2020年秋号・レストラン エパタ「木田愛信牧師の生涯①」 ナザレン希望誌ウェブ版

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格調高い名通訳者
木田愛信牧師の生涯(1)
                坂井修一(藤沢教会)
   <文中、敬称、敬語は敢えて用いないようにしました>

この家系から
 木田愛信は1904年(明治37年)3月22日に木田文治、寿子の長男として茨城県土浦市に生まれた。木田家は祖父 鼎造(ていぞう)の時代まで、代々長野県上水内郡富士里村落合にあって、鼎造は酒造業を営んでいた。 愛信は木田家初代小太夫(永禄-慶長年間)から数えて第十代の直系に当たる。又、祖父 鼎造、父 文治に続くクリスチャン3代目であった。
 祖父 鼎造は頑固かつ一本気な性格で、長男 文治の熱心な勧めに折れるや、法事の席上で僧侶を始め親戚一同の前で仏教からキリスト教への改宗を宣言、更に先祖から受け継いだ家業を完全に畳んで不動産を処分し、故郷を捨てて東京に移ってしまった。 その子文治もまた、奔放闊達、波瀾万丈の生涯を送った人であった。 彼は22歳にして単身勉学を志し渡米、現地で神に出会いキリスト者になる。当初はフレンド派の伝道者であったが、帰国後は、岡山を拠点として「ヱホバの教会」を創設、後にホーリネス教会に合流、戦時中の弾圧で投獄され、戦後は千葉の聖書農学園(のちナザレンの日本基督教短期大学)教授に迎えられた。その後に引退して、晩年を長男愛信の家族と共に過ごし、88歳で天に召された。
  一方、愛信の母 寿子(旧姓伊達)は1877年(明治10年)岡山県高梁で出生、1902年木田文治と結婚、東京市芝区(東京都港区)芝公園内に一軒家を借りて新家庭を持った。

