2021年冬号・1月24日成人科 ナザレン希望誌ウェブ版

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ヨハネ4章7~26節 イエスこそ永遠の命に至る水を与えるお方

 今回、4章7~26節までが指定されていますが、6節の「正午頃のことである」という言葉を含めて読む必要があります。「正午頃」は人と会うことが少ない時間を意味します(創世記24章11節参照)。また、ヨハネ4章28~29節ではイエスと女性とが対話した結果、女性に変化があったことが伝えられています。今回指定された聖書の箇所との間に何があったのかを聴いてまいります。
 前回、「水」については4章で読むということを書きました。「永遠の命」と「水」ということの関わりが4章にも書かれているからです(14節)。井戸に水を汲みに来た女性とイエスの対話です。この女性はイエスと対話をしているうちに、心が渇いていることに気が付いたのでしょう。喉の渇きは水で癒せますが、心の渇きは水ではなく神の(イエスの)言葉によってでなければ癒されないことにも気が付いたのです。(15節)
 このことを通して詩編42編の「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める」(2節)を思い起こさせられます。詩人は飲む水を求めたのではなく、心の渇きを癒し潤すものを求めたのでしょう。その意味で女性の心の渇きと詩人の渇きは同じものであるということが出来ます。「飢え渇き」を通して、永遠の命に至る言葉を求めることが起きるのです。(3章も含めて)永遠の命について語り、それを与えるのは「わたしだ」とイエスが語っておられるのです。
 敢えて申し上げます。神の言葉は私たちをも永遠の命に導く言葉です。神の言葉に出会ったとき、力づけられ、励まされ、導かれ、慰められ、懲らしめも受けるのです。ここに書かれた女性は自分の生き方を恥じていたと思います。けれどもイエスとの関わりの中で、イエスが永遠の命の言葉を持っているお方であると気が付いたときにこの女性の生き方が変わりました。自分を恥じ、人と出会いたくなかったのに、自ら人に出会いに行き、人々を誘ってイエスのもとに行く人となったのです。
 神の言葉とはそのように人を変えるものです。私たちも神の言葉に出会うことによって生き方が変えられる、それが教会のメッセージなのです。
私たちは何処で神の言葉に出会うことが出来るのでしょうか。礼拝における説教こそが神の言葉と私たちの出会いの時なのです。「礼拝」が4章のもう一つの課題だと受け止めます。イエスは「霊と真とを持って礼拝しなさい」とおっしゃいました。その礼拝の中心には神の言葉の解き明かしとしての説教が語られます。ですから説教者は「神の言葉を神の言葉として語る」という信仰の自覚と使命を持って語らなければなりません。聴衆は「神の言葉を神の言葉として聴く」という信仰と、説教者が「神の言葉を神の言葉として語ることが出来るように」と祈り支える必要があります。そこに(ニコデモの様に、サマリアの女性の様に)生き方を新しくされていく現実が起こるのです。皆様が参加しておられる礼拝が、またその礼拝の説教者が、そして聴衆が神の言葉に出会える礼拝となるよう聖霊の助けを求めて祈ってください。
 筆者も祈ります。
【設問】 神の言葉によって(説教によって)生き方が変えられた体験をお持ちと思います。そのことを皆さんで語り合ってください。
参考賛美 「神はわが力」新聖歌(297)

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