2020年夏号・小中高科8月30日 ナザレン希望誌ウェブ(テスト)版

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■ 説教準備のためのテキスト研究
モーセ神に呼ばれる
出エジプト記 3:1-13(朗読は3:9-10)
伝えるポイント:神ご自身がモーセに現れ、同胞を救い出すために「今、行きなさい。わたしがあなたを遣わす」と命じられた。

 モーセはエジプト人を殺害したことによってファラオから追われる身となり、ミディアンの地に逃れた。そこで祭司エトロの娘ツィポラをめとり羊飼いとして暮らしてきた。
 2章23~25では、エジプト王が死んで新たな幕が上がることを告げる。イスラエルの人々は苦役のためにうめき、叫び、その声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、父祖と結んだ契約を思い起こされ、イスラエルの人々を顧み、御心に留められた。
 神は燃える柴の炎として顕現される。そこにおいてモーセへの召命の言葉が語られ、モーセはそれに応答する。シナイにおける神の顕現とイスラエルの応答もこれと同じスタイルである。神の力ある顕現とイスラエルの召命及び応答は、旧約における神とイスラエルの関係の 1つの典型である。
 ある日モーセは、羊を追って荒れ野の奥に行った。つまりいつものコースを外れ、今まで行ったことのない所に来た。エテロがこの場所を知っていたかどうかは不明である。
 「主の御使い」は、通常の御使いとは区別される。創 18章と同様、主の御使い(神の代理者)と象徴(ここでは燃える炎)と神自身とは区別を付けることが出来ない。「火の炎」は神の臨在を示すものである。ここでは燃える柴の中から主が語りかけ、燃え尽きない柴に、自然の現象とははっきり違うものとしてモーセは近づく。
 「近づいてはいけない」。近づく〈ヘブル語:カーラブ〉は、礼拝において神の前に出ることや神託を求めることなどの意味に用いられることが多い。「足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」「わたしは…である」は神の自己紹介である。神は、かつてアブラハム、イサク、ヤコブに現れ彼らと契約を結ばれた神と同一の神であると名乗られた。
 神の顕現と名乗りに続く言葉は、モーセに対する召命である。まずイスラエルの苦しみ、叫び、痛みを神がすべてご存じであることが述べられる。また神はイスラエルをエジプトから連れ出し、約束の地へ導くと語られる。これは父祖たちに与えられた契約のうちで、まだ成就していない部分である。神は契約を必ず実現しようとしておられる。
 神が約束された地には、多くの先住民族がいる。エジプトのゴシェンのほうが、おそらく肥沃で住みやすい土地であろう。しかし神はカナンのほうを「広々とした素晴らしい地」と呼ばれるのである。なぜならその地が約束の地だからである。
 10節はモーセに対する召命の言葉である。召命は、神の側からの一方的な選びである。しかしその呼び掛けにモーセは恐れ尻込みする。それに対して主は、「わたしは必ずあなたと共にいる」〈ヘ:エフイェ・イムマーク〉と言われる。これはモーセ物語における重要な句である。「わたしがあなたを遣わす」という句においては「わたし」が強調されている。モーセの「わたしは何者でしょう」という言葉に対して、神は「わたし」をもって応答される。モーセとイスラエルの民は「この山で神に仕える」のだ。モーセがここで経験したことを、19章から 24章において、イスラエルも経験することとなる。
 モーセは神の御名を尋ねた。イスラエルの民が、いったいどの神にそれを命ぜられたのかと問うに違いないからである。神はそれに答えられた。
 14節15節で、神の聖名が語られる。「わたしはある。わあしはあるという者だ」と。〈ヘ〉エフイェ・アシェル・エフイェ。エフイェは英語の Be動詞にあたる〈ヘ〉ハーヤー(である)の1人称未完了形である。本来は補語を付けないと意味をなさない。しかし神御自身は、存在そのものであり、すべての存在の根源であり、変わることなく存在しておられるので、この様な表現をとられた。そのお方がモーセを遣わされるのだ。

■ 中高科
モーセ、神に呼ばれる
出エジプト記 3:1-12(朗読は3:9-10)
伝えるポイント:神ご自身がモーセに現れ、同胞を救い出すために「今、行きなさい。わたしがあなたを遣わす」と命じられた。

