2020年夏号・シリーズ「教会教育」(4) ナザレン希望誌ウェブ(テスト)版

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■ 人の成長と教育(4)
杉谷乃百合(昭和町教会牧師)

はじめに:
 信仰共同体としての教会、教育の場としての家庭教育の大切さ、信仰共同体における主体的な学びの重要性をこれまで学んできました。最終回の今回は、教育と人間の成長というトピックを学びます。

I.成長とは
 私達が人として成長していくには欠かせないものが沢山あります。人間は様々な側面をもっています。身体的側面、知的側面、感情的側面、心理的側面、社会的側面、宗教的側面、数え出したらきりがありません。人は複雑な側面をその人らしさという人格で統合させます。

(遺伝的要素と環境的要素)
 人間の発達や成長を研究する人たちは、私達が親から受け継いでいる「遺伝的要素」、そして私達が外の世界から影響を受ける「環境的要素」、この二つの要素を人間の成長や発達を理解するうえで重要視します。遺伝的要素とは私達が生物学的に親から血を通して受け継いだ要素です。私達の内側からの働きかけで発達や成長は促されます。遺伝的要素は私達の肌の色、髪の
毛の質、顔立ち、体格などを決定します。顔がそっくりな親子、家族全員で同じ声色、全員が背の高い家族などを私達はよく見かけます。「瓜のつるに茄子はならぬ」、「蛙の子は蛙」などのことわざは人間の遺伝的要素の強さを指しているといえるでしょう。
 環境的要素は外界から私達に影響を与えて発達や成長を促します。行動主義心理学の立場では人間が物事を学ぶ重要な要因は「環境」だと説きます。この立場では「環境」が人をつくると考えます。「鳶(どんび)が鷹(たか)を産む」は生物学的には起こらないのですが、環境如何で鳶(とんび)は鷹(たか)のように振る舞うようになるのです。人をどんな環境に置くのかが成長、発達の要とこの立場では考えます。

(相互作用)
 遺伝的要素と環境的要素どちらが人間の成長、発達にとって重要かという論争がされます。しかし、現実的には人間が成長、発達していくためには遺伝的要素と環境的要素の両方が必要だということを否む人はいません。この二つの要素が複雑に絡み合いながら、相互的に作用して人は育っていきます。子どもの言語の発達は遺伝的要素と環境的要素の相互作用の良い例です。健康に生まれ適切な環境で育てられた子どもは1才頃から言葉を発するようになります。乳児は生まれ育った文化や社会の言葉を覚えて育ちます。もし双子で生まれた子ども達が何らかの事情で違う言葉を話す環境で別々に育ったとしたら、この双子は遺伝的には同じものを多く持っているのですが話し言葉は全く異なり、もし大人になって再会したとしても会話が成り立たないとうこともあり得るのです。
 人間が成長、発達するためには私達が持って生まれたものと、生まれた後に外から与えられるもの両者が大切だということは当たり前のこと過ぎると思われる方もいるでしょう。しかしこの基本をおさえることは大切です。なぜなら私達が子どもや生徒、もしくは他者や自分自身を理解する時には「遺伝」か「環境」かのどちらかに偏りがちだからです。神学的立場が違うと人間理解が異なり教育の指針に違いが出てきます。ここにも「遺伝」または「環境」どちらかへの偏りがあるのです。人と深く関わり、人を教え導く立場にいる者にとって、この偏りに気づくことは大切です。

II.教会教育の役割を担う人々
 人の成長において遺伝的要素、環境的要素、そして相互作用ということが大切であることを述べてきました。私達が存在している事実は遺伝的要因に由来していますが、人が成長していく過程において環境的要因が欠かせません。そして遺伝的要因と環境的要因が相互的に絡みあいながら人は成長していくのです。この前提のもと人が育ち成長するために不可欠である「教育」
を理解すると、教える行為である教育はまさに環境的要因です。「教える」ということは外側からの働きかけです。幼児期に善悪の判断を教えられていない者が大人になると権威に対する敬意や法の遵守ができません。子どもに善悪の判断を教えるには労力がいります。悪い事をしたら何度も何度も叱り、よい事をしたらその度に褒めるという働きかけを継続して大人が教え続
けなければ子どもは何が善で何が悪かを学びません。教えるという行為は外側からの継続的な働きかけなのです。
 「教育」において人が「育つ」部分は外側からの働きかけ(環境的要因)に育まれた遺伝的要素ということになります。「教育」という言葉に込められている意味は、“人は教えられて育つ ”“教える者は教えて育む”ということです。種が芽を出し、若葉となり、花を咲かすこのプロセスが育つということです。芽を出すための土の耕しや種植えと水まき、若葉や花と育つための十分な太陽光や養分のように、育む側(環境的要因)の働きかけに育まれる側の応答/反応があるのです。学ぶ力は遺伝的要素の影響を受けます。しかし学ぶ力は環境的要素とのマッチングが重要なのです。教育のプロセスにおいて環境的要因として信仰共同体である教会で役割りを担うのが親、家族、牧師、教会員、そしてCS教師などの教会で教える役割りを担っている者です。

III.三つの喩え(メタファー)
 次の三つの喩え(メタファー)を読んでください。神学的背景やそれぞれのもつ教育観や人間観は三つの喩え(メタファー)に反映されます。

 ● 学びをする生徒は花のつぼみで、教師はその花の手入れをする庭師
 ● 生徒はやわらかい粘土のかたまりで、教師はそのかたまりを形作る陶器士
 ● 生徒と教師は同じ旅をする仲間、教師は数歩先を行くガイド


