2021年冬号・1月17日成人科 ナザレン希望誌ウェブ版

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ヨハネ3:1~15 夜の訪問者ニコデモにイエスは真の新生を説く

 今回の課題は「夜の訪問者」となっていますが、このことには特に触れず「永遠の命を得るためには」ということを課題としてまいります。
 この課題はキリスト教信仰の中心的なことだと受けとめております。だからこそ、観点は違いますが共観福音書(以下共観)にも「金持ちの青年・男・議員(ニコデモも議員です)」という形で記述されています。
 それでは共観とヨハネとの違いをどこに見るのでしょうか。それは共観では「子どもの時から律法を守っている」と語っているところにあります。律法に書かれていることを守り行ってきたけれども、そのことによっては「永遠の命」を得ることが出来ていないということを語っています。少しだけヨハネに戻りますが、ニコデモはファリサイ派の人でした。ですからニコデモも律法によって生きることを大切にしていた人でしょう。ヨハネはニコデモの訪問の目的について直接触れておりませんので、筆者の推測するところによっていますが、ニコデモがイエスを訪ねて来たのは、永遠の命に関することであったのかも知れません。
 共観に戻ります。そこには「持ち物を売り払って貧しい人に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる」というイエスの言葉によって、他者への関心とそこから生まれて来る行動を求められています。それは、永遠の命を求める者の課題として、自分が永遠の命を得ることに熱心になるだけではなく、愛を以って他者との関わりを持ちたいと願う様にと、イエスから勧められているということができます。その延長上に「わたしに従いなさい」というイエスからの招きがあるのです。
 ヨハネとの共通の事柄は「氏(うじ)・育ち・経済的豊かさ」によっても永遠の命を得ることが出来ていないと告げていることです。これらのことから考えますと、ヨハネも共観も人間の可能性・力では永遠の命を得ることは出来ないということを伝えていることは明らかです。共観は従うことによってこそ永遠の命にいたることをイエスの招きから語り、ヨハネは「信じる者が(15節)」永遠の命を得ると表現しています。ここにヨハネと共観とが共に、永遠の命を得られる在り方が語られ、ヨハネはそのことは聖霊によってこそなされていくことを強調しているのです(5節)。パウロも聖霊の働きによって信仰の事柄が起こると語っています(Ⅰコリント12章3節)。ヨハネは聖霊について「思いのままに吹く風」と書き、聖霊の下(もと)に私たちがただ身をさらすことによってこそ、永遠の命が与えられることをメッセージとして伝えています。具体例で申しますと、枝に繋がっている木の葉に風が当たると、木の葉は風に吹かれて揺れています。木の葉の思いではなく、風の吹くままに木の葉は揺れるのです。私たちが聖霊の下に身をさらすということは、「あなたのみ旨を行ってください」と祈りつつ生きている信仰者の姿を思い起こしていただくことで、解(わか)ってくださるかと思います。
 以上のことから、永遠の命を得る(与えられる)のは神の思いのままに行なわれることであり、私たちは感謝を持って受け入れることだけが求められていることを確認し、感謝のうちに歩んでまいりたいと願います。
【設問】 
① 新約聖書の中にヨハネ福音書と共観福音書があることの意味と幸いについて語り合ってください。
② 聖霊の下に身をさらすとはどんなことなのか話し合ってください。
参考賛美「信仰こそ」(新聖歌275)

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