2021年春号・5月16日小中高科 ナザレン希望誌ウェブ版

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■説教者のためのテキスト研究
「すべての人の神様」 使徒10:28−35
伝えるポイント:神はすべての人の主であり、人を分け隔てなさらない方である。

【コルネリウスの回心】10章
 この記事は、初代教会が異邦人伝道に踏み切る契機になった画期的事件である。それまでのユダヤ人キリスト者たちは、まだ「割礼」の枠から出ることができなかった。しかしコルネリウスの救いと、聖霊が注がれたことによる神の承認により、異邦人が割礼なしに救われることは神のみこころであることを受け取ったのである。そのために、使徒の第一人者ペトロが神に選ばれ用いられた。
【コルネリウス、幻を見る】(1-8)
 コルネリウスはロ-マ軍の「イタリア隊」の百人隊長であった。彼は家族と共に敬虔な人であった。彼の祈りの中で御使いが幻をもって現れ、ヤッファにいるシモン(ペトロ)を招くよう命じる。コルネリウスには何の理由も目的も示されないが、即座に従い、信頼出来る使者を立てて、ペトロを迎えにやった。
【ペトロ、幻を見る】(9-23a)
 一方ペトロも、祈りの内に幻を見せられる。「天が開けており」は、神の啓示を表す。「大きな敷布のような入れ物」には、律法が食べることを禁じた「きよくない物や汚れた物」が入っていた。(参照レビ11章)。主の声がそれを「ほふって食べなさい」と命じるのである。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」。このような神とペトロの押し問答が3回続いた。このことは単に食物の規定ばかりでなく、当時のユダヤ人が異邦人を汚れた者として見ていた民族的・人種的偏見をも指す。イエスの血潮と贖いによる新約の時代が到来し、聖霊の導きのゆえに、万物の秩序は新たにされたのである。
 彼が思い惑っていると、その時、コルネリウスの使者が到着した。御霊はペトロに、「ためらわないで、一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。」と告げる。ペトロは、聖霊に従い、新たな領域に踏み出す決意を固めた。
【コルネリウスと出会う】(23b‐33)
 コルネリウスは親族や親しい友人たちなど大勢を呼び集めて、ペトロを待っていた。
 ペトロは家に入りながら次のように言う。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。」これは自分に言い聞かせているようにも聞こえる。異邦人への宗教的な偏見は取り除かれなければならない。これは初代教会の神学と実践にとって、大きな意義を持つ原則である。神はそれを示すためにペトロに幻を与えられた。
【ペトロ、福音を語る】(34‐43)
 コルネリウスの話を聞き、ペトロは、一連の出来事が神の意思であることをはっきり悟った。神は偏ることをなさらない。国籍や民族を問わず、「神を畏れて正しいことを行う人」を受け入れて下さる。そこでペトロは、神を畏れ正義を行うための新しい道が、イエス・キリストによって確立したことを語る。36-43節は、イエスの公生涯の見事な要約である。イエスの生涯は「(神と人との)平和を告げ知らせる」ものであった。イエスの活動は、聖霊と力、インマヌエルなる神に支えられていた。ここでは、神=イエス=聖霊がひとりの“格”として働いたことを暗示している。人々はイエスを殺害したが、神はよみがえらせた。ペトロをはじめ使徒たちはその証人である。最後に、福音の中心的使信を語る。イエスは、神によって定められたさばき主であり、そのイエスを「信じる者はだれでも、その名によって、罪の赦しが受けられる」。
【異邦人も聖霊を受ける】(44‐48)
 説教が終らないうちに、人々に聖霊が下った。随行した者たちは、異邦人への聖霊の注ぎに驚く。しかし聖霊を受けた彼らに、水の洗礼を差し止める理由は何もないと、ペトロは言う。割礼を受けていない異邦人に対する洗礼の、使徒による承認である。しかしその決定を導いたのは、先行する聖霊の承認によるのである。