生い立ちから少年時代
 愛信誕生の頃、父文治は茨城県土浦のフレンド教会牧師であった。 彼は内村鑑三を講師に招くなど、この町の求霊のために様々な手段を使って活躍し、多くの人たちを救いに導いた。しかし、5年が経過した1907年(明治40年)、フレンド派の年会に出席するため二度目の渡米をすることになった。このとき、既に愛信の妹寿美子が生まれていたので、愛信と母寿子、寿美子の三人は日本に残り、母方祖父母と共に東京市赤坂区巧運町に居を移した。この家は、フレンド女学校の所有で学校の裏手にあった。 母は女学校の婦人伝道師に任ぜられた。
 単身米国に渡った父 文治は、国内各地を回り、1908年の現地の年会において日本人のための巡回教師に任命された。 そこで愛信ら母子3人は長い船旅の末、父と共にカリフォルニア州のホイテヤに住むことになった。 愛信4歳、妹 寿美子2歳であった。
 日本語さえも片言程度の愛信は、いきなり現地の子どもたちの英語の世界に飛び込んだ。むこうは容赦はない。 こちらは恥ずかしいなどという感情もない。否応なしに英語が身についていった。文字通り彼は英語で成長したのである。4歳という年令が、言語習得にとって幸運であったという他はない。その後の愛信の、ずば抜けた英語力の源泉は、まさにここにあったと言ってよい。やがて一家はホイテヤからハンチントン・パークに転居した。ホイテヤでは弟、保羅(ポーロ)が生まれた。その頃、フレンド教会のある婦人が、愛信にRossという愛称を付けてくれたので、彼は滞米中は誰からも終始このRossで呼ばれていた。
 米国も6歳が就学年令であったが、愛信は身体虚弱の理由で一年遅らせ、1911年9月、7歳でハンチントン・パーク神学校付属小学校へ入学した。しかし、フレンド教会の牧師であった父の異動に伴って家族がロスアンゼルス、パサデナ周辺を転々としたため、愛信も何回か転校を余儀なくされ、卒業したのはロスアンゼルス市フーバー街小学校であった。 当時、米国では飛び級制度があり、愛信は在学中、1年生と5年生で二回飛び級をし、6年間でグラマースクール所定の8学年を終了した。日本では、明治は終わり大正5年、1916年6月であった。
 小学校を卒業する年、父に新しい使命が与えられたので、一家は10年ぶりに日本へ帰ってきた。 横浜の港には父方、母方双方の祖父を始め親戚多数が出迎えてくれた。 とりあえず、彼らは木更津にある父文治の両親の家に落ち着き、程なく神戸に移った。 神戸では地元の小学校へ4年生で入れてもらったが、身体が弱く欠席ばかりの日々であった。父文治は、愛信の健康が勝れなかったので彼の静養のために再び転居、兵庫県垂水郡塩屋の海岸に家を借りてここに2年足らず住むことになった。 大正6年ここで妹の枝子が生まれた。
 翌大正7年、神戸山手通りで薬店を営んでいた英人アガールの協力を得て、岡山に伝道の機会が与えられ、一家は岡山へ引っ越した。 愛信はこの年の4月、岡山市立弘西尋常小学校に5年生で転入し、かなり年下の同級生と共に2年間通学した。神戸のときと同じように、病弱の故に欠席が目立ち、級友から「おまえ、もう少し授業に出ないと先生が落第だといっとるぞ」などと脅かされたこともあった。この学校では最高学年対象に、放課後中学校への受験補習を行っていた。父の計らいで愛信もこれに参加した。主に読本(国語)と算術(算数)であったが、彼にとってこのときの国語の勉強が、後日どんなに役に立ったかわからない、極めて幸運かつ貴重な機会であった。その頃の愛信は、新聞を読むのが容易でなかった。当時の新聞には漢字にルビが付ってあったが、肝心の難しい字にはルビがなかった。そこで彼は大学ノートにこの字を写し、漢和辞典から読みと意味を書き取り、更に和英辞典で英語の意味を確認していた。このようにして日本語の勉強には、かなりの時間をかけ、たいへん苦労した。その後もこの探求の努力は怠ることなく、これがそのまま、名通訳への道へ繋がっていったのである。
 こうして、決して順調でない2年間もなんとか終わり、1920年(大正9年)3月に、米国から始まった長い道程の小学校課程を無事卒業することができた。 この年、父文治が山口県柳井津町で伝道を始めることになったので、一家を挙げてそこに転居したが、2年程で岡山に戻った。共に働いたケレー夫妻がインドへ去ることになったためである。岡山では穴門前に新しい家を借りて伝道拠点とし、ケレー夫妻の紹介により、米国のチャーチ オブ ゴッドの日本組織「ヱホバの教会」を設立した。
 その頃の愛信は、特になすべきこともなく自由な身であった。折から岡山に来ていた米人宣教師が、岡山市の東部の西大寺で天幕伝道をしていたので通訳を頼まれ、しばらくその宣教師と天幕で生活を共にした。これが後の通訳者への第一歩となった。

ソントン牧師との出会いと入信
 1919年(大正8年)に、かつて神戸で父 文治と知り合ったソントン牧師が、岡山へやって来た。文治の伝道を応援するためと共に、夫人がその時期、岡山の商業学校の英語の教師をしていたという縁であったからである。
   ソントンについて
 ソントン(Jesse Blackburn Thornton1875―1959)は彼の祖父、父と共に三代目の伝道者で、彼自身はメソジスト教会の宣教師として1904から3年半インド伝道に携わり、南インド東海岸のマドラス(現チェンナイ)に次いで、西海岸のマンガロールに滞在した。当時のインド伝道は、ヒンドウ教社会、カーストによる身分差別、極端に低い教育水準、加えて劣悪の衛生環境など今日からみて想像に絶する困難な状況の中であった。彼はその厳しさを嘗め尽くし、多くの試練により鍛えられた後に日本へやって来たのである。当初は神戸に拠点を置き、自宅を開放して毎日曜午後に集会を開いていた。そして岡山へ移り愛信の父文治の伝道活動に加わっていたが、その期間が済むと、ソントンは次の目標を神に求めた。その結果、兵庫県と京都府にまたがる丹波地方が示されたので、この地を転々と伝道して歩き、「清潔と静寂の町(ソントン自身の印象)」柏原(かいばら)(現・丹波市)にたどり着いた。ここを神から与えられた土地と信じ、この地で日本の伝道のために日本人の伝道者を養成する幻が示されたのである。幸いに、町が所有管理していた広さも設備も手ごろな旧藩校崇高館を借りることが出来た。みずから大八車を引きつつ町々村々を巡りながら、遠隔地では野宿もして福音を伝えた。又ある時期には、自分の書斎に鍵を掛けて閉じこもり、一切の行動を止め、ひたすら聖書を読み祈りに集中したこともあった。通常の宣教師にはない賜物とその生き方を通して、まれに見る恵まれた霊的指導者として名が知れ、当時盛んであった有馬の聖会にはよく講師として招かれていた。宣教師嫌いといわれた内村鑑三をして、ソントン先生のような宣教師なら何人来てもらってもよいと言わしめたという。かつて文治一家を岡山へ世話をした神戸の薬剤師アガールも、ソントンの感化を受け彼に私淑していた一人である。 後に愛信も、このソントンの指導のもとに伝道者への道が開けていくのであった。

