2020年秋号・12月13日成人科 ナザレン希望誌ウェブ版

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妻を迎え入れたヨセフ       マタイ 1:18-25

 前回に続き今回も受胎告知のテーマを取り上げることになっています。
ルカ福音書ではマリアの立場から記す受胎告知がテーマとなっていますが、マタイ福音書の場合は、ヨセフの立場から受胎告知のテーマを展開しています。
 前回でも取り上げましたが、マタイはイエスの御降誕を必然性から明確にする傾向があります。マタイはこの問題をより強く主張します。それはイスラエルが犯し続けた罪の歴史を前提にしつつ、御降誕を贖罪として位置づけようとしているからです。「マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(21節)と明確に記しています。
 マリアとヨセフの間に起きてしまった身に覚えのない出来事に二人はほんろうされます。マリアとヨセフは肉的にお互いに懐疑的になります。しかし、ヨセフに臨んだ天使の言葉に二人は救われます。処女マリアに与えられた胎児は聖霊の導きにより、マリアとヨセフの信仰に対する結果が形になったものだと知らされるのです。ヨセフは処女マリアをかばうために離縁することまでも考えますが、聖霊の導きでマリアを傷つけないために、また傷つかせないために愛にも似た信仰をもってマリアを守りそのまま受け入れることを決断するのです。
 処女マリアに何の問題もないところから、どう考えても受胎が起きるはずがありません。ヨセフとマリアは恐怖におののきながらも天使の言葉に対し信仰をもって神に応答するのです。聖霊の働きは、ときに私たちが意図しないままに私たちの間に信仰を思わぬ形で与え、私たちを不可思議な出来事に驚かせることになります。マリアとヨセフの間に起こった震撼させる出来事はイスラエルの新たなる信仰の幕開けを意味しています。この信仰を用いて神はメシア(救い主)イエスの出現を可能にし、イスラエルの歴史的な罪を贖うために尊く用いられていくのです。
 私たちに与えられる信仰は、理想的な形をもって私たちの上に実現するとは限りません。思ってもみない形で信仰が与えられたり、真に苦しみつつ辛さの中で信仰に導かれたりすることもあります。しかし、どんな信仰も神は尊く用いてくださるのです、世間的には何の名声もないマリアとヨセフ間に起きたように。
 信仰は胎児が大きく育っていくように、生きて働き始めます。私たちの信仰も不可思議な形で与えられ、神の御業のために尊く用いられます。

【設問】
1.マリアの立場から考える受胎告知、ヨセフの立場から考える受胎告知をそれぞれ比較しながら考えてみましょう。
2.マリアの身に起こった出来事は何を意味しますか。


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