2021年冬号・レストラン エパタ「木田愛信牧師の生涯②」 ナザレン希望誌ウェブ版

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*「エパタ」(εφφαθα)とは、マルコによる福音書7:34(口語訳 )に出てくる「開け」という意味です。

格調高い名通訳者
木田愛信牧師の生涯(2)
        坂井 修一(藤沢教会)
   <文中、敬称、敬語は敢えて用いないようにしました>

ナザレン教会との出会い
 若い愛信夫婦が小さな教会で苦闘している様子を見かねて、妻政子の姉秀子の夫(彼は御影の神学校で学び、その頃伝道隊に関係していた)が動いた。愛信をナザレン教会に紹介するというのだ。ナザレン教会側は喜田川廣である。折から米国ナザレン教会から世界の部会の監督を歴任したスミス夫妻が娘アリスと共に来日、京都本町の聖書学校で教えることになった。校長の喜田川廣がスミスの通訳を探していたところだったので、義兄から持ち込まれた話は、倉敷に後ろ髪をひかれる思いであったが、現実には愛信にとって渡りに舟だったのである。
 戦後、アリス・スミスは再び来日し、御茶ノ水の学生会館で英語を教えていた
 このとき喜田川は既に愛信を知っていた。兵庫県御影にあった伝道隊の神学校(沢村五郎校長・その後この神学校は塩屋に移った)に一週間に一度ソントンが柏原から講義に来ていて愛信も通訳として毎回同行していた。後に愛信のみは柏原へ帰らず、この神学校に泊まるようになった。ある日喜田川がこの神学校を訪れ、ソントンの授業を参観した。喜田川はかつて米国において愛信の父文治の説教を聞いてそれが入信のきっかけとなったことを思い起こしつつ、その息子の通訳ぶりを感慨深く見ていた。愛信の方は、子どものときどこかで会ったであろうが、覚えていようはずもない。
 日本ナザレン教団九十周年史によれば、喜田川廣は1910年1月25日、22歳の時ロスアンゼルスの近郊アップランドで木田文治の説教を聞きに行ったという。多少懐疑的ではあったが、これが本格的にキリスト教の説教に触れた最初と考えられている。
 こうして、万事が導かれるままに進み、愛信はナザレン教会に迎え入れられることになった。神のなさることは、まことに不思議である。絶妙なこの機会を捉え、義兄を用いて愛信をして思わぬ方向へ進路を変えさせたのであった。残された倉敷のヱホバの教会は解散することになったが、政子の父、義高丸が毎週土曜から日曜にかけて 片道40キロの道を通い、40年にわたって家庭集会を守り続けた。昭和10年には会堂が建築され香登教会から牧師を迎えることができた。(注:1976年発行香登教会80周年記念誌「聖徒のあしあと」から)
 1933年、京都に活動拠点を移した愛信は、聖書学校で通訳をする傍ら、とりあえず京都南伝道館に落ち着いた。そして程なく、伏見教会の牧師に任ぜられた。35年10月13日、愛信は自給部会を宣言した記念すべき年会においてJ・B・チャップマン監督より按手礼を受け、ナザレンの長老教職となった。当時京都は、本町に喜田川広、上京に諌山修身、五条に船越多吉、加えてエコール、ステープルと、ナザレンのそうそうたる指導者たちが活躍しており、愛信は期せずしてこれらの人々から親しく薫陶を受け、将来に向けて強い人脈が形成されることになったのである。
 愛信夫妻が幼い子ども3人を伴って遣わされた伏見教会は、京阪電車の沿線伏見区黒染にあって、愛信が初代牧師であった。民家(借家)をそのまま礼拝堂とし、10人あまりの人たちが集まっていた。その中には熱心な女性信徒が数人おり、その一人に九州で永く伝道された本末秋義牧師夫人がいた。愛信は牧会をしつつ本町の聖書学校を往復した。三女百合子(鳥谷部恒三夫人・茅ヶ崎在住)がこの地で与えられた。このときが経済的には生涯の中で最も厳しい時代であったと愛信自身は述懐しているが、妻、母親、牧師夫人である政子の苦労は並大抵ではなかったはずである。
   