 岡山へやってきたソントンは、米国から二本柱の大きなテントを買い求め、これを市内を流れる旭川の河原に張り、3ヶ月余、毎夜伝道集会を開いた。彼は又、この大きな天幕の横に小型のテントを張って簡易カットベッドを持ち込み、折から米国チャーチ・オブ・ゴッドから派遣されていた若い宣教師ミラーと二人で寝起きしていた。ソントン夫妻の家は神戸にあり、夫人は週に一回岡山へ通っていた。ある日たまたま愛信は、父の用事でこの天幕を訪れ、ソントンとミラーに出会った。二人は、これはよい機会だとばかりに愛信に対して「ロス、君はイエスさまを信じて救われているか」と迫ってきた。愛信としては、自分は牧師の子どもであり、毎日聖書を読み、食前の感謝の祈りはしているが、このように改まって救われているかと聞かれると、「どうもよくわかりません」と答える他はなかった。ソントンは「そんなことでは君、困るじゃないか。ここで一緒に祈ろう」ということになり、初めて愛信は自分で意識的に信仰を確かめるときが与えられた。胸に手を当てれば今日まで、いたずらをしたり、悪いことをしてきたのは百も承知であるので、かなりおぼつかない祈りではあったが、自分なりに悔い改めて主イエスを信じたのであった。この日愛信は、旭川の河畔でソントンから洗礼を受け、岡山福音伝道館(後にヱホバの教会)の会員となった。大正8年(1919)9月、愛信15歳のことである。

