2020年秋号・11月15日成人科 ナザレン希望誌ウェブ版

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この世の権威とは何か      ローマ 13:1-7

 まず権威とは何でしょうか。権威とは「自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと。」とあります。どの専門分野においても権威がもてはやされる傾向があります。少しでも知れわたるようになると、ネームバリュー自体が権威の象徴であるかのようなイメージができていきます。又権威は容易に私利私欲と結びついてしまいやすいものです。権威が正しく用いられることは非常に困難です。
 パウロはキリストにおける新しい生活について記した後に、権威の問題を取り上げています。権威が新しい生活の中でどのような位置づけをもつのでしょうか。ここでパウロは、権威は神によってたてられている、と記しています。7節で「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、従うべき人は従いなさい。」(7節)と結論付けています。ここで権威が神と関係づけられています。イエスの言葉にも同じようなことが語られています。イエスはデナリオン銀貨を示しながら、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ 22:21)と。
 なぜここでパウロは神と権威の結びつきを語る必要があったのでしょうか。ローマにおける特殊な事情が背景にあったと思われます。ローマ帝国の権威者の代表として皇帝が思い浮かびます。皇帝だけが権威者ではありませんが、皇帝こそが権威の象徴のようにイメージされていました。ローマにおいては皇帝崇拝がなされ、皇帝は神と同様また神そのものとして権威が正当化されていました。皇帝の前ではたとえ何人と言えども絶対服従を求められていたのです。
 この事からパウロは信仰による新しい生活の中で神と人間を明確にまったく異なる存在としての認識をもたせると同時に絶対他者としての神が権威の立役者であり、権威を牽引するお方として明確に示したものです。
 とは言っても、権威は私たち人間の肉的なお思いすなわち私利私欲と容易に結びついてしまい、乱用されることが多く存在します。パウロが指摘するように権威と人間の結びつきを、信仰(言い換えれば神の存在)というフィルターを通して判断することはとても重要な視点を持っています。そのような判断によってこそ私たちがなすべきこと求められていることが明らかになっていくのです。
 この権威の問題を考えるためにぜひ参考にしたい文書が聖書の中にあります。サムエル記上は全体において権威における神と人間の問題を大きなテーマとして取り上げています。この権威を私利私欲のために用いたサウル王のなれの果てまでも描き切っています。
 現代のモデルケースとしても十分読み応えのある文書です。

【設問】
1.権威が陥りやすい危険性とは何ですか。
2.人間が権威と結びつく際に必要なものは何ですか。

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