2021年冬号・2月7日小中高科 ナザレン希望誌ウェブ版

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■ 説教準備のためのテキスト研究
神の業はこの人に現れる ――― ヨハネ 9:1-11
伝えるポイント;生まれつき目の見えないのは誰のせいでもなく、神の業がこの人に現れるためであった。

ポイント1
 私たちは、時にこういう疑問を持つ。「どうしてこんなひどい目に遭わなければならないのか?私が悪いことをした罰なのだろうか?何がいけなかったのだろうか?あるいは親が自分にひどい育て方をした結果なのだろうか?」と。しかしイエスはおっしゃる。あなたはこの苦難とあなたの罪の関係について考え過ぎている。この苦しみは誰かのせいであるよりは、むしろ神の救いのわざ(注1)が現れるためだと。(3節)人間の不幸はその人が救われるため、そして本当に神がおられることが明らかにされるためである。

ポイント2
 ヨハネ福音書は奇跡そのものに注目している以上に、むしろこの癒しの奇跡がきっかけとなっておこったユダヤ人の騒動に紙面を用いる。安息日にイエスが癒しを行われたのは律法違反だと。「宗教知識が豊富な人たち」は、神のことがわかっているつもりで、むしろ目の前で起こった奇蹟の真相が見えていない。目の前に本物のメシアが登場したのに「問題児が現れた」と考えて裁く。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。(41節)」罪でもないもののことを、さも「大問題だ、罪だ罪だ!」と騒ぐところに彼ら自身の大問題があるとイエスはおっしゃった。偏見ほど判断をあやまらせるものはない。物事を決めつけると普通の判断はできない。新しい発見とは、それが認められるまでは偏見との戦いであるとすら言われる。

展開
 取り越し苦労が多く心配しすぎの時は物事が実際以上に暗く見えてしまう。私たちは必要以上に自分の不幸を見過ぎている場合が多い。過去にこだわり、過去を思い続け、目が釘付けにされている。誰かと自分を見比べねたみやすい。嫉妬心は人の目を曇らせてしまう。しかし神の視点は人の裁きとは基準が異なり、その目的は未来の救いである。だから誰であれ欠点それ自体が、その人の長所であることが多い。行動力があるのに「落ち着きがない」と叱られる。慎重なのに「遅い」と叱られる。しかし絶望と希望はコインの裏表のように一体となっている。神にあっては、物事は意外な展開をする。今不幸であるとすれば、それは将来明るく幸福に生きるためなのだ。光のうちを歩む人生とは順風満帆ばかりの日々のことではい。人の上に立つ者は涙を知らないものであってはいけないし、指導者となろうと思うなら、挫折を知らないような未熟者ではだめだ。苦労の結果、謙虚で冷静であり柔和にされた者の歩みである。このような人が人々を惹きつける。つまり真のキリスト者とは「欠点の無い人」のことではなく、多少の欠点はあっても「周囲の人に慰めを与える人」なのだ。

注1)わざ(ギリシア語エルゴン):働き

■ 中高科
神の業はこの人に現れる ―――― ヨハネ 9:1-11
伝えるポイント;生まれつき目の見えないのは誰のせいでもなく、神の業がこの人に現れるためであった。

準 備
 生まれつき目の不自由な人がいた。この人は大人になるまでどれだけ辛いことの多い人生であったことであろう。弟子たちはこの人を見てイエスに、「この人の目が不自由なのは本人が罪を犯したからか、それとも両親が罪を犯したからか」と尋ねた。当時のユダヤの社会では、病になったり、体に障害があったりするのは罪の報いであると考えられていた。仏教でも、「善い行いをすれば良い結果を招き、悪い行いをすれば災いを招く」、すなわち『因果応報』という教えがあるが、それに近いものがある。
 弟子達は目の不自由な人に憐れみの心を向けず、また手を差し伸べようとしなかった。彼らはただ、誰の罪のせいで目が不自由になったのか、その理由を知りたかっただけであった。イエスはそれに対して、「本人の罪でもなく、両親の罪のせいでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われた。それは、この人が癒されることによって神の御名が崇められることを示されたのである。
 イエスは、唾で土をこねてその人の目に塗り、「シロアムの池に行って洗え」と言われた。この時代、土も唾も治癒効果があると信じられていた。また「シロアム」とは、「遣わされた者」の意味であり、神から遣わされたイエスがこの人を癒すことが暗示されている。
 霊的に盲目である者の目を開いて、栄光の輝きを見せて下さるイエスの権威とみ業の素晴らしさを生徒たちに伝えたい。

