2021年冬号・ナザレンの講壇から ナザレン希望誌ウェブ版

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「信仰に生きる」   ローマ14:13ー 23
高橋憲司(今帰仁教会牧師)

 信仰に生きる、信仰を持って生きる、信仰者として生きる、それはどのようなことなのでしょうか。信仰歴の長い方にお伺いしても、よく分からない、と答えられるかもしれません。分かっていても言語化できない、人には説明しにくい事柄なのだろうと思います。信仰者にとっては、自分は本当に信仰に生きていると言えるのだろうか、と自問自答し続けているのかもしれません。そして、これがまだ信仰の確信を得られていない人にとっては、最大の疑問であり不可解な点なのだろうとも思います。まさにそのことが知りたい、信仰に生きるとはどういうことなのか、それを知ることができれば、自分も信仰を持つのか持たないのかその決断ができるのではないか、と思うでしょう。
 世の中には信仰を持っていなくても、正しい人、誠実な人はたくさんいます。
 多くの日本人は信仰に生きるとは、一生懸命良いことをして生きることだと思っているのではないでしょうか。実際に日本の多くの宗教はそのように教えています。一日一善、朝は積極的に機嫌よく挨拶をしましょうとか、ありがとうの心で接しましょうとか…。しかしこれらはあくまでも道徳であり、倫理観です。このように日本においては道徳と宗教の区別が曖昧で、宗教が道徳化しているのです。良心に従って生きることを励まし力づけるために神仏があり、自分たちの行いの先に神や仏があるのです。どの宗教も登り口が違うだけで、神様という山の頂上の到達点は同じだ、という人がいます。道徳観の行きつく先が神様だと考えているからだと思います。世の中で善い行いをして、徳を積んだ人だけが天国に行けて神様・仏様になると。死んだ後自分がそうなる、そうなりたいためにも善い行い、つまり徳を積む必要があると考えるのです。そう考えるから、神や仏を信じるのは幼稚で単純な人々のすることで、神など信じなくても良心に従って生きればよい、と思っているのです。
 しかし聖書の教える信仰は、単に「良いことをしよう」という道徳の教えではありません。勿論聖書には、良いことに励むよう勧めている箇所は沢山あります。
 しかし私たちが良いことをして生きるために神がいるのではありません。それは逆であって、神を信じるから良いことをするのです。信仰の目的ではなくて結果、実りです。ですからいかに道徳的な生活がなされていても、それが信仰に生きることにはなりません。信仰に生きるとは、良い行いをして生きることではなくて、神を信じて生きることのみのはずです。まず「良いことをして生きることが信仰だ」という世の中の常識からの脱却が必要なのです。もちろん信仰者が不道徳でいいという話ではありません。人から物をもらったら、「ありがとう」と言いなさい、と親に教えられます。それは道徳観であり処世術だと言えますし、それ自体は決して悪いことではありません。でもそれだけでは、単なる条件反射で、「どんなことにも感謝しなさい」というみ言葉にはつながらないのです。
 信仰に生きている、と思うからこそ、信仰者同士が衝突してしまうことがあります。価値観の違いや信仰理解などと言ってしまうと話が難しくなりますが、どちらの主張もわからなくもない、そんな案件です。程度の問題というか明らかに間違っていると白黒つけにくい問題も沢山あります。
 本日の箇所でパウロが問題にしているのも実はそういうことなのです。ローマの教会には信仰者の食べ物について、意見の対立がありました。市場で売られている肉を食べずに野菜だけを食べるべきだという人々と、何を食べてもよいのだという人々がいました。両者がお互いに相手を軽蔑したり裁いたりしていたのです。そういう現実を嘆きつつパウロが伝えたいのは、そんな些細なことで対立せずお互い認め合って仲良くしなさい、ということではありませんでした。パウロ自身は「何を食べてもよい」と考えていたようで、主イエスを信じる信仰においては、汚れているから食べてはならないものなどは何もない、とパウロは主張します。パウロは主イエスを信じる信仰に生きることは、食べてもよいとかいけないというところが基準ではない、ということを明確に訴えました。ユダヤ人たちは、律法という厳しい掟を今も守って生きています。当時ユダヤ人でキリスト者になった人たちの中には、信仰を持ってからも昔からの律法を守って生きることが必要だ、と考える人がいました。ペトロや多くの弟子たちもそうでした。パウロ自身もかつてはカリッカリのユダヤ教ファリサイ派でしたから、律法を厳格に守ることこそが信仰だと信じていました。しかし彼は復活の主との出会いによって180度変えられました。救いは律法を守ることによってではなくて、ただ主イエスの十字架による罪の赦しの恵みを信じることによって与えられるのだと。だからこそパウロは、キリストによる救いにあずかっている者にとって、これを食べたら汚れるなどというものは何一つない、と確信をもって語るのです。
 しかしパウロがここで語っている中心点はそこではありませんでした。むしろ、それを踏まえたうえでもう一歩進んで、自分と同じように何を食べてもよいという確信を持っている人々に対して警告を語っているのです。15節にこのようにあります。「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」。これは何を食べてもよいと思っている人たちへの警告です。何を食べてもよいという信仰に生きている人が、そのことによって兄弟の心を痛めることがあってはならない。食べてはいけないものがあると思っている人の前でそれを食べてみせるなどの行為によってその人の心を傷つけるのは、愛によって歩んでいるとは言えないというのです。食べてはいけないものがあると思っている人は、確かに信仰の確信に至っていない、「信仰の弱い人」かもしれません。しかし主イエスはその人をも、あなたと同じように愛してくださっている。同じ救いにいる人を傷つけることは、キリストのみ心を無にすることだ、とパウロは言っているのです。
 そのことをパウロは20節でこのように語っています。「食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります」。先程の15節では「食べ物のことで兄弟を滅ぼす」という言い方がなされていました。この「滅ぼす」は口語訳聖書では「苦しめる」と訳されていました。その方がわかりやすいかもしれません。

 昨年の春以降コロナの影響で社会全体、そして教会の様々な在り方が変わりました。集うべきか、集わざるべきか、交わるべきか、交わらざるべきか。教会学校や伝道集会をしてもいいものなのかどうか。かつての常識はことごとく覆され、何が正しいのか見失ってしまうことばかりでした。教会が出す結論は置かれている地域や集うメンバーによっても異なるでしょう。またこのことによって新しい発見や改革によって簡略化が進んだ部分もあるでしょう。何が正しいのかの正解は必ずしも一つではなく、いくつもパターンがあるかもしれません。ではその基準・判断はどこにあり誰が決めるのか。昨年に引き続いて、2021年も模索の一年になるでしょう。様々な意見があり、何が正しいのかわからない。でもそんな時だからこそ、み言葉に固く立ち、祈りあい、互いを認め合い、信仰に生きる一年でありたいと願います。こんな時だからこそ、主にあって我らは一つです。

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