2020年秋号・ナザレンの講壇から ナザレン希望誌ウェブ版

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渡邊洋子(横浜教会牧師)

2019年待降節第三主日礼拝
「神を畏れる喜び」ルカ福音書 12:4~7

【聖書箇所】
ルカ 12:4「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、そ
れ以上何もできない者どもを恐れてはならない。5 だれを恐れるべきか、教
えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そう
だ。言っておくが、この方を恐れなさい。6 五羽の雀が二アサリオンで売ら
れているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。7 それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

1 思い出の言葉
 今日の聖書箇所には、「恐れる」という単語が沢山でて来ます。それである言葉を思い出しました。会社員時代の上司であり友人でもある女性から聞いた言葉です。「洋子ちゃん、人間にはね、一人くらい怖い人がいないとダメ。大人になっても怖い人がいるのはいいことだよ」。確かにそうだなぁ…と思いました。自分のことを理解し、大切に思ってくれる、だからこそ、好き放題にさせるのではなく、悪い事をすれば叱り、罰を与え自分で責任をとる事を教えてくれる…そういう人は、得難い貴重な存在です。私達は、「恐れる」という事を悪く受け取ってしまいがちですが、必ずしもそうではないのだと思います。恐れるものがない時、人は傲慢になってしまいます。
 今日の聖書箇所で主イエスは、「恐れには良い恐れと悪い恐れがある、誤
った恐れとは、死と不安へと私達を突き落とし、正しい恐れは命と平安へと私達を招く。だから、正しい恐れを抱きなさい、恐れるべきものを恐れれば、誤った恐れを抱かずにすみ、罪を犯させる誤った恐れから解放される」と弟子達を正しい恐れへと招いておられます。イエス様の言葉にご一緒に聴いていきたいと思います。

2 弟子達の恐れ
 どうして主イエスは敢えてここで正しく恐れる事を語ろうとされたのでしょうか。それは弟子達がまさに、誤った恐れを感じていたからだと思います。主イエスは、ファリサイ派や律法学者達に「心から神の御許に立ち帰り幸せになってほしい」と願い、「ウーアイ、あなたがたは不幸だ」と彼らの偽善を指摘します。しかし、彼らは、イエス様の愛が分からず、敵意と憎しみを燃やして主の揚げ足を取ろうとしつこく迫った、と11章の終わりにはあります。何度か申し上げましたが、ファリサイ派や律法学者達は、当時のユダヤ人社会では、「信仰深い人々」と尊敬されており、人々に影響力ももっている宗教権威でした。主イエスが、そんな社会的力を持つ人々を非難し激怒させているのを見て、弟子達は、恐れ不安に思ったのでしょう。この弟子達の様子は、できたばかりのルカ教会の人々の様子でもあったのだと思います。当時の教会の人々もユダヤ人社会やローマ帝国から迫害されていました。イエス・キリストを信じる事は死を覚悟せざるを得ない時代でした。
 そして、それは現代日本に生きる私達にも通じる「恐れ」です。ここ七年で日本の状況は劇的に変わりました。今年は天皇の代替わりがありましたが、宗教的儀式である大嘗祭には税金が投入されましたし、祝賀パーティは、「国民祭典」と呼ばれ、大々的に祝われました。まるで「天皇代替わりを喜ばなければ日本人ではない」かのような風潮です。私達クリスチャンは、現政権が復権を望んでいる天皇を神とする国家神道を受け入れる事はできませんが、現政権は、自分達に反対する人々をあからさまに攻撃し排除しようとします。日本は、権力者に「NO」という言う事に不安を覚えてしまうような社会になりました。
 恐れを抱くのは政治的な問題だけではありません。私達の生活には、様々
なよくない「恐れ」、人を不安にさせ過ちを犯させる「恐れ」があります。子どものいじめ事件でも、多くの子どもがいじめを黙ってみているのは、「いじめに反対すれば自分がいじめられる」という恐れがあるから、会社が不正をしていても告発しない社員が大半なのは、解雇されたり閑職に追いやられるのが怖いから。仲間外れや不利益が恐ろしい、だから悪いと分かっていても敢えて目をつぶる。私達の姿に、よくない恐れを抱いて罪を犯してしまう弱い姿を見出して、主イエスは「恐れるな」と語り掛けてくださっています。

