2021年冬号・1月10日成人科 ナザレン希望誌ウェブ版

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ヨハネ2:1~12 清めの水瓶の水を葡萄(ぶどう)酒に変える

 本日は、イエスの「最初のしるし」が書かれている箇所(11節)と4節にある「時」の2つが中心です。
 「しるし」の持つ意味は「イエスは救い主」ということを伝えることです。この福音書で「しるし」と表現されている所ではいつもイエスへの称賛、或(ある)いはイエスを信じる人たちが起こされたことが書かれています(6:14、12:18等)。しかし、イエスは「しるしを見て信じた人たちを信用なさらなかった」と告げています(2:23~25参照)。何故なら人々は「しるし」を驚くべき業と受け取りましたが、イエスにとっては十字架の死を伝えることだったからです。ここに、この福音書の「世の罪を取り除く神の子羊」という言葉が伝える意味内容が表されています。その観点から本日の聖書の箇所を読んでまいります。
 「時」については4節にある「わたしの時はまだ来ていません」という言葉です。イエスと母マリアが交わした言葉の中に「時」という言葉が出ています。
 この2つの内、まず「時」について書いてまいります。イエスが語られたわたしの「時」とは何でしょうか。12:27に「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救って下さい』と言おうか。しかしわたしはまさにこの時のために来たのだ。」と書かれているように、十字架の時こそがイエスの「時」なのです。「しるし」については今月31日の(ヨハネ6:41~51)でも触れてまいりますが、この福音書においては「しるし」も「時」もイエスの十字架を表した言葉なのです。
 「葡萄(ぶどう)酒」から想起されるのは最後の晩餐においてイエスが語られた「これはあなた方の為に流されるわたしの血」です。但し、この福音書にはこの記述はありません。本日の聖書箇所こそがそれにかわるものだと考えられます。義とされること(罪が赦されること)は葡萄(ぶどう)酒に象徴されるイエス・キリストの血によって起こることであり、「清めの水」によって清くされるのではないのです。パウロはローマ5:9において「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」と書いています。本日の箇所も、パウロもキリストの血によってこそ「罪の赦し」が起こると伝えています。そのことは、人々が羊や牛等を献げることによって求めていた罪の赦しは意味がないということになります。ですから2:13節以降が伝える羊や牛やハトを売る商人達の存在も必要ないということです。それが、イエスが神殿の清めを行った理由だと受け止めて良いでしょう。
 ここまでの所で、皆さんは何を感じておられるでしょうか。水を葡萄(ぶどう)酒に変えることは奇跡としての「しるし」ではなく罪の赦しの出来事としての「しるし」と申し上げなければなりません。ですから、ヨハネが伝えようとした「世の罪を取り除く神の子羊」というメッセージは、「葡萄(ぶどう)酒」という言葉によってしっかりと伝えられています。そのことを踏まえてもう一度1節から12節を読み、語り合ってください。
【設問】
イエス・キリストが与えてくださる葡萄酒は良い葡萄酒と書かれています。あなたにその実感はあるでしょうか。
参考賛美「イエスよこの身をゆかせたまえ」(367)

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