ナザレンの東西分割・東部部会へ
 1936年(昭和11年)、米本部の意向によりナザレン教会は東西に二分し、喜田川廣を部長とする西部部会とW・エコール部長の東部部会が発足した。このとき愛信は東部部会の会計となり、三年牧した京都伏見教会を清水甲作に託して、エコール、諌山修身(書記)らと共に東京へ移った。この清水は38年に戦死し、西部部会葬が営まれ、その後教会は閉鎖された。東京で愛信は、部会の職務のほかに開拓中の世田谷区太子堂にある城西教会牧師に任じられたが、38年には後任の高橋武夫に譲り、諌山の後を継いで部会書記に就任した。東部部会の本部は、小石川区竹早町に設けられた。市電の通りから脇にそれた閑静な住宅地に瀟洒な洋館を借り受けて、エコール部長が住み、そこが愛信の新しい勤務地となった。愛信一家は、本部から歩いて通える距離に家を借り、世田谷太子堂から移転した。3教会から発足した東部部会は、短期間のうちに12を数えるまでに成長したが、世田谷(後の下北沢)教会のほかは経済的に極めて厳しい状態であった。そのような中でも、本部はエコールを通して多少の余裕があり、愛信の生活はこれに支えられていた。しかし愛信自身は、同労の牧師たちに対して心苦しく、このままでいいものか日夜悩み続けた。ある日、父文治にこのことを洩らすと、父の古い友人高田松太郎を通して、四谷ミッションという単立の教会が無牧で困っているので引き受けてほしいとの話が飛び込んできた。ナザレンには裏切りのような後ろめたさを抱きながらも、精神的な重荷からの解放をあえて選び、愛信はこれに応じて再び牧会の現場に遣わされることになった。愛信の長い生涯の中ではほんの一瞬ではあったが、ここで一旦ナザレンを離れた時期が存在するのである。この話を持ち込んだ高田は、父文治がアメリカにいたとき日本から呼び寄せられて、共にフレンド派の日系人教会の牧師をしていたので特に親しい間柄であった。愛信の移籍と前後して、日本の伝道をここまで指導してきたエコール夫妻が、最後の船便でアメリカに去っていった。1941年(昭和16年)、世は戦時一色に包まれ、この頃からキリスト教会は未曾有の激動と試練の場面を迎えるのである。
 この年の始めに、政府の宗教統制政策に従って日本ナザレン教団は東西両部会が再び一つとなり、日本自由メソジスト教団などと共に日本聖化基督教団を結成した。そしてわずか6ヵ月後にはプロテスタント全教団が大合同して、日本基督教団が設立されたのである。ナザレンの属していた日本聖化基督教団はその第8部となった。愛信はこの編成替えに際し、ナザレンの群に戻り、第8部の中で、教務院東京出張主事と企画部委員を担務した。愛信が牧していた単立の四谷の教会は、日本基督教団四谷仲町教会として第九部に位置づけされた。

蘭印(インドネシア)派遣
 戦況はますます泥沼化し、小都市にまで空襲が繰り返されるようになった1944年、日本基督教団は城戸八郎牧師を、日本軍政下にあるキリスト教会の調査のために蘭印(オランダ領インドシナ)へ派遣した。蘭印はオランダ系プロテスタントが主流をなし、ほかにカトリック、救世軍、聖公会、ペンテコスタル、メソジストなど各教派が教会を形成していた。しかし、日本軍の占領により、彼らの処遇は一変する。日本内地でそうであったように、教会は常に軍の厳しい管理の下におかれた。理由もなしに牧師を連行拘束することは日常茶飯事であった。城戸牧師の危機的な報告を受け、この年の8月、教団は日本軍占領下の南方各地の支援のため牧師を派遣することを決議した。そして蘭印向けには数ある牧師の中から愛信が選ばれた。これには、当時すでに教団中枢部で活躍していたかつてのソントン聖書塾の同期生、藤田昌直の強い推薦があったと言う。藤田は愛信に帰国後「実は現地でもしものことがあったら、君の奥さんに顔向けできないと、あのとき深刻に悩んだ」と直接打ち明けた。愛信自身も悩んだ。ただでさえ過酷な状況の中、家族を省みず一人日本を離れていいものか。しかし現地には助けを必要とする同信の兄弟たちが待っている。彼は祈った。折から父文治は、ホーリネス教会弾圧のゆえに巣鴨の刑務所に投獄されている。同じ境遇の彼らを見捨ててはならない。神の声に愛信は決断した。こうして彼は断腸の思いで家族を残し、南方派遣牧師として単身蘭印(現インドネシア)セレベス(現スラウェジ)島ウジュンパンダン(現マカッサル)に赴任した。船は危険というので、小さな粗末な民間の飛行機を使い、台北、マニラと給油しながらの緊張の旅であった。ウジュンパンダンはセレベス最大の都市で、そこに民政府があって、軍関係以外の行政を行っていた。とは言いながらそのトップは海軍将校で、主たる部門は海軍の士官が握っていた。民政府の下に民生部がありこれが地方行政、いわば県庁の機能を持っていたが、そこに後に日本銀行第25代の総裁になる澄田智(2008年没)が若い士官で渉外課長を務めていた。彼は東大の銀時計組でフランス語が堪能であった。愛信たち宗教要員はこの澄田課長の管轄下にあった。
 愛信は着任後直ちに、セレベス島キリスト教協議会副会長に就任、島内のまとめ役を担った。会長は瀬谷と言い、永く秋田県横手で伝道していた牧師である。この協議会にはカトリックを含むすべてのキリスト教が参加していた。教会の数も信徒数も予想以上に多く、戦前から根を下ろしていた牧師たちは共に多士済々であった。カトリックでは広島から来たという司教と若い神父もいたし、アライアンスの大きな教会の牧師もいた。20人ほどの日本人牧師は、定期的に牧師会、さらに練成会と称して相互研鑽と親睦の行事を行った。期せずして愛信は、ここで超教派の幅広い交わりを経験することができたのであった。

