2020年秋号・10月25日小中高科 ナザレン希望誌ウェブ版

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■ 説教準備のためのテキスト研究
ローマ6:20-23 神さまがくださる永遠の命
伝えるポイント:神はキリストによって、私たちに永遠の命を下さる。

◇ローマ書について
 10月18日のテキスト研究では、ローマ教会の状況について触れた。今日は、パウロの状況について記したい。ローマ書15:30~33で、パウロは「エルサレム訪問が成功するよう祈ってください」と記している。パウロは、小アジアやギリシャの各地方で彼が創設した諸教会で募った献金をもって、エルサレムを訪問する事を企図していた。しかし、彼はこのエルサレム訪問に不安を抱いている事がこの祈りの依頼から分かる。
 パウロがエルサレム教会に手渡そうとしていた献金は、ユダヤ人と異邦人による教会のキリストにある一致を象徴するものであり、パウロが命を賭してきた異邦人伝道の成果と言えるほどに重要なものであった。この献金を「全ての教会の母教会」とも言えるエルサレム教会に受け入れてもらうか否かに、彼の全活動が有意義なものになるかどうかがかかっている…と当時のパウロは考えていた。従って、彼はローマ帝国の首都にある教会で、異邦人とユダヤ人とからなるローマ教会に彼の神学を用いて福音の真理を説き明かし、彼を承認してもらう事を通じて、エルサレム訪問を後押ししてもらう意図があったと考えられている。
◇信仰義認への誤解
 パウロは、5章の終わりで、「神がイスラエルに対して律法を与えたのは、律法によって生きる人々に対する罪の力がまし加わり、そこに恵みがより一層満ち溢れる為であった」(5:20)という衝撃的な主張を行った。この主張は、当然のごとく「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきなのか」(6:1)という問いを引き出す。パウロは信仰義認を正しく論述する為にこのような論理の展開を行った。なぜなら、「行いによらずただ信仰のみで義とされる」という信仰義認の根幹にある「神の恵み」を、人々は、人間の罪を増長させるものとして受け取り、「律法を守る行いが救いに何の効果もないのであれば、罪にとどまっていてもいいじゃないか」と考えがちだからである。<不義なる者を義とする神の恵み>についてのこのような誤解に対して、パウロは、6章を通じて二つの側面から反論を試みている。

6:1から14 死と命
 第一の反論は、「神の恵みによる義認とは、罪に対して死に、義とされた新しい命に生きることだ」という主張である。パウロはこの死と命の転換は洗礼を契機に起こるキリストと共にある死と命であるとした。つまり、「洗礼とは、キリストと共に死に、キリストと共に新しい命に甦る事」と捉え、洗礼を受けてキリストとなった者は、「死者の中から甦った者として罪に支配された古い生き方を捨て、神の恵みの下へと立ちなさい」と勧めるのである。

6:15から23 自由と隷属
 第二の反論は、パウロの深い人間性の洞察に基づく。パウロは人間を完全に自由な被造物ではなく、忠誠を尽くすべき某かの「主人」が必要な存在と捉えている。確かに人間は、”思想、信条”や”社会通念”など某かのものを信じ、それに従って生きている。だからこそ、従う「主人」がなんであるか、何に対して自由であり何に対して隷属するのか…が重要となる。パウロは、「人間は、人間を支配する力である『罪』に仕えて、その必然的な結果である『死』を選ぶのか、あるいは『義』に仕えて、永遠の命に至る『生』を選ぶのかの選択の前に立たされている」という。しかし、この義に仕え永遠の命へ至る道を選ぶことができるようになったのは、当たり前のことではない。神によって人間の為にすでに成し遂げられた救いの業、イエス・キリストの十字架と復活の故に、私たちは義に仕える道、永遠の命への道を選び取ることができるようになった。従って、信仰義認の恵みに生きる事は罪に生きる事とは何の関係もない、永遠の命への道なのである。

■ 中高科
ローマ6:20-23 神さまがくださる永遠の命
伝えるポイント:神はキリストによって、私たちに永遠の命を下さる。

●準備
 「罪による死」と、神様が与えて下さる「永遠の命」とが対比的に記されています。罪による死は、肉体的な死のみならず霊的な死をも意味しています。では「永遠の命」とは具体的にどのような事でしょうか。イエス様はヨハネの福音書17章3節において「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と教えておられます。イエスを救い主と信じる者たちは、罪が許さるばかりではなく、肉体的な死を超えて永遠に生きる事が出来る事を意味しています。普段、人は死は怖くないと口にしていたとしても、そのことが身近なものとなった時、恐ろしさを誰しも感じるのが一般的でしょう。そのような時になって慌てるのではなく、いつも神様との関係が正しくあるならば、たとえどのような中にあっても神様の御手に守られて過ごすことのできる平安があるという事を伝えたいものです。それが神様と共に歩む事、それこそが永遠の命を生きるという事といえるでしょう。

