2021年春号・4月18日小中高科 ナザレン希望誌ウェブ版

目次に戻る    カリキュラム一覧に戻る

■説教者のためのテキスト研究
「恵みと力に満ちたステファノ」  使徒6:8−15
伝えるポイント:福音のゆえに追い詰められても、ステファノは神のみ心に沿って生き抜いた。

 ステファノという名は、ギリシャ語で「冠」を意味する。ステファノはまさに、初代教会の冠であった。彼は信仰と聖霊に満ち、恵みと知恵と力に溢れた人であった。また祈りによって、神に対し、また人に対して開かれている(オープンな)人物であった。彼は神から力を着せられて、人々の間ですばらしい不思議な業としるしを行っていた。
 しかし、どんなにキリスト者が誠実に愛に満ちて行動したとしても、神を受け入れない人がいる。受け入れないばかりか敵愾心を顕わにして襲い掛かってくる場合もある。罪の中にどっぷり浸かって享楽を味わうのに、キリスト者の存在が気に入らないからである。それが罪の世、闇の現実である。ここでも「解放された奴隷の会堂に属する人々」が反対してきた。彼らは人々を扇動し、偽りの証言をしてまでステファノを陥れようとした。

 7章はステファノの説教である。これは使徒言行録の中で一番長い説教である。彼は、外国で生まれギリシャ語を話すディアスポラ(離散ユダヤ人)だったと思われるが、旧約聖書の知識をしっかりと蓄えていた。そして信仰に生きていた。彼は旧約聖書を用いて、6章13-14節で偽りの証人たちから告発された内容に反論する。キリスト者は「聖なる所と律法とに逆ら」っているのではなく、また「モーセが伝えた慣例を」ぶち壊すのでもない。ここでステファノは、アブラハムから始まるイスラエルの歴史を詳しく物語ることによって、旧約聖書の救いの歴史は「イエスの福音の証言」であることを証しする。アブラハム、ヨセフ、モーセなどは、イエスを約束のメシヤとして証言しているのである。律法も神殿も、イエス・キリストにおいて完成した。イエスは律法を廃棄するためではなく、成就するために来られた。ステファノは、旧約聖書の歴史と使信を真の意味で受け継ぐのは、キリストとその教会であることを論証したのである。
 以前は私も、何でステファノはこのような説教をしたのか疑問であった。大祭司をはじめとする、祭司たちや律法学者、議員たちを前に、ステファノはなぜ、このようにわかりきったイスラエルの歴史を語るのか?ディアスポラのステファノより、彼らのほうが詳しいに決まっている。この箇所を読み解く鍵は、救済史的視点から説教を理解することだ。ステファノは6:12-14で訴えた者たちに対して、「旧約の救いの約束を真に受け継ぐ者は、キリストとその教会である」ということを、旧約聖書を用いて弁証しているのである。またこのような観点で旧約を論じてきた結果として、預言者迫害の咎を、また律法を守らなかった罪を、彼らが当然負わなければならないという結論に至ることは、避けて通ることはできない。彼らの逆鱗に触れて、ステファノの殉教は必至であった。

 議会の人々の怒りは頂点に達する。ステファノは「聖霊に満たされ」、神の栄光の御座と、神の右にいるイエスを見る。イエス以外の者がイエスを「人の子」と呼ぶのは、聖書中ここだけ。「耳をおおい」は、神を冒涜する言葉を聞いた時のユダヤ人の所作。同時にそれは、冷静に反駁することを放棄している姿勢でもある。正式な判決もなく、ローマ総督の許可も得ずにステファノは刑場へ引き立てられる。
 ステファノの殉教は、イエスの十字架に倣っている。彼が「主イエスよ」と祈ることは、十字架上で「父よ」と祈ったイエスに(ルカ23:46)、「この罪を彼らに負わせないでください」も、イエスの祈り(ルカ23:34)に、そして、イエスが父に祈った如くに(ルカ23:46)、ステファノもイエスに「霊をお受けください」と祈る。キリストを告白するとは、イエスの歩まれた道を「キリストに倣って」歩くことである。彼は証人(マルテュス=マーター=殉教者)としての道を走り通した。ステファノは眠りについた。冠は主のもとに凱旋した。

 最初の殉教者が、使徒ではなく、忠実な執事だったことも心に留めておきたい。ステファノは最初の殉教者として神から選ばれたのだ。

■中高科
「恵みと力に満ちたステファノ」  使徒6:8−15
伝えるポイント:福音のゆえに追い詰められても、ステファノは神のみ心に沿って生き抜いた。

準備
 ステファノの持つ素晴らしい品性の土台は、御霊の実(ガラテヤ5:22−23)にもあるように、聖霊に満たされることによってもたらされるものであることを学びたいと思います。

