2021年冬号・1月3日小中高科 ナザレン希望誌ウェブ版

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■ 説教準備のためのテキスト研究
ぶどう酒に変わった水 ――――ヨハネ 2:1-11
伝えるポイント;イエスは、きよめの水がめの水をぶどう酒に変えて婚宴を喜びで満たし、最初のしるしとされた。

ポイント1
 それは貧しいカップルの結婚式だった。裕福なら途中でぶどう酒が無くなることもない。一世一代の祝宴でぶどう酒が切れるなど当時としても恥ずかしいことだった。であるのにぎりぎりの量しか準備できなかったということは余裕の無い庶民の結婚式とわかる。そこに神の子イエス・キリストが出席して真の祝福を与えられた。

ポイント2
 このぶどう酒の奇跡の陰にイエスの言葉に黙って従った僕(しもべ)たちがいた。石の水がめが六つ置いてあった。かめ一つに大型ペットボトルで50本分くらい入る、それが六つ。都度井戸まで汲みにいって満たしたのだから、かなりの重労働。無意味に見える重労働だが、イエスの言葉通りに素直に従い続けた結果、そこに奇跡が起こった。(6節)

ポイント3
 このカナの結婚式の奇跡こそがイエスが神の子であるという最初のしるし(11節)だった。ぶどう酒が足りなくなったと訴えた母にイエスは答える「わたしの時はまだ来ていません。」イエスの時とは何か?ヨハネ福音書12章23節にこうある。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」だからイエスの時とは十字架の死と復活の時である。今はまだその時ではない。イエスの母はそのことが理解できない。母にとっては今ここでぶどう酒がなくなりかかっていることだけが問題だった。だから母も弟子たちもイエスが高価なぶどう酒をふるまって、料理がしらが一体どうしてこんな良いぶどう酒をとっておいたのかと驚くほどの酒をふるまえたことを「奇跡だ」と喜んだ。
 しかし、それはイエスの本当のしるしとは違う。そこにはユダヤ人が「清めに用いる水(旧約聖書レビ記14章の記述などが典型的)」のかめが置いてあった。水をもって清める行い、それがバプテスマの原形である。バプテスマのヨハネは、人々の体を水に浸して罪の聖めの儀式をおこなった。しかしカナの婚礼の席上でイエスはユダヤ人の、この「清めのための水」を「ぶどう酒」に変えられた。まるで血のように真っ赤なぶどう酒に。だからぶどう酒はイエスの血を暗示している。イエスは、水などでいくら洗っても清められない私たちの汚い心のために身代わりに十字架について血を流され、ご自身の血を使って私たちを清めて下さる。だからカナの結婚式の出来事がイエスの真の救いをあらわす「最初のしるし(注1)」と言われている。この救いの本質は石をパンに変え水を酒に変え、木の葉すらお札に変えていただくようなたぐいの即決ではないとわかる。

注1)しるし(ギリシア語セメイオン:印、合図、兆し)

■ 中高科
ぶどう酒に変わった水 ――――――ヨハネ 2:1-11
伝えるポイント;イエスは、きよめの水がめの水をぶどう酒に変えて婚宴を喜びで満たし、最初のしるしとされた。

準 備
 結婚式の祝宴で、イエスは水をぶどう酒に変える最初の奇跡を行われた。この時代の結婚の祝いは一週間も続くことがあったので、宴会の主催者は客に振る舞うためにぶどう酒を2~3メトレテス(80~120リットル)入る水がめ6つを用意していたが、それらが全て空になってしまった。
 その祝宴にイエスとイエスの母も招かれていていたが、イエスの母マリアは祝宴の主催者に近い関係であったのであろうか、ぶどう酒が無くなったことに気づいてイエスにそのことを告げた。ところがイエスは、母の事を「婦人よ」と呼び、それが「わたしとどんな関わりがあるのですか。私の時はまだ来ていません」と冷淡に答えられた。それは母へのいたわりのない言葉ではなく、イエスは十字架で贖いの死を遂げるためにこの世に来られたこと、そしてその贖いの時は神ご自身が定めておられることを示されたのである。
 ぶどう酒は喜びを表しており、イエスは私達の人生の悲しみや切なさを喜びに変えて下さるお方であることを生徒たちに伝えたい。