献身と勉学
 その頃、福音主義といわれる各教派は、バックストン他、日本人のそうそうたる指導者らが中心になり、兵庫県有馬において毎年有馬聖会を開催していた。全国からたくさんの教職信徒が集まって、いつも盛会であった。愛信も父に連れられて、ある年の聖会に参加した。集会がまさに燃えてきたとき、例によって献身者を募る恵みの座が設けられ、若き愛信は導かれるままに前に進み出た。このときの愛信は自分が牧師の息子なのだから、いずれは伝道者になるだろうくらいの漠然とした感じは持っていたが、進んでなろうとは思っていなかった。しかし司会者の招きの声が愛信を立たしめた。そして寄り添うように導いてくれた二人の人がいた。愛信にとって決して忘れ得ないフリーメソジスト教会の土山鉄次とナザレン教会の喜田川廣である。もちろんこの時点でこの二人と愛信は初対面、神の不思議な導きでなくて何であろう。こうして愛信は献身の決心をし、伝道者の道の一歩を踏み出した。因みにこの聖会の講師はソントンであった。
 1922年9月、18歳の愛信は柏原(かいばら)を訪れ、岡山で信仰に、又、有馬で献身に導いてくれたソントンがみずから開設したばかりの日本自立聖書義塾(Japan Self-help Bible School)の門を叩いた。伝道者になると決めた愛信にとって、他の神学校を選ぶ余地は全くなく、これは極めて自然の成り行きであった。こうして愛信は山白令一、藤村勇と共に開校最初の塾生3人のひとりとなった。
 広い敷地の中に白壁の二階建ての土蔵があり、その二階が祈りの場所であった。ここには単独で、或いは二、三人が随時あがって祈ることが出来る部屋が用意されていた。他に広間といくつかの個室があって塾生はこの個室に寝泊まりしていた。
 この聖書塾にソントンの助手として大学を中退した村井一、ジュンジの兄弟がいた。弟のジュンジは「イエスの御霊の教会」の代表で聖霊のバプテスマを強調し、異言を語ることを重視していた。兄の一は、熱烈に伝道一本を貫く弟と違って、青山学院の神学部に学ぶ学究肌の人であった。しかし、彼はソントンに接するや「神学では人は救われない」との結論に達し、25歳にして青山学院を中退してソントンのもとに走った。そしてソントンの助手であるだけでなく、ソントンが簡単な日常会話の他は日本語を話せなかったので、日曜礼拝の説教や講義の通訳をしていた。
 他の神学校の修業年限は、概ね3ないし4年であったが、この聖書塾は2年間とされていた。標準的日課は、5時の早天祈祷会、6時のソントンの聖書講義と祈り、午後は労働、夜は伝道に出掛けた。毎日行われるソントンの聖書講義は独特で、講義というよりは聖別会の説教のようであった。弁舌さわやかに教えるのではなく、聞くものの魂を揺すぶる霊的訓練といってもよい。この講義を受けているうちに、みずからの過去から現在への様々な実態が曝け出されて行くのを愛信はとどめることができなかった。彼は岡山の天幕で信仰を言い表したものの、ソントンのこの滋味豊かな聖書の解き明かしに心を刺され、恥ずかしい思いもしながら他の塾生たちの前で罪の告白を繰り返し、みずからの信仰を見直す日々であった。後に思い起こせば、これは極めて重要なステップであり、この事の上に生涯伝道者としての木田愛信が築かれていったのである。
 愛信は神学生として入塾したのであるが、はやばやと村井に代わってソントンの通訳をするようになった。そのため2年を終えて卒業後も、更に2年留まってソントンを助けることになった。その頃のソントンは50歳前後の体力充実し、脂ののりきった血気盛んな指導者で、夜は塾生と共に自転車を連ねて農村を駆け回り、各所で路傍伝道を行って福音を宣べ伝えた。春夏秋は何とかなったが、丹波の冬は殊のほか厳しかった。道はカチカチに凍りつき、自転車は容易に走ることが出来ない。まして今のように発電機の前灯も無い。ブリキの円筒に窓を開けて中にろうそくを灯し、カンテラと称して自転車の前にぶら下げた。ソントンは常にその自転車隊の先頭を走っていた。又塾生たちは、時には地域を割り当てられて、単独伝道が夜の日課に加えられた。当時の学生数は多い時で12,3人、遠く奄美大島あたりから来ていた者もいた。後に東京の日本基督教団本郷白山教会で牧師をしていた藤田昌直も愛信等の同期(1923年入塾)で、年齢もほぼ同じだったので二人は生涯の親友を通した。藤田はソントン塾から神戸の長老派系の中央神学校を経て、日本福音教会の牧師になった。41年には戦時中の国策により各派が合流して設立された日本基督教団の牧師になった。この点も愛信の辿った道に類似している。愛信もいくつかのグループを経てナザレン教会にそして日本基督教団に流れつくのである。なお、藤田の父は「早春賦」の作詞者吉丸一昌で、その血を継いだのか、1967年出版の讃美歌第二編の編集長を務めた。
 ソントン塾で愛信たちが行っていた午後の日課である労働とは、後世まで全国に名を広めた「ソントン・ピーナッツバター」の製造販売であった。これは米国では既に普及していたが、日本ではおそらく初めてのものであったと思われる。ソントンは米国から機械を購入し、学生を指導してバターに加工した。原料の落花生は地元の畑から収穫するものの他、神戸の問屋を通じて中国からドンゴロス(麻袋)で輸入調達した。この輸入品は既に殻が除いてあって、先ず焙ってから渋皮を取り、機械に入れ、定量のサラダ油と塩、砂糖を加える。出来あがった製品は缶詰にした。注文が来る度に製品缶四ダース入り木箱を町の製材所に作ってもらい、箱詰めして福知山線の柏原駅へ大八車で出荷するのである。注文は東京の三越デパートを始め全国から殺到した。小さなローカル線の駅では聖書塾から持ち込まれる荷物の量と、多彩な送り先で評判になり、あるときには駅員が塾へ事情を聞きにきたこともあった。中には当時の朝鮮(韓国)や支那(中国)など海外からの注文もあった。各地に遣わされた宣教師たちがソントンバターが日本で作られていることを知ってこれを求めたのである。ソントンは「労働する苦しみを知らずして、どうしてよい伝道者になれるだろう」と言っている。多少の米国からのサポートはあったが、ソントンの聖書義塾の経営は主としてこの事業収益が支えていた。しかし真のソントンの狙いは信仰と労働のセットとしての訓練にあった。塾経営のセルフヘルプと同時にここから巣立って行く伝道者一人ひとりの生き方に対するセルフヘルプを、体験を通して教えたのである。