説教例
 先週は宣教の拡大と共に使徒の群れが整えられたという話しでした。色々な人が増えるにつれて、問題も起こる。色々な文化、価値観が違うものが集まれば、当然問題も起こってきます。だからこそ、様々な問題においても対処することができるように、聖霊と知恵に満ちたリーダーが選び立てられました。問題はありましたが、問題を通して教会がさらに整えられ、宣教の業が進められていったという話でした。
 今週はその中心的な人物であり、聖霊と知恵に満ちたリーダーであったステファノに注目したいと思います。ここで聖書がステパノの人柄について「聖霊と〇〇に満ちた」という表現が多く使われています。ステパノは聖霊に満たされていました。それがこの他のすべての特徴を決定付けるものです。ステパノは、どこかで聖霊の満たしをいただき、その経験を継続して生きていたのです。この点は、もう一度最後に触れます。
・知恵に満ちた人(3、10節):
ステパノは知恵に満たされていました。知恵に満たされているというのは多くの知識をもっているだけではなく、本質を見抜く力。この知恵とは神様からの知恵と言えるでしょう。聖霊に満たされていく時、本当に大切なものはなんであるかを悟る力が与えられていきます。
・信仰に満ちた人(5節):
彼の持っている信仰は、すべての疑いや迷いを吹き払うものでした。神のみ力を100%信頼する単純な信仰でした。それが彼の行動・言葉に影響を与えていました。
・恵みに満ちた人(8、15節、7章60節):
 恵みに満ちた人とは感謝であふれている人といえるでしょう。それは神様を認め、神様がいつも最善をなしてくださっていることを信じる時に、どのような状況であっても恵みを見出すことができます。
・力に満ちた人(8節):
ステパノの言葉には説得力がありました。聞く人の心を揺り動かす力を持っていました。彼自身の力ではなく、聖霊の与えた力です。また、病気の人を直す力がありました。これら全ての中心は聖霊に満たされることを通してもたらされるものであります。
 その彼の持つ信仰の性質は、まさに困難、試練の中を通されて練り上げられる品性と言えます。何も問題のない時は、穏やかないい人を演じることはできるかもしれません。しかし、試練の中でこそ、私たちの持っている信仰の本質が表されてくるのではないでしょうか?

■小学科
「恵みと力に満ちたステファノ」  使徒6:8−15
伝えるポイント:福音のゆえに追い詰められても、ステファノは神のみ心に沿って生き抜いた。

準備
 ステファノの殉教という悲しみの出来事が、教会の歴史にとって大きな転換点となっています。この出来事があたかも引き金のようになって、キリスト者に対する迫害がいよいよ激しくなるのです。しかしそれは、キリスト者にとっての敗北ではなく、宣教の拡がりに繋がる出来事でした。当然ステファノの殉教に よる死は、これを美化し、殉教崇拝へと導くための ものではありません。使徒言行録を記した記者にとって、キリストを神の子と信ずる者は真の神の民であり、 旧約聖書の信仰を正しく受け継いでいるという理解に立つのです。
 また、この記者の視点は常に「聖霊」にあります。ですから、ステファノという人物だけを称賛し、殉 教を通して教会の働きを進めていったヒーローとしてしまうのではなく、神の働きの下にステファノを置き、まったく人間の知恵や努力によらず、ただご自身 の目的のために教会の働きを進めたもう神の業として聖書は描いているのです。たとえ人間には敗北と しか思えない状況を通しても、「聖霊」が働かれるな らば、そこには神の祝福が用意されています。ステファノは「信仰と聖霊に満ちている人」 (6:5)であり、その「聖霊」の働きによる「恵みと力に満ち」 (6: 8) ていたが故に、殉教の死を遂げるまで神のみ旨に 生きたのでした。

説教例
 ある日、イエスさまは、弟子たちにこう言われまし た。「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追 い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言 者たちに同じことをしたのである。」(ルカ6:22-23) イエスさまの弟子たちは、とっても弱虫でした。イエスさまが十字架にかけられるときには、怖くて逃げ出してしまいました。けれども、イエスさまが十字架 で死なれて三日目に復活されたイースターの出来事 を通して、きっと、先ほどのイエスさまの言葉を思い出したのだと思います。弟子たちはイエスさまの 言葉を大胆に伝えました。イエスさまを信じる人が 次々とおこされて、ペトロたち十二弟子の下の弟子の中から、教会の世話をするために7名の人が選ば れます。その中の一人がステファノという人でした。 ステファノは、ずっと教会の世話をしていたわけではありません。神さまの聖霊に満たされていて、人々に神さまのお言葉を伝えました。すると、多くの人 は彼の語ることに歯が立たないので腹を立てます。また、旧約聖書に記されていた約束の救い主がイエスさまだったということが、ユダヤの人々には理解できません。イエスさまを十字架に磔にして殺してしまったことよりも、神殿を大切にしない方が大変なことだと言いだして、とうとうステファノを逮捕してしまいました。それでもステファノは暗い顔などしていませんでした。聖書によれば「裁判の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔は天使の顔のように見えた。」というのです。
 何を見つめて生きていくかによって、私たちの顔 も変わります。悲しいこと、くやしいこと、つらいことばかりを考えて生きていると、その顔は暗くなってしまうことでしょう。逮捕されたステファノが暗い顔ではなく、天使の顔のように見えたのは、「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき」も、イエスさまがおっしゃった通りに「私は幸せ」と心から信じることが出来たからでした。イエスさまの恵みは、私たちに揺るぐことのない平安と喜びを与えてくださるのです。

■小学科ワーク

2021 希望 春 ワーク-03

2021年春号小学科ワーク13週分のPDFダウンロードはこちらをクリック
(googleアカウントが必要です。)

御言葉カードはこちらをクリック
(googleアカウントが必要です。)

目次に戻る    カリキュラム一覧に戻る

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?