現地語と格闘
 ところで、問題は言葉である。現地語はマレー語だが(今日のインドネシア語はマレー語を母体にしている)、愛信にとってそれまでマレー語のマの字も聞いたことがない。しかし仕事柄、言葉が通じなければ自分は何の役にも立たない。こう思ってまず「マレー語四週間」などマレー語学習の本を何冊か手に入れた。何よりも助かったのは、文字がアラビア語やタイ語などのように特殊でなく、すべて英語のアルファベット文字であることであった。しかも、読み方も例外を除いていわゆる“ローマ字読み”なのでそのまま口に出せる。当時日本では、マレー語に関する参考書「日マ辞書」もすでにいくつか出版されていた。しかしゆっくり勉強してから出発というのは許されず、不安なまま彼は現地へ赴いた。着任してみるとその日から多忙を極めたため、当初考えていたマレー語教師について本格的に会話を習うなど、まったく不可能であった。宿舎にはボーイとメイドが一人ずつ付いて、身の回りの世話をしてくれた。このメイドが、言葉の習得にたいへん役立ったのである。その辺にあるものを片っ端から「アパ イニ?」(これは何?)と聞くので、その後数ヶ月経って、まがりなににも少し話せるようになったころ、「トゥワン(あなた)は最初のうちは毎日アパイニ、アパイニって言っていましたね」と笑われた。あるとき現地の牧師が、マレー語の新約聖書をくれた。しかしこれはマレー語ではあるものの、スペルが一部オランダ語の影響を受けたものがあり、初心者には非常に読みにくかったが、愛信は語学の勉強も兼ねてむさぼるようにこれを読んだ。ありがたいことに、聖書だから内容はわかっている。いったんこのオランダ流を飲み込めば、読破するのにそれほどの時間を要しなかった。この聖書を読み終えたころには、マレー語で祈れるようになり、やがて説教も現地牧師に原稿をチェックしてもらいながらマレー語になっていった。      
 ところでこの派遣の表向きの理由は何だったのだろうか。愛信は海軍省委嘱の軍属(奏任待遇・民間人として軍務に従事)の身分を与えられていた。つまり公式には原住民の宣撫が任務であった。キリスト教会にはキリスト教の牧師を当てて住民を宥め、日本軍の占領を円滑ならしめる、その一翼を担ったわけある。と言っても直接“八紘一宇”の思想を強制するような説得は逆効果である。一方で厳しい言論統制を進めながら、他方で物質的な優遇を与える鞭と飴の政策であった。愛信らの仕事はこの飴のほうが主で、これが軍の宣撫工作に用いられた。一例をあげれば、教会はクリスマスのお祝いを盛大にやりたい。ケーキやクッキーを作るについて砂糖が必要である(日ごろはわずかな配給しかない)。といった場合、キリスト教協議会は愛信を通して民政部へ特別配給の申請をする。すると物資倉庫からまとまった量の砂糖が放出され市内の大きな教会へ運ばれる。そこへ各教派の教会員たちが集まり分配する。牧師も信徒も日本軍の恩恵に直接あずかるということになる。こうして日本への反抗心は薄らぐ。
 後日の回想によれば、愛信の心境は複雑であった。たとえ表向きは軍の手先であっても、自分は福音の使者である。そこで多忙な職務の合い間に、できるだけ多くの貧しい教会を訪ね、神の愛を語り、涙を流して共に祈る機会を作るよう努力したという。欧米の宣教師たちが命をかけて福音の種を蒔いたところへ、戦争に巻き込まれたために非キリスト教国の日本軍が土足で入ってきた。愛信はその現実を目の当たりにして心を痛めていたのである。

