2020年秋号・12月6日成人科 ナザレン希望誌ウェブ版

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お言葉どおり、この身に成りますように  ルカ 1:26-38

 信仰のない人たちにとって、最も理解するのが困難な事柄の一つがこの受胎告知の記事です。この受胎告知の記事の中に存在するテーマは何でしょう。簡単率直に言うと信仰の問題です。
 処女が子を宿すなど、どう考えてもわたしたち人間の世界ではありえないことです。信仰がなければどうしても理解できない謎を含む出来事でしかありません。しかし、前回学んだことを踏まえ、人間の罪の結果から必然的に起こされた出来事として考えると、ここに神の御業の中で起こされた罪の赦し、言い換えるとここでルカは、人の形をもって織りなす主イエス・キリストの罪の贖いとしての生涯を暗にすでに予告しているのです。
 受胎告知は、この記事から聖霊の先行によって導かれた出来事として記しています。
 聖霊の導きを考えないわけにはいきませんが、このことを度外視して考えると、この記録は新約時代に起こされた単なるスキャンダルの一つにすぎません。女性が当時代に犯した最も過酷な罪の記録です。
 しかしながら、マリアの口を通して全く異なる2つの発言をさせています。信仰を前提としなければ、女性が姦淫の罪を犯せば石打の刑という裁きを受けることになります。処女であったマリアは身に覚えのない出来事に遭遇し、ただただ恐怖におののくばかりだったでしょう。その恐怖から出た言葉が「どうして、そんなことがあり得ましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(34節)という発言です。この言葉は、信仰の伴わない恐怖から出た肉声として記されたものと考えることができます。
 マリアに非の打ちどころのない罪の潔白が証明されたとしても、罪として起きてしまったものは罪の事実として残ってしまいます。否定することができないのです。
 しかしこのスキャンダルの中に聖霊の介入を加味することによって、大きな変更が生じてくるのです。それが罪の赦しであり贖罪の意味が与えられることになっていくのです。
 イスラエルの罪の歴史から考えると、イエスの御降誕そのものが単なる救い主(メシア)の誕生ではなく、イスラエルの罪に対する贖罪をもって新約時代が幕を開けたこととしても無理なく理解できそうです。その贖罪としての受胎告知に対し、マリアの言葉「お言葉どおり、この身に成りますように。」をもって信仰をもって受け入れているのです。この言葉がイスラエルの信仰の意味を含んでいると、言えるでしょう。
 この身も震えるようなマリアとヨセフの間に起きた受胎告知は、単なる男女間に起きたスキャンダルととってよいのでしょうか。むしろマリアとヨセフの関係は神とイスラエルの関係と重複するようなイメージがあります。それでこそイエスの御降誕自体が贖罪の意味を含んでいるように思われるのです。
 ここですでに受胎告知は主イエスの十字架による死と復活の意義を暗示しているのです。

【設問】1.受胎告知で表現されたものはいったい何ですか。
    2.イエスの御降誕は何を意味しますか。

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