることをもって良しとし、そこに信仰の喜びの根拠が存在することを常に把握することが求められるのです。

【問題】1.あなたの信仰は、信仰と行為のバランスが取れていますか。
    2.信仰において知っておくべき基本は何ですか。  

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