2021年冬号・3月14日成人科 ナザレン希望誌ウェブ版

目次に戻る    カリキュラム一覧に戻る

ヨハネ16章16~24節 悲しみがイエスによって喜びにかわる

 今回の課題に関して「あなたがたは悲しむが」(20節)とイエスの言葉が書かれています。この悲しみはイエスを見ることが出来なくなる、今迄(まで)共に生活して来たイエスが目の前からいなくなることによって起こる悲しみだとヨハネは伝えます。それは、イエスがおられる時には、弟子たちの願うことをイエスに直接伝えることが出来たのですが、いなくなることによって、弟子たちの願いを伝える相手がいなくなるのです。相談相手がいなくなること、これは大きな損失だということが出来ます。イエスはそのことをご存知だったでしょう。だからこそ23~24節に「あなた方がわたしの名によって何かを父に願うならば」と語っておられるのです。14章14節には「わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」と語り、15章においても16節で「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように」ともイエスは語っておられます。お読みいただいて解(わか)るように14章(16~17節)・15章(26節)、16章(7~8節)の三つの章に共通した内容のことが語られました。そのことから解(わか)かることは、イエスに直接願うことがどれほど大切なことであったか、それに対し、イエスは新しい道、すなわち「イエスの名によって願う」ということを弟子たちに告げたのです。「イエスの名によって」願うとき、その願いが神に届けられることを語ってくださったのです。とても大きな約束です。今日の教会、またキリスト者が「イエスの名によって」と祈る言葉の根拠となっています。
 更にイエスが語られたもう一つのことも併せて受け止めなければなりません。これも14章、15章、16章に共通していることです。それは「弁護者」(聖霊)が関わってくださるということです。弟子たちが「イエスの名によって」願ったとしても、それがどのように神に届けられるのかが不明瞭だと言えるでしょう。そのような状態に対しヨハネが「弁護者」と書いた「聖霊」によって、その願いが神に届けられるということに弟子たちは大きな望みを抱くことが出来るようにされたのです。今まで見えていたイエスがいなくなる中で、イエスの約束として、別の助け主である「弁護者」が送られてくるという言葉に、弟子たちの心は安堵したと思われます。
 神に願うのは私たちであり、弟子たちです。そして思いの限りを「願い・祈る」のも私たちです。しかしそのときの言葉は拙いものだろうと思われます。それでも「願い・祈る」ことが神に聞かれていくのです。
 パウロはローマの教会に対し「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(8;26)と書いています。
 イエスもパウロも「願い・祈り」に関して、目で見ることが出来ず、手指で確認することも出来ない聖霊(ヨハネは「弁護者」と表現し、パウロは“霊”と表現しています)によって、神に届く確かな祈りとなっていくのです。
 今回の課題の中に「イエスによって喜びにかわる」となっていますが、「願い・祈り」に関しての喜びは「聖霊」によってこそもたらされるものだと覚えたいものです。
【設問】
祈る時にも聖霊が助けてくださるということの意味と喜びを語り合ってください。
参考賛美 「告げよ主に」(新聖歌 35番)

目次に戻る    カリキュラム一覧に戻る

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?