説教例
 イエスさまと弟子たちが神殿から出て来られた時、生まれつき目の不自由な大人の人を見かけました。その人はこれまで、どんなに辛い日々を過ごしてきたことでしょうか。仕事はあったのでしょうか。収入を得ることは出来たのでしょうか。「どうして自分はこのように生まれてきたのか」と自分の境遇を嘆いたり、恨めしく思ったりしていたことでしょう。
 弟子たちはその人を見てイエスさまに、「この人が生まれつき目の見えないのは誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」と尋ねました。この時代のユダヤでは、病気にかかったり、身体に障害があったりすると、それは罪の報いであると考えられていたからです。もし病気や身体の障害が自分や両親、また誰かの罪の報いだとすると、それらの人を恨み続けるような日々となってしまいますね。弟子たちはその人に同情を寄せたり、手を差し出したりするのではなく、ただ彼らの関心はその人がどうして目が不自由になったのか、その理由を知りたいだけでした。
 弟子たちの問いに対してイエスさまは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われました。その言葉を聞いたこの目の不自由な人はどんなに驚いたことでしょう。その人は今まで、目が見えないのは自分が罪を犯したからだと自分を責め、また親の罪のせいだと思っては親を責めていたので、イエスさまの言われた言葉にその人は救われる思いがしたことでしょう。そして、「神の業が現れる」とは、神ご自身であられるイエスさまの御名によって目が癒され、イエスさまが権威と力を持ち、生きて働かれるお方であることを人々が知り、イエスさまの御名が賛えられるようになることです。
 またイエスさまは唾で土をこねて、それを目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。その人は言われたとおりにシロアムへ行って目を洗うと目が見えるようになったのです!この時代は、唾も土も病気を癒す効果があると考えられていましたが、この人の目が癒されたのは、イエスさまのことを疑わないで、信じて従ったからでした。
 私たちも弱さを感じて気落ちする時があると思いますが、イエスさまはその弱さを神さまの御名が崇められるような素晴らしいことに変えて下さるのです。

■ 小学科
神の業はこの人に現れる ―――― ヨハネ 9:1-11
伝えるポイント;生まれつき目の見えないのは誰のせいでもなく、神の業がこの人に現れるためであった。

準 備
 「ラビ」は「先生」の意。我々が神の救いのみ業を求め、神がそのみ業のために我々を用いてくださるように。

説教例
 皆さんは今、何か困っていることがありますか? それはどうして起こったでしょうか? 宿題を忘れれば、先生に怒られるでしょう。意地悪をすれば、友達に嫌われます。その逆も言えます。では、もし皆さんの友達や家族に、生まれたときから目が見えない人がいたら、どう思いますか? その人はどうして目が見えないと考えるでしょうか?
 今日の聖書に登場した生まれつき目の見えない人は、周りの人々からいろいろ悪口を言われていました。「この人が目が見えないのは、神さまが喜ばれないこと(罪)を犯したからにちがいない。神さまがお怒りになって、それで目が見えなくなったのだ」。今なら医学的にいろいろと説明されるでしょうが、当時は、病気や生まれながらの障がいは、罪を犯したから起こると信じられていたのです。(日本でいう「バチが当たる」と似ています)。弟子たちはイエスさまに尋ねます、「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。おそらく悪気はなかったでしょう。しかし、こういう考え方が差別に結びつくので、私たちは十分気を付けなくてはなりません。一番困ったのは、この目が見えない人ご本人です。なぜ自分は目が見えないのか? そんなことが分かれば苦労はしません。目が見えないことで彼も、また彼の家族もずいぶんと悩み、苦しんできたはずです。誰だって好きで目が見えなくなったわけではないのです。まして「その原因が自分や家族にある」などと責められたら戸惑うしかありません。皆さんがこの人ならどう思いますか?
 イエスさまは弟子たちにお答えになりました、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。弟子たちはびっくりしました。目の見えない彼ですが、「目を見張らんばかりに」驚いたと思います。イエスさまは言われるのです、「『犯人捜し』は止めなさい。『誰が悪いのか?』などと考えても、何も問題は解決しない。誰かが困っていたら、助けてあげればよい。目の前で苦しんでいる人は、間違いなくあなたと同じ、神さまが心から愛しておられる一人にちがいないのだから。その彼を支え、大切にすることは神さまが喜ばれることではないか。その関わりを神さまはきっと祝福してしてくださるでしょう。いい知恵や必要な力も与えてくださる…」。この場面でイエスさまがなさったように、神さまの癒しが与えられることだってあるかもしれません。でもこれは、イエスさまの唾で作った泥には癒しの力があるとか、シロアムの池の水には特別な癒しの力がある、ということではありません。神さまが「神の業がこの人に現れるため」とは、その人を大切にしたい、関わろうとする私たちの思いや関係そのものを神さまが用いてくださる、祝福してくださるということです。神さまの恵みの力が私たちの間に働いてくださるのです。もしかしてそれは私たちが願う癒しではないかもしれません。そこは神さまにお任せするしかありません。しかしどんなみ業であっても、イエスさまを通して行われる神さまのみ業は、私たちを守り支えてくれるのです。

■ 小学科ワーク

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