●説教例
 イエス様がルカの福音書15章においてお話されている「放蕩息子の話」は、父なる神様がどれほど、私達が神様の元に帰ってくるのを待っておられるお方であるかが書かれています。弟息子は、父のもとを離れ自分の思いのままに過ごした結果、生命以外、何もかも失ってしまった時、初めて自分の惨めさに気づきました。その時の事を「我にかえった」という言葉で表現されています。彼は、この時、自分の姿を見て、なぜ、こうなってしまったのかという事を自己反省しているといえます。彼は、父のもとに帰り、雇人の一人として雇ってもらう事を選択し、家路につきますが、お父さんは、息子が帰って くるのを外で待っていて、そして、息子の姿を見つけ、走り寄って抱きしめ、家に迎え入れ、「この息子は死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」と言って豪華な食事を用意し、お祝いしました。
 24節の「この息子は死んでいたのに生き返りとは・・・・」とは、神様の元から離れた者は霊的に死んでいるといった存在であるという事を、私達に教えています。
 聖書において人が死んでいる、生きているとは、神様との関係がどのような関係にあるかという事です。ある電気の工事現場で、電気工事をしている人たちの間で、「おい、この電線は生きているか?」それとも「死んでいるか?」と話していました。つまり生きているとは電流が流れているか?それとも電流が流れていないかという事です。
 人と神様との関係も信仰において、神様とつがっていれば、生きているとみなされ、つながっていないならば死んだものとみなされます。
 この関係をつないで下さるお方がイエス様であり、私達が自分の罪を認めて、悔い改めて、神様の元に帰るならば、神様との関係は結ばれ、永遠の命を生きる者となります。それはどのような時においても、神様が信じる者たちと共にいて下さるという事であり、生きている時も、この世での生涯を終えたとしても、いつまでも変わることのないものであるといえます。
 神様との関係がつながっているならば、イエス様がヨハネの福音書15章で話されたぶどうの木と枝の話が良く理解できると思います。
 イエス様につながって生きるものは豊かな実を結ぶ人となります。どうか神様につながり豊かな実を結ぶ人になって欲しいと思います。

■ 小学科
ローマ6:20-23 神さまがくださる永遠の命
伝えるポイント:神はキリストによって、私たちに永遠の命を下さる。

●説教にあたって
・ローマ信徒への手紙については、10/18,10/25のテキスト研究を参照ください。
・6:20~23は、6:15「私たちは、恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいだろうか」という問いかけに対する答えの結論です。
・罪を犯す者は罪に隷属する者となり、その報いは「死」(滅び)であるとパウロは言います。つまり、肉体の死をもって自分自身の存在が滅んでしまうのです。しかし、私たちの罪を贖う為に十字架についてくださったイエス・キリストを受け入れ、キリストの十字架と復活で表された神の愛に応えて神の僕となり神の教えを守ろうとする者に、神は死で終わらない永遠の命を与えてくださいます。永遠の命とは、キリストと共に神の懐に抱かれる神の子の命と言えます。私たちは、罪に支配されて死ぬ道か、神に従い、永遠の命へと続く道か、どちらを選ぶかを委ねられています。

●説教例
 人間って、自己中心的な生き物。「自分達さえよければいい」と思うし、嫌な人がいれば「あんな人、いなくなればいいのに」なんて考えてしまう。いつもどんな時でも、どんな人とも大切に思い合う事は、殆どできない。神さまの言いつけを守るよりも、自分の気持ちを優先させてしまう。だから、いつまでたってもこの世界から差別はなくならない、戦争もなくならない。人間は神さまから遠く離れてしまっている。だから、この肉体が死んだら、そのまま滅んでしまうしかなかった。
 でも、天の神さまは、私たち人間が滅びさってしまう事がとても悲しかった。でもでも、人間は自己中心的に生きて罪を犯してしまうから、神さまと一緒に永遠の命に生きることはできない。どうしたらいいのだろう?神さまはとても悩んだ、そして、ついに決心した。大切な実の息子であるイエスさ
まを、人間としてこの地上に送り、私たち人間、すべての人間の罪を全部イエスさまに肩代わりさせて、十字架に架けて死刑にした。天の神さまは、大切な大切な独り息子を犠牲にしても、私たちに滅んでほしくなかった。それほど私たち人間を愛しておられる。そして十字架に架かって死んだイエスさまは三日目に永遠の命に復活された。だから、私たちはイエスさまが神さまの独り息子だって気づけたし、イエスさまを通じて神さまの愛を知ることができる。
 イエスさまの十字架によって私たちの罪は赦されました。だから、「ラッキー。何やってもイエスさまの十字架で許されているんだから、すき放題しよう!」と思って神さまの言う事を聞かないこともできます。でも、それで幸せになれるかな?神さまの愛を踏みにじって自分の好き勝手にしていたら、神さまは一緒に生きてはくださらない。「それでもいい、神さまなんかいらない」と生きる事はできるかもしれない。だけど、人間はいつかは死んじゃう。そして、神さまが一緒に生きてくださらないなら、肉体が死ねば、そこで滅んでしまう。いなくなるだけの私たち。
 一方、イエスさまの十字架によって私たちの罪が赦された事を真剣に受け止めて、「こんなに愛してくれて神さま、ありがとう。神さまとイエスさまの言うことを聞いて生きていきたいです」と真剣に思う時、神さまは私たちと一緒にいて、本当に色々と助けてくれます。それは、肉体の命がなくなっても続きます。永遠の命、神さまと一緒の命が与えられます。神さまは私たちを懐に抱きしめて、「私の愛する◎◎」と名前を呼んでくれます。私たちも「愛するお父ちゃん!」と神さまに抱かれて、神さまをお父さんと呼ぶことができるんです。それが肉体の死を超えた永遠の命。教会学校のお友達みんなが、イエスさまに従って永遠の命への道を生きていけますように…と祈っています。

■ 小学科ワーク

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