説教にあたって
 神は聖なるお方、神に近づくには畏れを持ってしなければなりません。また、神さまは時期がくれば必ず、ご自分が召した人に使命を告げられます。

説教例
 さて、皆さんは礼拝堂に入るとき、どんな気持ちになりますか?そこは、聖なる神さまの隣在しておられる場だという自覚があるでしょうか?今日は、主なる神さまとモーセとの出会いの場面です。ファラオの王女から養子として教育を受け、大切に育てられたモーセでしたが、おとなになったとき、ある失敗をしてしまいます。ある日、彼は同胞の働かされている現場に行き、初めてその苦役を見ました。心はヘブライ人であるモーセは胸が激しく痛むのを感じました。ふと見れば、ひとりのヘブライ人がエジプト人に鞭打たれているではありませんか!思わずカッとなったモーセは、誰もいないのを幸い、そのエジプト人を打ち殺してしまいます。翌日、また現場に行けば、今度はヘブライ人同士で争っています。モーセは仲裁にはいり、悪いほうをたしなめました。すると彼は、「今度は俺を殺すつもりか?あのエジプト人のように」などと言うではありませんか!モーセはしまった!と思いました。昨日の自分の犯行がばれてしまった、このままでは自分が殺されると思ったモーセは、ミディアン地方まで逃げていきました。
モーセは情けなく、悔しい思いになったでしょう。自分の不甲斐なさにがっかりもしたことでしょう。同胞を救いたいばかりに、自分の力でやったことのおかげで生まれ育ったエジプトから、逃亡者として離れなければならなくなったのです。若い時期にはよくある失敗かもしれません。正しいと思って、先生や上司に反抗し、余計な口出しをする、しかし、仲間はフォローしてくれません。結果、そこに居づらい雰囲気を作ってしまう失敗です。
 モーセは自分に失望し、ミディアン人の祭司の娘と結婚して、そこで羊の群れを飼いながら、ひっそりと暮らしていました。ある日、羊を追いながら神の山ホレブまできたモーセは不思議な光景に出会います。柴が燃えており、それがいつまでも燃え尽きないのです。なぜ、柴は燃え尽きないのだろう?不思議に思ったモーセがそれを見届けようと近づくとなんと神が自分を呼ばれるのを聞きました。「モーセよ、モーセよ」「はい、ここにおります」すると、「あなたの履物を脱ぎなさい。あなたの立っているところは聖なる地である」という声が聞こえました。モーセは初めて、神への畏れを感じて顔を隠しました。神は聖なるお方、これがモーセの育ったエジプトの偶像の神々との決定的な違いだったのです。続けて神さまはご自分がアブラハム、イサク、ヤコブの神であること、そして「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルをエジプトから連れ出すのだ」と、モーセの本来の使命を告げられるのです。モーセは面食らったことでしょう。自信のなかったことでしょう。若い頃の失敗が思い出されます。なぜ、私が?あれこれ言おうとするモーセに神は言われました。「わたしはあなたと共にいる」、だから、大丈夫なのだ、と。私たちは確かに自力だけでは何もできないかもしれません。しかし、「あなたと共にいる」と言われるお方を信じる限り、何でもできるのです。

■ 小学科
モーセ神に呼ばれる
出エジプト記 3:1-12(朗読は3:9-10)
伝えるポイント:神ご自身がモーセに現れ、同胞を救い出すために「今、行きなさい。わたしがあなたを遣わす」と命じられた。

説教にあたって
 自分の考えや思い込みで決心して出て行くのではない。祈りと御言葉を通して神さまの声を聴き、そこに神の招きがあるのかよく考え、立ち上がり歩き出すのである。

説教例
 モーセはイスラエル人の奴隷の子どもとして生まれましたが神さまの不思議な導きによりエジプトの王子として育てられました。40歳の時、モーセはエジプト人の見張り役が一人のイスラエル人に殴ったり蹴ったりしているのを見て怒り、その人を捕まえ殺してしまったのです。しかしこのことによりエジプトを逃げ出し遠いミデヤンの地へと逃れたのでした。モーセはそこで羊を飼う人となりお嫁さんをもらい子どもも与えられました。でもそれはエジプトの王子からすると凄い落差です。でも神さまはこのことを通して、イスラエルの人々を導く者として相応しく育てられて行くのです。
 ある日のことです。モーセは羊を連れて山に登りました。そこで燃えているように見えて燃えていない木を見つけたのです。するとそこから神さまの声が聞こえてきたのです。「モーセよ、ここに近づいてはいけない。靴を脱ぎなさい。私はあなたの先祖の神です。エジプトではイスラエル人が奴隷されて苦しんでいる。あなたはファラオの所へ行き人々を連れ出すのです」。しかしモーセは「そんなことはできません。ファラオと対決するなんてとても無理です」と恐れたのです。しかし神さまは「私はあなたと一緒にいるから大丈夫です。私があなたを遣わすのだ」。それでもモーセは「でもイスラエルの人たちは、私について来てくれるのでしょうか」と恐れたのです。そんなモーセに神さまは、幾つかの神さまの業を見せて安心させようとしました。それでもモーセは「私は皆の前で話すのが苦手です」と言ったのです。
 すると神さまは「あなたの兄のアロンと一緒に行きなさい。アロンは話すのが上手だから」。このように神さまから励まされ説得されて、神さまの言葉つまり御言葉を聞いてモーセはエジプトへ戻ことにしたのです。
 イエスさまのお弟子さんたちもどうでしょうか。イエスさまが捕まると逃げ出してしまいました。でもイエスさまが十字架にかかって復活され、後に聖霊を受けて罪が赦され救われることを思い知らされたのです。こうして力を受けた彼らは、イエスさまのことを伝えるために世界中へと旅立っていったのです。
 神さまは私ができるかどうかではなく、主に信頼し言葉に従うかどうかを尋ねておられるのです。御言葉を行う力は神さまご自身が与えて下さるのです。


■ 小学科ワーク

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