2020年秋号・11月22日成人科 ナザレン希望誌ウェブ版

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聖霊による義と平和と喜び     ローマ 14:13-23

 人間の私たちにとって容易に陥りやすいのは、人を批判するという危険です。自分で自分の間違いに気づき、修正するのは困難なことです。自分の考えが間違っていると思う人は多分だれもいません。だからこそ私たちは自分に関して何も問題に感じることなく生きているのです。
 このように私たち一人一人が、今まで生きてきた生活歴において形成されてきた判断基準あるいは判断材料をもっています。そのことがすべての物事に対してフィルターの役割をし、物事の良し悪しを決定づけてしまいます。お互いが個々の判断を持ち出すとき、争いの原因を産み出すようになってしまいます。
 それが批判し合い、私たちがお互いに傷つけ合う結果になっていきます。お互いに批判し合い、傷つけ合うことは、そこに人間が持つ罪の温床を生み出していくことになります。
 ここでパウロは食べ物について問題を指摘し、展開させています。信仰によってその食べ物が、ある人によってはつまずきとなり、ある人にとっては何も問題にすることはない。それは結局、最終的にその人個人の問題となっていきます。しかしそこではお互いの間に軋轢が生じ、結果的に批判し、裁き合う結果を産んでしまいます。問題になるのは食べ物だけではありません。すべての物事において問題になる可能性を秘めています。同じ信仰のもとに生きながら、そこに罪が生み出されることに対し、パウロは懸念を抱いています。そこでパウロは信仰的物事の見方、共通の在り方を明確に示します。それが今回テーマになっている聖霊による義と平和と喜びをもって同じ方向性を探るように勧めることなのです。これは信仰によって同じ立場に立ち、お互いを受け入れ合うことによって実現していきます。
 パウロは次のように言います。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(17節) 神の国すなわち信仰による世界観と思考に立つところでは、裁き合い、批判し合うことを避けることが可能だと指摘するのです。
 いかにして可能になるのでしょうか。人間の私たちが持つ考え方に絶対にこれが正しいとするものはあり得ません。すべての考え方が相対的であり、個々の考え方が正しくもあり、そうでないとも言えるのです。この事から、信仰をもって神の前に、お互いの正しさを相対的なものとして受け入れ、お互いを尊重し合い、喜びをもってお互いの人間性を高め合うことによって、その可能性が見えてくるのです。私たちは主イエス・キリストの十字架による死と復活を通して、罪贖われたものとして生かされています。その同じ信仰に生きているということは私たちにとって最大の強みなのです。

【設問】
1.人を裁くことが起こっていく経緯を探りましょう
2.信仰によって互いを受け入れ合うために求められるものは何ですか。

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