2021年春号・巻頭言 ナザレン希望誌ウェブ版

安息と使命 西山哲穂(大阪桃谷教会)

 ケン・シゲマツ師の著書「魂のサバイバルガイド」(いのちのことば社)によると現代を生きる私たちには昔の人が経験したことのないプレッシャーがあるという。19世紀の産業革命以前は、家系図をさかのぼると息子は全て父親の職業につく。生まれついた社会環境で人生の選択肢はほぼ決まっていた。そこには自分が力不足だったとか、失敗者ではないかという悩みやプレシャーはほとんどなかったと。私たちの時代は仕事や人生の選択は自由で夢がかなう世界ですが、時に道を見失い不安や競争、挫折など時代特有の課題があります。今回、物語を通して重荷を下ろす(安息)と重荷を負う(使命)を考えたいと思います。
1、 重荷を下ろす(安息)
 聖書翻訳をする聖人が「主よ、私はあなたに何かを捧げたいのですが、何を捧げたら良いでしょうか?」と尋ねました。イエスは「私はこの天と地すべてのものを支配している。すべてのものは私のものだ。あなたは一体何を捧げようと言うのか。」 聖人は「私は今、聖書を翻訳しています。それをあなたにお捧げします。」 イエスは答えました「それほどまでに何かを捧げたいのであるならば、一つだけ、一つだけそれを私は貰おう。それは、あなたの罪とあなたの苦しみを私に捧げなさい」と。
 私たちは主のために頑張って何か働きを捧げたいと思う。しかしその前に、私たちの重荷や悩み,うめき、時にCS奉仕のプレッシャーを主に捧げよう思う。主はそのような恵みの関係性を願っておられる。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28-30)

2、 重荷を負う(使命)
 聖クリストフォロスの逸話。レプロブスという名前の大男は、放浪の旅に出ます。レプロブスは、イエス・キリストを知り、キリストを愛するとは人々に仕えることと教えられます。彼はその体格を活かし、大きな川の畔に小屋を作り、旅人たちを背負って川を渡る働きを担うようになります。ある大雨の夜、小さな子どもが川を渡りたいと申し出る。川が氾濫せんばかりに荒れていたが、子ども一人なら渡し切ることができるだろうと、子どもを背負って川に入りました。ところが途中で、子どもは重くなっていきます。彼は濁流をかぶり、川に沈み込みながらも、子どもが流されないように必死の思いで踏ん張り、一歩一歩進み、川を渡り切りました。その時、背負っていた子どもは言います。「わたしはキリスト。あなたが担ったわたしの重さは、この世の人々の苦しみ、悲しさ、罪の重さだったのだ」。レプロブスは悟ります。「もしキリストのあの重みがなければ、自分は完全に濁流に飲み込まれ、流され、いのちを失ってしまっていた。キリストを持ち運ぶ際の沈み込むほどの重さが、結果、私のいのちを救ってくれたのだ。」キリストは彼にキリストを背負う者、運ぶ者という意味の名前「クリストフォロス」の名前を与えました。(聖画をぜひ検索してみてください)
 「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(ガラテヤ6:2)
 主の元で重荷を下ろし明け渡し、そして主と共にもう一度喜びをもって重荷を担っていく。時代を超え「安息と使命」をもたらすキリストとの関係、リアリティーに生かされたいと願います。

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