現地招集、にわか兵士に
 こうしているうちに、愛信の二つの顔を駆使した熱帯の生活は一年が経過した。そこに突如召集令状が届く。現地召集乙種(体力、健康状態などにより、甲、乙、丙に分類)教育隊所属であった。終戦のわずか1ヶ月ほど前である。昨日まで牧師先生と一目置かれていた自分が、今日から軍人だという実感がなかなかわかない。しかし、心の切り替えもままならぬまま、愛信は大都市ウジュンパンダンから車で3時間ほどの所へ移動させられた。そこは荒涼たる原野で何も育たないので、現地人が「気違い土地」と呼ぶところであった。行ってみると竹とニッパヤシの葉で建てたたくさんの宿舎が並んでいた。そこで愛信らは日々軍事訓練に明け暮れた。敗退したオランダ軍から奪ったいわゆる捕獲銃という小銃で射撃訓練が行われたのだが、これが意外に重く、牧師しかやってこなかった愛信の体力には過酷であった。身を伏せての射撃では、重い銃口が上を向かない。すると「木田!お前の銃は上を向いておらんぞ!」と怒鳴られる。敵が夜襲をかけてきたという想定の夜間演習では、闇の中を草をかき分け進むのだが、お互いの合図の方法がわからない。しかしほかの兵はうまくやっている。後で聞くとタバコの火を振っていたという。これは愛信には無理だ。一事が万事、とにかくすべて初体験のつらい日が続いた。「これはとてもかなわん」愛信の悲鳴が聞こえたのか、8月15日、思いがけなく戦争の幕が下りた。

通訳の賜物が役立つ
 戦いが終わるや、まず英印軍(インド人で構成されたイギリス軍)が進駐してきた。その後豪州(オーストラリア)軍に交代する。彼らは日本軍が総司令部として使っていた建物を接収して業務を始めた。程なく愛信のもとへ民政部の澄田渉外課長から通訳依頼の要請がもたらされた。豪州軍は英語である。愛信が、英語通訳ができるということを澄田は人づてに聞いていたのだろう。これを受けて愛信は竹とニッパヤシの宿舎を後にしてウジュンパンダンへ戻った。そして澄田を訪ね、彼の仕事内容の説明を受けた。戦争終結の事務処理、進駐軍との意思疎通など、渉外課長の任務は多くかつ重い。澄田とて堪能なフランス語のほかに英語が話せないはずはない。しかし澄田は愛信にこう言った。「このような折衝では、どんな些細なことでも間違えて聞き取り、間違って口にしたら、取り返しのつかないことになりかねない。すまんが木田さん、通訳はすべて引き受けてくれよ」。愛信は澄田に協力する腹を固めた。澄田はそのとき少佐であった。日本の民政府側も、残務整理のため各部門の担当者が残って連絡所を設けたので、職員の共同の宿舎ができ、愛信もそこに住んだ。
 セレベス全島には軍人、軍属および商社などの民間人が3万人いたが、かつて愛信らが軍事教練をしていたあの竹とニッパヤシの宿舎にすべて集結させられた。彼らはここで日本への引き揚げのときを待ったのである。日本軍が各拠点に備蓄した食糧は莫大なもので、これだけ大勢でも食べることには不自由しなかった。また愛信らのいたセレベス島は、空襲こそ毎日であったが、地上の戦場にはならなかったので、ほかの南方各地よりは悲惨な状況を経験せずに済んだ。比較的恵まれていたといってよいだろう。やがて日本人たちは次々に引き揚げて行ったが、愛信は約1年間セレベス島に留まった。
 昭和21年6月、ほぼ2年ぶりで愛信は日本の土を踏んだ。リバティー船と呼ばれる船で和歌山県の田辺港へ着くと、妻政子からのはがきが待っていた。愛信の帰国が、どのようにして家族に知らされたのか今は知る由もないが、上陸した愛信の手に確かに妻の筆跡を見た驚きは、なんとも信じがたいものであった。
 2年前愛信が残した四谷の教会は、空襲で焼失し、政子と子どもたちは、政子の故郷岡山県香登の実家を頼って疎開、そこで吉井川の大氾濫に遭遇する。さらに倉敷付近のかつての信徒の家々に世話になるなど、家族の苦難が続いた。そこへ愛信が帰ってきたのである。
 このような戦時下の派遣事業は、キリスト教内外の歴史において、ほとんど語られないまま消失してしまうように見受けられる。愛信の証言は誠に貴重なものと言わざるをえない。