説教例
 皆さん、明けましておめでとうございます。こうして、一年の初めに先ず神さまを礼拝して新年のスタートが切れることを幸いに思います。
 今朝の聖書の個所は、イエスさまがガリラヤのカナで水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡を行われた場面です。イエスさまは、母マリアと弟子たちと共に結婚の祝宴に招かれていました。この時代では、結婚の祝宴は何と一週間も続くことがあったのです。祝宴を開いた人はお祝いに来てくれたお客さんをもてなすために沢山のぶどう酒を用意していました。この祝宴にぶどう酒が用意されたのは、お酒を飲んで騒ぐためではなく、「結婚をした二人をお祝いするための喜びの杯」であったと理解しましょう。
 この喜びの祝宴の最中に、用意していたぶどう酒が無くなるという問題が起きました。祝宴を準備した人は80~120リットル入る石がめを六つ用意し、それらにぶどう酒を入れたので、祝宴のためには十分だと思っていました。ところがそのぶどう酒が無くなりかけたと聞いて、どんなにあわてたことでしょう。
 それを見ていた母マリアは、イエスさまに何とかして欲しいという思いで、「ぶどう酒が足りなくなりました」と告げました。おそらくマリアはこの祝宴を開いた人と近い関係にあったので、ぶどう酒のことを心配したのでしょう。ところがイエスさまは、「わたしとぶどう酒が無くなったことはどんな関わりがありますか。わたしの時はまだ来ていません」と答えられたのです。それは少し突き放したような言い方に聞こえますが、この言葉には深い意味があったのです。
 母マリアは結婚式のことを心配しましたが、イエスさまの関心は人々をお救いになることでした。ぶどう酒は喜びの象徴でもありますが、同時にイエスさまが流される十字架の血潮を表しています。イエスさまの心にある思いは人の罪の身代わりに十字架で犠牲の死を遂げられることであり、人がそれによって救われることでした。イエスさまの真意を悟ったマリアは、「この方の言われる通りにして下さい」と召し使いたちに告げました。そして、召し使いたちがイエスさまに言われたとおりに水を六つのかめに入れて世話役の所に運んで行くと、水がぶどう酒に変わっていました。この奇跡は、イエスさまが神の御子としての権威を持っておられて、人の苦しみや悲しみを喜びに変えて下さるお方であることが告げられているのです。
 普通の水には味がありませんね。私達の毎日もイエスさまを信じていなければ味気ない日々なのかも知れません。しかし、イエスさまと出会い、イエス様に結ばれているなら感動と喜びに包まれた毎日を過ごすことが出来るのです。

■ 小学科
ぶどう酒に変わった水 ――――――ヨハネ 2:1-11
伝えるポイント;イエスは、きよめの水がめの水をぶどう酒に変えて婚宴を喜びで満たし、最初のしるしとされた。

準 備
 この奇跡は、神との関係においてイエスの本質を明らかにし、そのことによってイエスへの信仰を引き起こす「しるし」である。

説教例
 イエスさまは、ガリラヤのカナという町で過ごしている時に、結婚式に招かれました。イエスさまのお母さんのマリアも、イエスさまのお弟子さんたちも一緒に、その結婚式に出席していました。
 結婚する若い二人のもとに親戚や友達などたくさんの人が招かれて、つつましくも幸せに満ちあふれたパーティーが行われていたことでしょう。
 ところが、そのパーティーの途中でぶどう酒が足りなくなってしまいました。途中でぶどう酒が足りなくなるなんて! それは、招く側としてはとても恥ずかしいことでした。その若い二人は貧しく、ぎりぎりの量しか準備できなかったと想像できます。
 イエスさまのお母さんが「ぶどう酒がなくなりました。」とイエスさまに言ったのですが、返ってきた答えは何と「婦人よ(←お母さんと言ってない!)、わたしとどんなかかわりがあるのです?(←え? 親子じゃないの?)」という、あまりにもそっけないものだったのです。続いて「わたしの時はまだ来ていません。」とも言っています。わたしの時、イエスさまの時って何でしょう? それは、イエスさまが神の子として、十字架において栄光を受ける時のことにつながります。
 お母さんのマリアさんは、イエスさまの言う「わたしの時」の意味はわからなかったけれど、召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言いました。きっと、イエスさまがこれから何か行動を起こされることを予感していたのでしょう。
 そこには、ユダヤ人が清めに使うための石の水がめが六つ置いてありました。2リットルのペットボトル50本分ほど入る水がめが六つです。イエスさまが「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁いっぱいいっぱいまで水を入れました。イエスさまは「さあ、それをくんで宴会の(パーティーの)世話役のところへ持って行きなさい」と言われました。召し使いたちはそれを運んでいきました。世話役がその水の味見をしてみると、すでにぶどう酒に変わっていたのです。しかも、とってもおいしい最高のぶどう酒に!
 世話役は、こんな素晴らしいぶどう酒を今まで取っておいたことに驚き、花婿を褒めましたが、水を運んだ召し使いたちは、それがどこからどのようにして来たのか、全部知っていました。そうです、イエスさまが奇跡を行い、水をぶどう酒に変えてくださったのです。
 この出来事は、イエスさまが、困っている若い二人のために手助けをした、ということに留まりません。ユダヤ人が罪を清めるために使っていた水をぶどう酒に変えたこと、それは、これからイエスさまがたどる十字架上での死、そこで流された血につながります。イエスさまが一度だけ血を流されたことにより、いちいち水で清めなくても私たちの罪は赦されるのです。
 この最初の奇跡によって、イエスさまはその栄光を現されました。お弟子さんたちも、イエスさまが神さまの子であると信じました。私たち一人ひとりも、イエスさまに招かれています。イエスさまが罪(神様から離れようとすること)から私を救ってくださることを信じ、歩んでいきたいと思います。

■ 小学科ワーク

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