2021年冬号・1月24日小中高科 ナザレン希望誌ウェブ版

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■ 説教準備のためのテキスト研究
五つのパンを五千人に ―――― ヨハネ 6:1-15
伝えるポイント;少年の一食分に過ぎないパンと魚をイエスが感謝して分け与えたとき、男五千人が満腹した。

ポイント1、
 奇跡をどう考えるか?イエスの奇跡物語はいくつもあるが、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ四つの福音書すべてに共通して書かれている奇蹟は、このパンの奇蹟をのぞくと、残りは一つしかない。残る一つとはつまり「三日目の復活の奇跡」のみである。ということは、パンの奇跡は、復活に次いで特に重要であったことを示している。奇跡物語について、聖書のこの部分は信じるが、この部分は信じないというふうに自分で信じる内容を決めていると、キリスト教信仰を守る上で不可欠な究極の奇蹟である十字架の死からの復活すらが曖昧になってしまう危険がある。(注1)

ポイント2、
 14節を見ると、「そこで、」とある。人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスが奇蹟をなさるとき、それは単にそのときの必要を満たし、人助けをされるためと言うだけではなく、かならずイエスが一体どういうお方であるのかということを暗示する「しるし」が伴う。すなわち、旧約における救い主とすらいえるモーセのもたらした「マナ」の再来であり、新約におけるまことの救い主の到来のしるしである。

ポイント3、
 イエスは御言だけではなく、実際の食べ物を与えて下さるという事実である。何年か後に天国に入れてあげるから、今は飲まず食わずでいなさいとはおっしゃらなかった。確かにイエスの言葉の中には「人はパンだけで生きるものではない」というものもある。しかし「人にはパンが不必要」とは決しておっしゃらないのである。イエス御自身が私たち全ての人間と同じように肉体を持ち、苦しまれたからこそ、人間には、パンが必要なことを御存知なのだ。だから「我らの日ごととの糧を与えたまえ」との祈りも教えられた。これらの教えには、最終的には「神の言葉とパンは別々ではない」という奥義がある。わたしたちは、神の言葉とパンが同じところから来ること知り、どんな必要を満たしてくださる神を信じたい。

ポイント4、
 イエスは、私たちが差し出したほんのわずかの物を驚くばかりに増やされた。私たちには金も無く力も無く人数も少ない。そう言って私たちの心はいつも「無いもののほう」にゆく。しかし、イエスは不思議なこと、私たちの想像を超えたことを行われる。何も無いではなく、何であればあるのか?五つのパンと二匹の魚がある。それを主に差し出そうではないか。そんなところから何も起こらないと思っているような、そこからイエスは奇蹟をされる。このことを、私達自身の今のこの生活の中で、体験し、実証し、確信に立って信仰生活を全うしてゆこうではないか!

(注1)すべての奇蹟物語を頭ごなしに信じないからクリスチャンではないとまでは言わない。聖書の奇蹟を、すべてありのままの事実として信じるわけではないという人と出会うこともあるが、それでも立派な信仰を守っておられる方々はたくさんおられる。

■ 中高科
五つのパンを五千人に ―――――ヨハネ 6:1-15
伝えるポイント;少年の一食分に過ぎないパンと魚をイエスが感謝して分け与えたとき、男五千人が満腹した

準 備
 この記事は、四つの福音書全てに記されている唯一の奇跡の物語である。場所はガリラヤ湖の北東の湖岸で、時は過越しの祭りが間近に迫っていた時である。
 イエスの話を聞くために成人男子だけでも五千人、もし女性や子どもを入れると一万人以上の人々が集まって来ていたと考えられる。イエスは彼らに食事を提供することについて、ピリポにその問題を投げかけた。ピリポは、自分達には全員のお腹を満たすための食物を購入する資金はなく、またどこで食物を調達したら良いか、見当がつかないと答えた。それはイエスの御業への期待を抱かず、ただ事務的に判断したに過ぎなかった。
 アンデレが、一人の少年が五つのパンと二匹の魚を持っていることをイエスに伝えたところ、イエスは人々を座らせるよう命じ、そのパンと魚を感謝して分け与えた。全ての人は食べて満腹しただけでなく、屑を集めると12の籠が一杯になる奇跡が起きた。
 「パン」は、「わたしが命のパンである」と言われたイエスの象徴であり、「魚」は後の時代のキリスト者が、「イエスキリスト神の子救い主」の頭文字から、「魚」のロゴで主のことを現わしたように、救い主の象徴である。