3 恐れ
 そこで、主はいきなりおっしゃいます。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」。私たち人間にとって、死は最大の恐怖。テレビでもネットでもアンチエイジングがもてはやされているように、不老長寿に対する人間の欲望は古代から現代まで変わることがありません。人間にとっての最大の問題は、如何に生きるかではない、如何にして死なないようにするかのようです。
 聖書では、最初の神からの戒めは、「善悪の知識の実を食べるな。それを
食べたら必ず死ぬ
」というものでしたが、これは「神との関係が壊れる」という意味の「死」です。この「死」の意味を取り違えさせ、神から引き離そうとして蛇が人間に語った言葉は、「決して死ぬことはない」でした。蛇は、人に「死への恐怖などない。神など恐れるに足りない。」とささやいたのです。蛇は人と神との交わり、そして人と人との交わりを破壊し、本質的な意味で人に死をもたらさせようとしました。このアダムとエバの物語は、私達に恐れるべき者を恐れない時、人は神から離れてしまって、却って恐れに縛られて生きる事になると教えてくれているようです。だから、人間は死を恐れるだけでなく、死に憧れるのではないかと思います。自ら死を選ぶのは人間だけだと言われています。このまま生き続けることが死よりも恐ろしい…と思うことが、人間にはあるから。経済的な破綻、病気、別離、家族関係の崩壊…様々な人生の困難の中、人は孤独になることがあります。誰も自分の命を喜んでくれてはいない、孤独の闇の中に閉じ込められる時、私達は自分の命の意味を見失って、こんなつらい命を生きることに恐れを抱くようになり、死を慕うようになるのだと思います。神様がアダムを造った後に、「人が独りでいるのは良くない」とおっしゃり、エバを造りました。それは「人は独りでは生きてはいけない」という意味です。人は、食物だけでなく、他者との交わりがないと、人としては生きていけません。しかし、蛇の誘惑に負け、恐るべき方を恐れない人間は自ら神のようになろうとすることで、本当の意味での交わりを壊してしまいます。孤独では生きていけないの
に、孤独にならざるを得ない…そういう矛盾を内に抱えて喘いでいる、それが私達人間の本当の姿なのかもしれません。

4 友人であるあなたがた
 根っこの部分に「恐れ」を抱え込む私達に主イエスは呼びかけます。「友人であるあなたがたに言っておく」と。実は、これは、ここにしか出て来ない独特の言い回しです。特別な親愛の情を込めて、イエス様は恐れを抱く弟子たちを「友人」と呼んでいます。「友人」と聞いて、まっさきに思い起こすのはヨハネ福音書15章の言葉でしょう。十字架にかかる前の晩、主イエスは、この世に残していく弟子たちを「愛して、この上なく愛しぬいて」(ヨハネ13:1)、告別説教をなさいました。そこで主は弟子達におっしゃいました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネ15:13~14)イエス様は弟子たちを友として愛し、その愛ゆえに彼らのために命を捨てる…と仰っています。
 今日のルカ福音書の「友人であるあなたがた」という呼びかけの中にも、命を捨てるイエス様の愛が含まれています。自分の命を捨てる程の愛を込めて主イエスは仰います。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。