■中高科
「すべての人の神様」 使徒10:28−35
伝えるポイント:神はすべての人の主であり、人を分け隔てなさらない方である。

準備
 神様の思いと願いをしっかりと受け取ると同時に、神様の御心を行うために柔軟に、そして従順に従っていくことができることを目指していく。
説教例
 使徒の働きのテーマは「しかし、聖霊があなたがたの上に臨む時、あなたがたは力をうけます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となります」使徒1:8にあるように、世界中に福音が届けられていき、世界中に神の愛と救いの恵みが満ちていくために、聖霊の働きにより、使徒たちを通して働かれる神様の業です。 
 最初はユダヤ人の一部のものだけのものでした。しかし、神様の願いは、全世界全ての人が救われることです。ユダヤ人にとって、異邦人は救われる訳がないと思っていました。特にユダヤ人にとってモーセの律法を守ることが救いの道であると行なっていましたが、異邦人たちは律法とは関係ない生活をしていました。それだけに、異邦人は救われないと思い、また、異邦人との交わりを持つことを嫌い避けており、ユダヤ人と異邦人との間には大きな壁があったのです。
 しかし、世界を造り、人を創造された神様は、造った全ての者が滅びていくことを願われなかったのです。だからイエス様が十字架にかかられたのです。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛された。それは御子を信じるものがひとりも滅びないで、永遠の命を得る為である」すべての者の救いこそ神様の願いであったのです。
 しかし、そのようなユダヤ人の価値観を大きく変える出来事が起こりました。ある時、イエス様の弟子であったペテロに、神様は夢を見させたのです。天がひらけ、大きな風呂敷が天から降りてきて、その中身を見たら、あらゆる四つ足のもの、地を這うもの、空の鳥が包まれていました。そして、神様はペテロにそれを食べなさいと命じられました。これを見てペテロはびっくりしたでしょう。今まで、絶対に食べてはいけないと言われていたものです。律法で禁じられていたものでした。これを見て、わたしはこんな汚れたものは絶対に食べることができません。と言ったわけです。しかし、神様は神がきよめたものを、あなたが清くないと言ってはいけない。そう答えられました。そして、その後神様はペテロに、コルネリオという異邦人との出会を用意されました。異邦人でありながら、神様を切に求める者がいること、何より異邦人が救われる姿を目の当たりにしたペテロは、今までの価値観を大きく変化させられたのです。何よりも、神様が異邦人も救われることを願っていることをペテロは理解することができたのです。
 私たちも、神様の願いをどれだけ理解しているでしょうか?神様の願いは、全世界全てのものを愛しており、キリストによって救われることを願っているのです。そして、そのために、神様は私たちを用いたいと願っています。時に自分の考えや価値観を変化させる必要があるかもしれません。しかし、神様はもっと大きな考え、計画を私たちに持っておられます。神様の御心に柔軟に、そして従順に従い神様の御心を行なっていく者でありたいと願います。

■小学科
「すべての人の神様」 使徒10:28−35
伝えるポイント:神はすべての人の主であり、人を分け隔てなさらない方である。

準備
 イスラエルから全世界へと、キリストの福音が宣べ伝えられていきます。その過程が、この使徒言行録に見られるのですが、聖書を読むにあたって、私たちは単に歴史として、あるいはまた雑学として読み進めてはなりません。まずもって、聖書のみ言葉によって自分の罪を知らされ、砕かれるという経験が必要です。その都度、自分の愚かさ・醜さを悔い改め、神さまに向きを正していきたいものです。
 25節によれば、ペトロという人物は、異邦人のコルネリウスに拝まれる経験をしますが、それほど人に称賛される信仰者であっても、「ただの人間(26 節)」であり、過ちを抱えた罪びとでした。以前は自分の正さに誇りをもち、自分の正義を貫くことに熱心でした。けれども、それは神さまの求められる正義・ 公平さとはかけ離れていたのです。
 9節からの記事にある「幻」によって、ペトロは自分の過ちに気付かせられます。主イエスの教えを十分に理解していたつもりでしたが、異邦人が救われる対象とは全く理解できませんでした。ペトロにとって異邦人は、あくまで「清くないもの」だったからです。
 今日の教会においても、神さまのみ旨がなされるために変化が必要になることが多々あります。しかし 私たちは、相手が変わるようにとひたすら願い、自分が変えられねばならない存在だと気づくことには疎いのです。

説教例
 ペトロは12人の弟子のひとりです。ガリラヤ湖で漁師をしていたときにイエスさまに出会い、イエスさまの弟子になりました。それ以来、ペトロはイエスさまと親しく過ごし、時には他の弟子よりも多く叱られたこともあり、福音書の中にはペトロの名前が目立ってたくさん出てきます。
 さて、ペトロはイエスさまが天に帰られた後も、イエスさまのことを心から固く信じておりました。それは、十字架の上で死なれたイエスさまが神さまの子どもであり、3日目に甦って、今も生きておられ、再 び来られるという信仰です。けれども、それは、昔から神さまを信じて従ってきたユダヤ人のためだけだと信じていました。しかもユダヤ人でない外国人 は、「清くないもの」と思い込んでいたのです。それまでの決まりでは、食べ物でも清いものと清くないものがあって、清くないものは食べることはできません。人間もけがれた病人や外国人は清くないとされてきました。けれども神さまはペトロに言われます、「神さまが作られたものに清くないものは一つもない」と。
 それを聞いてからある日、ペトロは外国人コルネリウスに出会います。コルネリウスは一家そろって神さまを信じ、貧しい人たちを助けるなど愛の行いに熱心でした。そのコルネリウスの家に招かれてペトロは驚きました。そこに集まっている人たちがみな熱心に神さまを信じているではありませんか。イエスさまを通して罪をおゆるしになったのは、ユダヤ人 だけでなくすべての人のためだったと、今までの間 違った考えをはっきりと変えることができました。ペトロは彼らに向かって「神さまは私に、どんな人も清くないとか汚れているものとか言ってはならないと、言われました。」そして「神さまは人を分け隔てなさらない。どんな国の人でもイエスさまを信じる人は、神さまの子どもだ」とも。ですから私たち日本人も、 こうして神さまに愛されているのです。
 今も世界のどこかで戦争があり、多くの人が尊い 命を失っています。捕えられて、残酷な仕打ちを受けている子どもたちや女の人たちもいます。けれども神さまは、そのような人たちにとっても、愛に満ちた神さまなのです。

■小学科ワーク

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