「1942年東京都文京区に石川郁二郎が、「ソントン食品工業」を創業。ピーナッツバターの本格的に製造販売を始めた。石川はソントンに心酔したキリスト教徒で、師から直々にピーナッツバターの製造法を教えられた。(2012.3.3朝日新聞記事より)」

  愛信はこの聖書義塾在学中に満20歳になったので柏原で徴兵検査を受けることになった。試験官は地元の中学校の先生で、受検者の大部分は主として農家の子弟であった。この時こんなエピソードがあった。
愛信の口頭試問に関わった試験官同志のひそひそ話。
 「こいつはわりかし漢字をよく覚えておるな」
 「そりゃーあんた、こいつは聖書を読んでいるからな、聖書にはこれよりもっと難しいことが書いてあるらしい」
 近郷には、塾のみならず、その塾生個人個人のことも知れ渡っていたようである。愛信は塾生として2年、ソントンの通訳兼伝道のヘルパー(聖書塾内教会の伝道師で)2年、計4年間を終え日本自立聖書義塾を離れることになった。1926年(大正15年)8月、22歳であった。

警監ミッションに参加
 当時、バックストン(Barclay F.Buxton 1900年から1907年まで松江を中心に活動した英国聖公会の宣教師。聖霊に満たされることを強調した)が提唱して誕生した日本伝道隊が、「純福音」を日本の教会へ浸透させるために、伝道者を養成して各教会へ送り込む運動を展開していた。しかし、時が経つにつれて伝道隊自身が独自の教会を持つようになり、教団のごときグループとして活動し始めた(後にイエスキリスト教団となる)。 ソントンはこの日本伝道隊の宣教師でもあったので、彼の米国への引揚げに際し、ピーナッツバターの工場を含めた日本自立聖書義塾の一切を日本伝道隊に委ねた。愛信も成り行きのまま伝道隊に身を移した。
 また、かつて愛信の父 文治が始めた警監ミッションもこの頃には日本伝道隊の所属になっていた。これは警察と監獄(刑務所)を対象に伝道するグループで、英国人陸軍将校ガラード(Captain Garrad)が主幹であった。大正15年(1926)愛信はこの警監ミッションの伝道師になり、ガラードに通訳を頼まれ彼と行動を共にすることになった。活動の拠点は東京にある警監ミッション所属の教会(民家を借上げ)で、伝道隊の野畑シンペイが牧師をしていた。当時のこのミッションの伝道のやり方は、先ず東京市内に数十ある警察から順次予約を受け、朝9時の署長訓示の時間を割いてもらって、ガラードが居並ぶ警察官たちに2、30分の伝道説教をするものであった。又、警察の教習所(名称不確か)へも毎週出掛けて教習生に講話をし、それぞれ愛信が通訳を務めた。尤もこれは外国人の話を聞くという警察の教養プログラムの一つであり、こちらが押しかけて行った形ではない。むしろ先方から請われて行っていたので、愛信たちは毎回講師として丁重に迎え入れられていた。今日では考えられない鷹揚な時代であった。創始者の父 文治はこのミッションをガラードに任せて、自分は岡山で伝道していた。愛信は約1年後通訳の役目を終え父のもと岡山へ戻った。