5 神に対する畏れ
 主イエスは、私達が本当に恐れるべき方は、肉体の死の後に人を地獄に
投げ込む権威をもっている方であるとおっしゃいます。この場合の「恐れ」は、同じ言葉であってもだいぶ意味が違います。人間に対して抱く「恐怖」ではありません。神への恐れです。「畏れ」という漢字を使った方がいいものであり、神に対する畏敬であり、信仰を意味します。確かに「畏れ」の中には、「恐れおののき」の感情があります。全能の神のみ力の前におののかずにすむ被造物はないでしょう。それは自分を徹底的に小さくせざるを得ないような畏れです。偉大な神の御前で己を小さくするような畏怖。しかし、自分を小さくしてできた心の間を満たすのは、死への不安ではありません。平安です。神への深い信頼がもたらす平安です。
 神とは、「殺した後で、地獄に投げ込む権威をもっている方」でありますが、同時に「殺した後で、天国に招き入れる権威をもっている方」だからです。人間は、死んだ人に対しては何も出来ません。「遺体」に対して出来ることはあっても、「死んだ人」に対しては、人間は無力です。死んだ人に対して何かできるのは、全能の力を持つ方だけ。その全能者が確かにおられ自分を愛してくださっていると確信することができるならば、体を殺すことができる者も、死を恐れる必要もありません。死は、私たちを、この神から引き離すものではないのですから。死をも神から私達を引き離す事ができないのなら、生きることも恐れる必要もなくなります。生きる事とは、神に愛され神を愛して生き、命を喜ぶ喜びを重ねることになります。どんな状況でも。この神を恐れる「畏れ」こそ正しい恐れであり、私達を孤独への恐れ、生きる事への恐れ、死ぬことへの恐れなど、誤った恐れから真に解放してくださると主イエスは、仰っています。

6 五羽の雀
 その全能者、神様の私達へのまなざしを主イエスはこう言われます。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」先週も少し触れましたが、アサリオンとは当時の労働者の日給の1/16であり、ローマの貨幣の最小単位。五羽で二アサリオンとは一羽では値がつかないほどだということ。当時、雀は庶民には貴重なタンパク源であり、網にかけて捕まえ、殺して売っていたそうです。その雀の一羽一羽の違いなど、私達人間には全く分かりませんし、分かろうともしません。ですが、「その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」と、主は仰います。この言葉は、「その一羽さえ、神の目には忘れられてはいない」と訳した方が原文に忠実です。「その一羽さえ、神の目には忘れられていない。

7 大切にされるとは?
 ですから 6 節、7節は「一羽の雀など人間の目には無価値なものだが、神
の目には尊いものだ。まして、雀よりもはるかに価値のある者として創造された人間を、神は尊いものとして大切にしてくださらないはずがあろうか。
」という意味です。
 では、神が私たちを尊いものとして大切にしてくださるとは、どういうことでしょうか?どんな病気も治してくださるということでしょうか、若返らせてくださるということでしょうか、災害からも事故からも守ってくださることか、無病息災、安産、受験合格を果たしてくださるということなのでしょうか。これらのことは、人の世では尊いこと、価値あることです。クリスチャンである私たちも、神様にそれらのことを祈り願うことは許されています。
 しかし、それら私達人間の願いが実現する事だけが、神から大切にされて
いる事かというと決してそうではありえません。私たちの肉体は儚いものであり、結局は滅んで塵にかえります。金持ちも貧乏人も、身分の高い者も低い者も、その点では全く同じです。富で永遠の命を、救いを買える訳ではありません。だから、この世で私達が望むものを与えないからと言って、神が私達を大切にしていないという事では決してありません。では、神が私たちを尊いものとして大切にしてくださるとは、どういう事なのでしょうか。イエス・キリストの姿に回答があると思います。