説教例
 イエスさまがガリラヤで説教をされた時、大勢の人々がイエスさまから話を聞くために集まって来ました。その数は大人の男性だけで五千人いたので、女性や子どもを含めると一万人位はいたのではないでしょうか。彼らは、イエスさまが他の町で病人を癒されたのを見て、イエスさまが言葉にも業にも権威と力があることを感じたので、もっとイエスさまから話を聞きたいと願いイエス様の後を追ってきていたのです。
 食事の時間が来た時に、イエスさまは弟子のピリポの信仰を試して、「この人たちに食べさせるにはどこでパンを買えばよいのだろうか」と言われた。ピリポはこのイエスさまの言葉に戸惑いました。ピリポは、「大勢の人のお腹を満たすための沢山のパンなど、どこへ行けば買えるだろうか」。また他の弟子たちと自分が持っているお金を合わせると全部でいくらになるのか確かめたのだと思います。そしてピリポは、「私たちは全部で200デナリオン(働く人の200日分の日当)しか持っていないので、これだけではどうしようもありません」と自信なげに答えました。何故イエスさまはピリポが困るような質問をあえてなさったのでしょうか。それはピリポを困らせるためではなく、また恥をかかせるためでもありませんでした。それはピリポがイエスさまの行う奇跡を見て、イエスさまに対する信仰をしっかり持って欲しい、また信仰があれば困難な状況を乗り越えることが出来るということを知って欲しいと思われたからです。
 イエスさまは、少年から差し出された5つのパンと2匹の魚を、感謝の祈りを唱えてから人々に分け与え始めました。すると皆が満腹になるまで食べても、パンの屑を集めると12の籠が一杯になるほど余ったのです。わずかなものでも、イエスさまの手に握られると驚くほどの大きなものになるのですね。私たちの才能や出来ることは限られているし、大きな影響を与えるものではないかも知れませんね。しかし、イエスさまに明け渡して、イエスさまに用いていただくようにしたらどうでしょう。きっと想像できなかったような素晴らしいことが起きるはずです。ロサンジェルスに住んでいるディランくんという6歳の男の子にはジョナくんという難病のために苦しんでいる友だちがいます。ディランくんは難病の研究に寄付するお金を得るために手作りの絵本を描いて学校のバザーで売りました。すると大人の人が感動して皆が買ってくれたのです。それが評判となりテレビでも取りあげられて、ついに書店から43ヶ国語に訳されて出版社されることになったのです。
 小さなことでもイエスさまに用いていただこうとすると、イエスさまはそれを用いて下さるのです。

■ 小学科
五つのパンを五千人に ―――――ヨハネ 6:1-15
伝えるポイント;少年の一食分に過ぎないパンと魚をイエスが感謝して分け与えたとき、男五千人が満腹した。

準 備
 一デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金のため、二百デナリオンは一人の人が二百日かけて稼ぐ金となる。この奇跡は、主イエスが弟子たちに、ご自分は何者なのかを、体験を通して教え示してくださったということができる。

説教例
 皆さんの小学校には給食がありますか? 児童数は全員で何人でしょうか? 今日の聖書のみ言葉は、「五千人の給食」として知られている箇所です。五千人と言っても、実際はもっと多かったと考えられています。男性だけで約五千人という意味で、女性や子どもも合わせれば、きっと一万人、いやそれ以上いたと思われます。それほどの大人数分の給食が、少しのパンと魚から振る舞われた、それも全員が満腹するほどにです。これだけでも、この話がものすごいお話だと分かると思います。
 でも私たちは思うでしょう、これは本当の話なのだろうか? 五つのパンと二匹の魚をどう工夫して分けようが、十人分にも満たないと思います。どう考えても、あり得ない話だと思うのです。ですから、しばしば文字通りではなく、ちょっと違うようにアレンジして話を理解することがあります。例えば、群衆の多くはそれぞれ食料を実は隠し持っていたと考えるのです。そこに、心優しい一人の少年が出てきて、自分が食べる分として持っていたパンと魚をイエスさまに差し出す。それを見た群衆は、自分たちの欲深さを恥ずかしく思う。心を打たれ、ついにはそれまで隠していた食料をイエスさまに差し出して、皆で分け合う。するとなんと皆がお腹いっぱいになるほどの量が集まり、12個ある籠もいっぱいになるほどであったいうのです。仮に満腹になるほどでなかったとしても、分かち合う姿を通して、皆が心温かに満たされた(≒満腹になった)のだと。そのような読み方をしなければならないほど現実離れしている内容だと思われているのです。しかし、聖書はこの出来事を、あくまで主イエスさまがなさった奇跡として語っています。私たちはそのことに十分注意を向けなければなりません。
 イエスさまは、差し出されたわずかなパンと魚を取り、感謝の祈りを神さまに唱えられました。それは神さまに「これだけでは足りません、なんとかしてください」と嘆く祈りではなかったはずです。また、パンと魚に向かって、「増えろ、増えろ」と魔術や念力をかけるものではなかったでしょう。イエスさまは、パンと魚を祝福し、神さまに差し出されたのです。今あるものに感謝と賛美をささげ、与えられた喜びを神さまに表されたのです。その感謝と賛美の祈りの言葉は弟子たちだけではなく、群衆にも響き渡ったでしょう。そのような中で、パンと魚が分かち合われていきました。神さまのご用のために捧げられるとき、神さまがそれを恵みとして用いてくださるのです。イエスさまがなさったのはそういうことでした。少年が一食分として食べるほどのほんのちっぽけなパンと魚です。しかし、これが驚くほどの実り、五千人以上の人々を満腹させる恵みとなったのです。弟子たちも用いられていく中で、神さまの大きな恵みを体験していったのです。イエスさまが主キリストであることも知るに至ったでしょう。イエスさまを信じていく中で、私たちも同じ恵みを体験させていただけるのです。

■ 小学科ワーク

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