日本ナザレン教団の再興
 1947年6月、戦時中合同していた日本基督教団から離脱、日本ナザレン教団が再興された。この直後愛信の家族は群馬県太田市に住むことになった。愛信一家と共に、学園教会牧師を隠退した父文治夫妻、妹枝子と篤信親子が一緒であった。愛信はそこで米軍チャプレンの通訳をして生活費を得ていた。しかし、内にあるナザレンの血は抑えようもなく、この年日本基督教団正教師を正式に辞任して、太田ナザレン教会の開設に取りかかった。ところが1年が過ぎる頃、教団書記に任命され、太田から東京へ通勤しなければならなくなった。当然米軍チャプレン通訳は辞めたが、しばらくすると月曜から金曜まで東京に滞在し、週末に帰ってくるという激務になっていった。この間、早天祈祷会と水曜日の祈祷会は父文治が勤めた。ときには、聖日礼拝も文治が説教した。1951年3月、愛信は教団書記専任となるために、太田教会を辞して東京へ移り、世田谷区奥沢に家を借りて落ち着くことになった。太田には4年間住んだことになる。後任は上田徳太郎であった。
 翌年、神学校が東京都世田谷区尾山台に開校すると教団本部もそこへ移転した。愛信は当初から神学校に教授として関わり、米人教師たちの通訳に当たるとともに、マニュアルと新約概論を教えた。彼の働きは、教団も神学校もともに再来日したW・A・エコールの下にあった。エコールは戦後の教団及び全国の教会の復興、さらに新しい教会設立に驚異的な指導力を発揮した。夫人F.エコールはそのさなかに天に召され、横浜山手の外人墓地に葬られた。現在の尾山台教会の会堂はフローレンス エコールの記念会堂である。
 このエコールを中心に活躍していたさなか、1955年に愛信の父文治が波乱万丈の生涯を終えて、88歳で天上の人となった。尾山台教会の諌山修身牧師により手厚く葬儀が行われ、150人以上の参列者が神学校の講堂を埋め尽くした。
 愛信は1959年に諌山の後を継いで尾山台教会の牧師になった。これはわずか2年間であったが、ナザレン教会としては中堅どころの教会を委ねられたわけである。これまでいくつかの教会の牧師をしてきたが、いずれも開拓の厳しいものばかりであった。50代半ばの脂の乗り切った働き盛りの愛信にとって、この期間は存分に活躍できる場であった。
 就任間もない5月に、大阪フェスティバルホールにおいて大阪クリスチャンクルーセードが開催された。これはワールドビジョン総裁ボブ・ビアスによる20日間にわたる大伝道集会であった。愛信はこのビアスの通訳を、期間中たった一人で務めた。3千人を収容する大ホールは京都市シンフォニーオーケストラや500人の聖歌隊に加え、満席の聴衆。その中で熱気みなぎった講師ボブ・ビアスの説教を通訳するのは、愛信にとって極めて肉体的には負担であった。しかしビアスとの呼吸は抜群で、聴衆を魅了するに足るものであった。この大会後大阪女学院の集会でもビアスは愛信を手放そうとはしなかった。この世紀の大会に何故通訳として名指しされたか。愛信自身の回想からの推測によれば、かつて派遣先のインドネシアで終戦を迎えた際、戦後処理に当たっていた旧日本軍民生部長の通訳をつとめたため、愛信は帰国が遅れた。派遣元の日本基督教団で木田の未帰還の理由が話題となって、それが通訳の任務のためとわかり、この機会にその特技を生かそうと誰かが愛信をこの大会の通訳に推薦したというものである。
 戦後最初のこの大阪の大会が、その後各地で盛んに行われるようになったスタンレー・ジョーンズ、ビリーグラハムらの大規模伝道集会の先鞭となった。当然これらの集会にも愛信は頻繁に奉仕を依頼された。