8 主の十字架
 イエス様は、私たちを「友人であるあなたがた」と呼んでくださっています。先ほど申しましたように、それは「わたしはあなたがたのために命を捨てるよ」という意味です。ですが、そのイエス様の思いに私達は答えることができません。「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った一番弟子のペトロでさえ、死を恐れ、「わたしはあの人を知らない」と言って逃げました。命を懸けて「友」と言ってくださる方を、ペトロ達は裏切ります。ですが、裏切られたイエス様は、裏切った者をそれでも友として愛して愛しぬいてくださいます。自分の命を捨てるという形の愛です。いえ、友だけではありません。自分を殺そうとする者達をも「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈りつつ、死んでくださるのです。「ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と嘲られ、隣の十字架に磔にされている犯罪者にも「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と罵倒される。それでも、イエス様は神により頼んで、自分が救ってもらうことではなく、私たち罪人が救われることを祈り、私たち罪人の救いのために、十字架の上で息を引き取られます。人から忌み嫌われ、見棄てられた者として、無価値な者として殺されます。
 一方、父なる神様は、イエス様の祈りを聴きつつ助けません。いえ、イエス様の祈りを聴いているからこそ、助けない、十字架から降ろさないのです。そして、その時、もう一人の犯罪者が願います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。彼は、「十字架から降ろしてくれ」とは願いません。十字架における死を、自分が犯してきた罪に対する処罰として受け入れます。しかし、しかし、「人の目には」このように裁かれたとしても、「神の目には」赦されたい。彼は、イエス様の姿を見、その祈りを聴いたからです。そして人々から忌み嫌われて当然である自分が、神の前では、神の見方では、実はとても尊い存在なのだと気づかされたからです。神の愛する子が、罪なき神の子が、自分のような者のためにも祈りつつ死んでくださる。
 その事実を目の当たりにした時、彼は自分の存在の尊さを知らされたのです。だから、イエス様に「あなたの御国においでになるときは、わたしを思い出してください」と願いました。それは、「神の前でわたしを忘れないでください」ということです。その願いを聞いて、イエス様はなんとおっしゃったか。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」この言葉が言えるのは子なる神であるイエス・キリストだけであり、十字架の上で、罪人の罪の赦しを祈りつつ死ぬことができるのも、主イエスだけ。そして、イエス様を復活させて、楽園に上げることができるのは、父なる神だけ。主ご自身が畏れ、また恐れるべきはこの方だとおっしゃった父なる神だけが、イエス様を楽園、御国に上げることができ、十字架で処刑された犯罪者を楽園に招き入れることがお出来になります。この方だけが全能の神、この方だけが真に恐るべき方だからです。
 ですから、神が私達を大切にされる…というのは、主イエスの十字架による救いに表されたご自身の審きと愛を私達にはっきりと示すこと、そして、私達がこの方の審きと愛を信じ、本当に恐れるべき方を畏れて生き、肉体が滅んでも永遠の命に生きることができるように、御子イエス・キリストの霊を私達に与えて下さる事です。クリスマスのメッセージ「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」を私達が受け入れ信じて生きるようにしてくださる事です。

9 神の助け
 だから、神が与える救いは、私達人間が考える「救い」とは、全く異なります。ドイツの牧師であり神学者でもあるボンヘッファーの言葉を紹介したいと思います。彼は優秀な神学者としての将来を嘱望されつつ、戦時中、ドイツで反ナチ闘争に加わり、結局、敗戦直前に処刑されてしまった人です。彼が、死の直前に獄中で書いた言葉です。「神の前で、神と共に、我々は神なしに生きる。神はご自身をこの世から十字架へと追いやられるにまかせる。神はこの世においては無力で弱い。そしてまさにそのようにして、ただそのようにしてのみ、神は我々のもとにおり、また我々を助けるのである。
 なんとも過激な表現です。けれど、彼がナチス・ドイツによる迫害の現場で、牢獄の中で彼を支え続けた神の姿を深くリアルに語っていると思います。「私たちは、神の前で、神と共に、神なしに生きる」「神なしに」というのは、私達人間が期待するような「神」でしょう。強くてたくましくて、私達の欲望を叶えてくださるような神ならぬ神、偶像。ですが、私達人間が思い描き求める都合のよい神は来られなかった。非常に不可解な事に全能の神は、この世において、私達の目には無力で弱い所に来てくださった。しかし、そのようにして弱い私たちと共に生きてくださり、私たちを助けてくださる。神は十字架の死から自ら降りたり、人を降ろしたりすることに、ご自身の全能の力を発揮されない。罪人と共に死ぬ、罪人のために死ぬ、そうしてどこまでも罪人の弱さの中に分け入り、その人をきよめ神に喜ばれる命とし、永遠の命を与えることで、その全能の力を発揮されるのです。
 このような人ではできない救いを与え、永遠の命に生かしめてくださる神を畏れ敬い、恐れを捨ててこの方の愛の内にのみ生きる決心をする時、それまで自分を縛っていた恐れから解放されます。私達は神の目に輝く命となるからです。それは人の目にも光り輝く命です。もうすぐクリスマス、私達の弱さの中に、恐れることなく分け入ってくださった御子の前にひざまづき、礼拝したいと思います。そして、横浜ナザレン教会のお一人お一人と、神を畏れ敬いつつ、神から賜る喜びの命を共に歩んでいきたいと心から願います。

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