小山政子と結婚
 愛信が伝道隊にいた頃、英国から時々宣教師が巡回伝道に来ており、愛信はその通訳として、しばしば同行することがあった。そのときは、たまたま岡山市の東20キロほどの香登(かがと)(現岡山県備前市)という小さな町を訪れた。ここに後に彼の妻となる小山政子一家の母教会香登(かがと)教会があった。政子は、そこから2,3里(8~12Km)離れた富岡で父 小山義高丸と母松野の次女として明治40年(1907)に生まれた。父 義高丸は彼の父の代からの農地を受け継ぎ、米や野菜は自家用の程度で、主として苗木の栽培を業としていた。明治38年熱心な仏教徒の母の反対を押しきって洗礼を受け、家庭集会を開き家族や近隣の人々を信仰に導いた。彼は文字通り信徒伝道者をみずから任じた熱血漢であった。大正初期には屋敷内に11坪の家を建てて富岡講義所とし、家庭集会と日曜学校を移し、更に宿泊所になるように手を入れて、肉体と心の病める多くの人々の世話をした。大正4年、彼は香登教会の執事に選ばれた。この教会は元々組合教会であったが、伝道隊系の牧師が代々遣わされるようになったので、聖潔の信仰を受け入れ、いつの間にか福音主義の教会になっていた。政子は姫路の日の本女学院在学中、米人の音楽教師からオルガンを習っていたので、卒業後この教会のオルガニストを務めていた。愛信がこの香登教会へ行ったときの集会でも政子はオルガンを弾いていた。しかし、愛信の記憶にはオルガニストの女性がいたというだけで、結婚の相手などとは夢にも考えていなかった。昭和3年(1928)、神は岡山の教会員のある婦人の信徒を用いられ、この二人を紹介し、ここに愛信は生涯をともにする伴侶を与えられたのである。愛信23、政子20才であった。

牧師へ独り立ちのスタート
 この年、愛信は、東京の警監ミッションの働きを終えて、父文治の伝道に協力するために岡山へ帰り、「ヱホバの教会」に加わった。父が岡山の北、高梁市の西方、成羽(なりわ)に月に何回か伝道していたのでここに教会を建てる計画が示され、それを愛信が担当することになった。彼はここに新婚の妻政子と共に拠点を構え、天幕伝道から宣教を開始した。愛信にとっては独り立ちのスタートであった。この成羽(なりわ)で長女 偕子(ともこ)が生まれた。時折、政子の父 義高丸が遠い道のりを尋ねて来て若い二人を激励した。
偕子はページ氏と結婚し米国に在住していたが、夫君と死別後現在は神奈川県茅ヶ崎市に妹 百合子一家と同居している。
 その後、倉敷へ移って新しい教会の開拓を始め、3年間伝道と牧会に当たった。当時「ヱホバの教会」は岡山を中心に成羽、倉敷の他、鴨方(倉敷の西方)にあったが、それぞれ大きいものではなかったようである。
 時は昭和の初め、ホーリネス教会を筆頭に再臨運動が盛んであった。いわゆるリバイバル時代である。父文治はホーリネスの中田重治監督と旧知の間柄でもあり、再臨と潔めを強調するこの運動に共鳴していたので、彼自身のみでなく岡山のヱホバの教会も共にホーリネスの群に入ってしまった。ところが愛信は明確な再臨信仰は持っており、中田監督を尊敬し、彼からは文治の息子として声を掛けられるなど親しくしてもらってはいたが、激しい再臨運動そのものには全面的に共鳴出来ず、この運動には参加しなかった。したがって、小さいながらも預かっていた倉敷教会を見捨てることも出来ないので、ホーリネスには加入せず、結果として父と行動を共にしなかったのである。しかしその後は教勢振るわず、維持極めて困難であり愛信の苦悩は限界に達していた。そのような中にあって、1930年長男 献一と33年次女 光子(1978年召天)が誕生した。

※献一(2013召天):旧約聖書学者。青山学院大学教授、立教大学教授、山梨英和大学理事長・学長他

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