2021年春号・特別寄稿 コロナ禍の中で見えてきた大切なもの ナザレン希望誌ウェブ版

                           目次にもどる

                              江上環
              日本ナザレン教団理事長/青葉台教会牧師

 昨年からの新型コロナウィルス感染症の影響で、世界中の人々が、日本中の人々が不安で希望の見えない状況の中、苦しみを経験しています。エジプトにいたイスラエルの人々の上には、災いはなく、エジプト人の上には災いがあったと出エジプト記は語りますが、世界中のクリスチャンは新型コロナ感染症から守られて、クリスチャンではない人々は感染者が多いという事はありません。クリスチャンもノンクリスチャンも、新型コロナウィルス感染症の影響で、制約された状況で、精神的にも肉体的にも、信仰的にも疲れ、悶々と日々を送っています。
 新型コロナウィルスの感染者が発見されて、一年以上が経ちます。毎日のニュースでの新型コロナウイルス新規感染者の数が気になり、その数によって安心したり、憂鬱になったりと精神的にも苦労します。日本ナザレン教団の、各教会におきましても、教会に人を誘う事、教会に共に集まり交わることを中心として来た様々な働きができなくなり、教会に集えない、集まれない状況が今も続いております。緊急事態宣言が発令された地域では、礼拝を中止したり、無会衆での礼拝、人数を制限しての礼拝、教会には集まらずライブ礼拝での礼拝と様々な形があります。教会の最も大切な礼拝、クリスチャンの信仰の中心的な拠り所である礼拝ができない、集えないという状況は、かつて戦争や地震や災害等ではありましたが、今回のような出来事は百年に一度と言われるような状況です。
 その礼拝の形式も、教会によって様々だと思います。説教の時間や賛美歌の歌う節を短縮したり、賛美そのものを歌わないこと、交読文や使徒信条を削除したり、礼拝の奉仕そのものをなくすことや、教会によってそれぞれでしょう。神学的には、礼拝学的には、おそらく現在行われている礼拝のスタイルでは、礼拝とは認められないということかも知れません。何も問題がなく、各教会がいつも通りの独自の礼拝を行っている時には、自分たちとは形式の違う教会の礼拝を批判したり、認めなかったりしたのです。しかし、コロナ禍の中で、思うようにならない礼拝形式、会堂に集わない礼拝、時間を短縮し、プログラムの削減という礼拝の状況を誰も批判しませんし、批判などできないのです。 
本来、神様を礼拝するとは、プログラムや伝統、約束事によって行われるのではなく、場所や環境に関係なく、神様にささげられるべきだと思うのです。賛美がどうだ、形式がどうだというのではなく、教会に集い会衆であろうが、家で一人であろうが、生ける神様が共におられることを意識して、心からの賛美と礼拝をささげることなのです。
 新型コロナウィルス感染症の影響で、形式や型にはまった礼拝ではなく、困難な状況の中で、今できる精一杯の礼拝をささげるのです。そして、今それが現実となっています。
 キリスト教の伝統、教会の伝統を守ることは大切な事です。しかし、現実の困難の中では、それらを超えた在り方、生き方が問われ、思うようにならない状況で、制約された状況の中で、キリスト教会は現在様々な形で礼拝を守り続けているのです。
 ナザレン教団の牧師ではありませんが、「本来、説教者は会衆の中で育てられると言われるが、現在、無会衆の礼拝では、説教者が育てられない」ということを痛感していると語っておられました。数の問題ではない、とよく言われますが、やはり数によっては、牧師はがっかりしたり、頑張ったりできるものだと感じます。無会衆の中で、会堂に会衆が一人もいない。ライブ礼拝で多くの人々が礼拝に参加しているとは思っても、目の前には誰もいない状況で、メッセージを語るのは至難の業です。そこでは、説教者として育てられない自分を深く感じるものです。また、会衆も説教者のメッセージによって育てられます。
ライブ礼拝を通して、説教が語られているのだから、それで十分とは言えないのです。やはり、クリスチャンは、会堂に集い、顔と顔を合わせて、牧師を通して神様からの説教を聞くことが大切な事なのだと、コロナ禍の中で強く感じています。
 ある信徒の方が会堂の礼拝にひさしぶりに参加して、「家でライブ礼拝もいいですが、やはり教会に集っての礼拝は違います。家で家事をしながらライブ礼拝の時間だからと慌てて座ってライブ礼拝を見ます。しかし、会堂に集うためには、服装を整えて、心を整え、バスや電車の移動の中にも礼拝に参加する心構えができます。やはり、教会に来るという行動が、状況が、備えが、礼拝に対する、あるいは説教を聞く心構えとなり、礼拝そのものが、メッセージが強く迫ってきます。」と、とても喜んでおられたのが印象的でした。
 以前、教会は礼拝以外にも様々な集会や行事等が多くありました。しかし、コロナ禍の中で、様々な集会や行事ができなくなり、礼拝のみが現実に行われています。思うようにならない状況で、制約された中で、何が大切なのか。何を大切にするべきなのか、とキリスト教会は考えざるを得ない状況に置かれました。礼拝の在り方やプログラム、その内容云々も大事ですが、私たちは、会堂に共に集い礼拝をささげられることがどんなに素晴らしいことなのか、恵まれていることなのかということを痛感しているのです。
 私たちは、新型コロナウィルス感染症の影響で、教会の在り方、キリスト者としての歩み、礼拝ということを深く考えさせられ、何が大切な事なのかを示されました。私たちは、
宗教改革の時に、「聖書に帰れ、聖書のみ」と聖書の言葉の大切さを示されたことを知っています。コロナ禍の中で、私たちは、み言葉に飢え渇いています。多くの教会がライブ配信やユーチューブ配信を通して説教や聖書の学びを語っています。そのことを通して、教会を離れている、かつてクリスチャンであった人々や求道者の方々が聖書や福音に触れる機会が増えたことは宣教の拡大です。けれども、私たちは聖書を通して、神の言葉を読み、黙想して、神からの声を聞いて従う。祈りを通して神様と深く交わり、どのようなマイナスの状況を経験しようとも、神様を信頼して、神様に期待して、神様と共に今置かれた状況の中で、希望を持って生きるのです。
私たちは、なかなか会堂に集えない状況だからこそ、ライブ礼拝を見ることもできない人々もおられる中で、聖書に触れ、聖書の言葉、神の言葉を通して、聖霊が示す神の声を聞いて歩む生き方をコロナ禍の中で、もう一度示されているように強く思うのです。

目次にもどる

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?