 「教育」の理解が、遺伝的要素を重んじている立場の人たちは花の喩えに共感を覚えます。環境的要因を重んじる立場の人たちは粘土の喩えを、そして相互的立場の人たちは旅の喩えに共感をおぼえるはずです。どの喩え(メタファー)が正しいというわけではありません。それぞれが受けてきたしつけや教育、集っている教会の教えの傾向を私達は取り入れて教育のメタファーを作り上げています。どのメタファーを私たちが選んだとしても、教える立場にある者に共通して必要とされていると筆者が思うことが三つあります。

(1)自分の立ち位置を知る
 教える立場の人間が自分の立ち位置を知らずにいては無責任です。自分の持っている教育論の立ち位置を確認して欲しいと思います。教育において相手を知ることに時間やエネルギーを費やすのは当然ですが、それをする前に自分自身をよく知ることが必要です。そうでないと、手入れの仕方を知らずに花の世話をすることになります。目的にかなわない陶器を作り上げることになります。地図や方位磁石の使い方を知らずに旅に出る事になります。自分の教育に関する考え方をある程度客観視できていないと、考えている事と実際行なっている事が現場でちぐはぐになります。教育現場での混乱は往々にしてこのような問題から発生しているのです。例えば、日本の学校のカリキュラムは環境要因を重視する行動主義(粘土のメタファー)に深く影響を受けて構成されていますが、教員や保護者の多くはロマン主義的(花のメタファー)な子ども観や教師観、人間観を持っています。教会で行われる教育にもしばしばこのようなことが起こります。

(2)生徒の人間的成長の助けをする
 神が作られた人間は見事なまでに複雑な側面を持ち、そしてそれを統合して存在しています。心理学的なアプローチで人間の側面をおおまかに分類すると四つの側面があります。身体的側面、知的側面、情動(感情)的側面、社会的側面です。人間の霊性と深く関わっている人格はこれらすべての側面が複雑に絡みあって成り立っています。私達が日常でする事全てが私達の
霊性に影響します。聖書を読みその御言葉を行なう者になる為には、聖書を読む事はもちろん大切ですが、私達が持つ人間としての様々な側面がしっかりと育まれる必要があるのです。学校偏重(知識偏重)主義の問題は人間の持つ複雑性のうち知識側面ばかりの強調で、教育がバランスを崩していることにあります。勉強は苦手でもスポーツの得意な生徒は勉強ができる者と同じように褒められていいでしょう。スポーツが苦手でも公共心があって人助けができる者はスポーツができる者と同じように認められるべきでしょう。違った個性や特性を持つ者がお互いの違いを認め受け入れあうことは、物事への気づきの第一歩なのです。そして、この気づきが物事をクリティカルに考える能力へと発展していくのです。

(3)「霊性」を扱う大切な役割り
 どんな教育の現場でも人の人格を大切にし、人間が霊的存在であることを考慮しないのは不自然と筆者は考えますが、唯物論的な思想が当たり前となっている時代は人を霊的存在と認めない、目に見えないことを認めないという風潮があります。クリスチャンもクリティカルに物事を考えられないと知らず知らずのうちに唯物論に侵されているということがあります。信仰共同体である教会における教育では、神様が創られた一人一人の尊い命は肉体的存在であり霊的存在であり、それらの健やかな成長を促す役割りを教え導く者達が担っていることを今一度確認してほしいと思います。C. S.ルイスは人間が霊的部分も持つことを強調して人間は両生動物で半霊半獣と「悪魔の手紙」の中で表現しています。興味深い表現だと思います。教会で教える役割りを担っている者に与えられている具体的な役割りは、教会に集う子ども達が自分の意志と霊の目をもって信仰告白にたどりつくのを助け、信仰告白をしている子ども達には更なる人間性と霊性の成長・発達を促すことです。人間は霊的な存在ですから、私たちの人格全体が他者に影響を与えます。何を教えるかと同じくらい私達の存在のあり方が問われているのです。

まとめ:
 人間の霊性が健康に育つためには信仰共同体である教会が人間の成長・発達に積極的にかかわる必要があります。なぜならば私達が生きる時代はとても唯物的で、歴史にしっかりと根ざした信仰を教える場がとても少ないからです。教会は信仰共同体として信仰を継承というとても大切な役割りを担っています。自分達が信じている教理をよく知り、その歴史的背景を理解したうえで伝統を大切にし、それらを伝え教えるための努力をおしまない。このような環境の中で人は育っていく必要があるのではないでしょうか?また、教えるという行為はただ単にある容器から次の容器に移し替えることではありません。意志をもって神様に従うという信仰告白がなされるためには、自分で考えて自分で決定することが求められます。物事をクリティカルに考える力を教える者は育てる必要があります。物事をクリティカルに考えるということは、事実を事実として知るためにあらゆる角度からその事実を突き詰めることです。ですから、自分と理解や意見を異にする人の声に耳を傾けることもしますし、反対意見を自分からはっきりと表明する必要も時としてはあります。
 人間の成長は不思議の連続です。その不思議に教会で教える役割りを担っている者として、
私達は生徒の人間性と霊性を尊びつつ、しっかりとなすべき事に取り組みましょう。自分の立ち位置を確認すること然り、彼らの成長に関わること然り、自己吟味すること然り。私達の存在と行為が教会教育には欠かせません。

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