2020年夏号・成人科8月9日(平和主日) ナザレン希望誌ウェブ(テスト)版

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地の果てまで平和を 詩編 46:5-11

○今年も原爆記念日、終戦記念日がやってきました。終戦から75年が経過しますが、今もなお多くの人に悲しみを思い出させています。また世界の様々なところに、多くの傷跡を残し、癒しがたいものとなっています。なぜなら、第2次世界大戦関連の死者の数は世界全体では7000万人以上であるといわれ、当時の世界人口の4%にもなる数です。負傷者の数やその家族を考えると、すべての人が大きな犠牲と悲しみを担ったことになります。人の尊厳を考える時に、二度と戦争を起こしてはならないと感じます。
1、われらの神こそ平和
 なぜ、争いが起こるのかというと、そこに正義と思えるものと、悪と思えるものが存在するからです。争いとは悪を退治しようとする行動です。けれども人は悪を退治できません。なぜなら悪と正義は同じものだからです。自分に取って都合のよくないことや、損失や、苦しいと感じる事象のことを悪と感じるのです。逆に自分に取って都合の良いことは正義と感じ、嫌いなことは悪そのものなのです。個人や国家についても、互いの立場が対立している時は、相手の利益はこちらの損失であり、相手の都合はこちらの不都合になり、自分にとっての不都合は相手の都合になるのです。対立する者の利益は、互いに相反するものなのです。すなわち悪はいつも、相手が求めるものであり、正義は自分が求めるものとなるのです。ですから相手が滅びるまで、自分にとっての正義は成り立たないのです。争いはいつもうちにあり、決して終わらないものです。しかし、相手よりももっと大きな力の方が、私と共におられ、私の必要を守り、損失を補うことができるお方がおられることを知る時、そのお方に求め委ねることができるのです。その時、そこに平和が到来するのです。
 私たちの平和は、強い軍事力によって裏付けられるのではなく、私たちの魂に平和をもたらせるお方によって到来するのです。詩編の記者は、「神はわれらの避けどころ、また力。」と言っています。平和は、敵を滅ぼし尽くす時に来るものではなく、私たちを愛し、守られる全能の神に、信頼し自らを明け渡すときに来るものが平安であり、平和なのです。平和がある時、人を赦し愛する力が湧き上がり、苦しみから立ち上がる力となるのです。
2、来て、見よ。主のみわざを (列王第2 19章)
 この詩篇の記者は、小国ユダが、大国アッスリヤの大軍に囲まれた時の、主にあっての大勝利の出来事を歌ったものであると言われています。決して勝ち目のない戦いでしたが、ヒゼキヤ王は預言者イザヤに祈りを要請して、自らも祈り、神の民の勝利を信じ待ち望んだのです。敵陣の呪いに満ちた言葉も、決して聞かないように、返答しないようにして、ただ神様に祈り神の御業を待ち望んだのです。その時、神はユダに大勝利を与えられたのです。18万5千人もの大軍隊が、一夜にして滅ぼされ敵軍の王は殺されてしまったのです。「来て、見よ。主の勝利を。」、武器によってではなく、軍隊によってではなく、大勝利は主によって来るのです。この勝利は戦いによって得た勝利ではないのです。どこまでも神様を信じ、共におられることを信じる者に来る大勝利なのです。いかなる戦いも、困難も私たちを決して見放すことがない神様がなさる御業なのです。これはキリストにある勝利の雛型なのです。私たちクリスチャンはこの勝利を、この全世界にもたらすために選ばれ、召し出されているのです。


設 問 なぜ、人生の勝利はキリストから来るのでしょうか。

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