牧師から教育の場へ
 戦後の教団再興時から13年間、混沌とした時代をW.A.エコールが総理(現在は理事長)として教団を強力に指導してきたが、1961年(昭和36年)年会において、愛信が総理の任を受け継ぐことになった。これは日本の伝道が日本人の手に委ねられたという歴史上の重要な節目となった。世界のナザレン教会組織から言えば、まだしばらくは宣教部会に位置付けされるものの、日本部会の意識は大きく変えられたに違いない。これを機に愛信は、尾山台教会の牧師を大江信に託し、折から千葉の聖書農学園内に移転した神学校の教授をも兼務することになる。千葉の神学校では、マニュアルのほかにナザレン教会史を教えた。
 1964年には、聖書農学園から分離して日本基督教短期大学(JCJC)が開設され、愛信は教団総理としてこの大学の理事に就任した。この年の5月、米国パサデナ大学より名誉神学博士号(D.D.)を授与された。これまでの数々の実績に対し、W.A. エコールが推薦したと伝えられている
 この頃JCJCは、校舎と共に、学長住居、宣教師館、職員住宅、学生寮などを次々に整備していた。これに伴って愛信の家族は、東京の奥沢から若松町に建てられた職員住宅に転居した。この住宅は3軒で、瀬尾要造、上松武の両牧師が隣同士であった。以後愛信の生活は次第にJCJCに没入していくことになる。
 大学における職務量としては通訳が最も多く、次いで管理業務で、実際に学生に教える時間は少なかった。中でも神学科長W.ワインクープの通訳には精力を注いだ。夫君は温厚な牧会者であるが、夫人のW.ワインクープは典型的な学者であった。従って講義の内容は難解な部分が多い。
しかし彼女は日本語には全く無縁。さすがの愛信でも学生にどう正確に伝えるか苦労の連続であった。ほかにエコール、デビス、マッケイ他米国人は12.3人いたが、彼らに対しては英語に堪能な若手の教員たちが通訳を分担した。
 JCJCにおける愛信の職務は、次のとおりである。

1966~1971 図書館長 
1968 英文科専任講師  
1971 助教授
1974~1980 教務課長・図書館長
1978 英文科教授
1979~1983 学生課長
1983~1984 英文科長

 1984年、日本基督教短期大学のすべての役職を辞するにあたって、大学は30年間の功績に対し、愛信に名誉教授の称号を授与した。のちに愛信は振り返りつつこのように述懐している。JCJCに時代は、伝道者として献身した自分にとって想定外の展開であったが、大変有意義な経験となった。特に学生課長のとき、経済界に全く縁のない者が学生の就職の面倒をみるというあの困惑が忘れられない。
 一方、愛信は同時代をJCJCに並行して、教団の立場で重要な役割を担っていた。1966年には、5年務めた総理を船越多吉に託して諮詢委員(現在は理事)に就任した。1968年W.ワインクープの後任として神学校校長を引き受けることになった。こうして目まぐるしい日々を送っていた愛信に、思ってもいなかったことが起こった。藤沢教会の初代牧師に任命されたのである。この人事は、教会立ち上げのメンバーの一人であった愛信の三女鳥谷部百合子の縁でという見方もあったが、教団としては別の理由、すなわち神学校新卒の宮城常行を藤沢の牧師に任命するにあたり、生まれたての教会の教会形成の指導と、生まれたての牧師の後見人に、校長の愛信が最適と判断したものと思われる。愛信は月一回土曜日に千葉から藤沢へ移動し、夜の役員会を済ませると茅ケ崎の鳥谷部宅に泊まり、翌朝主日礼拝を終えて千葉へ帰る、このパターンを2年間続けていた。一方宮城は定住牧師として牧師館に住み、沖縄北谷教会へ転任するまで4年間、智津子夫人と共に牧会と伝道に力を注いだ。
 この藤沢時代に神学校が千葉から目黒の教団本部に移転したが、愛信は引き続いて校長の任に当たった。そして1975年に教団諮詢委員任期満了、神学校校長を瀬尾要造に譲り、一切の教団の実務を退くことになった。71歳になっていた。その頃は70歳定年が慣行で、愛信の名は隠退教職欄に移された。隠退後もしばらくはJCJCに関わっていたが、1984年に英文科長、学生課長などの職を辞し、長い現役の生活から解放された。

穏やかに余生を茅ケ崎で
 この年に愛信夫妻は、三女百合子の家族と共に湘南の茅ケ崎で暮らすことになった。娘百合子はもちろんのこと、その夫鳥谷部恒三の日常における献身的な愛の数々は、戦いを戦い終えたキリストの戦士の心身にどれだけの報いと慰めになったことか。成長した孫たちと談笑する至福の時。湘南の穏やかな気候。自転車に乗っているおじいさんを見かけたという近所のうわさ。このような平和な余生の日常を、父なる神の慈しみに満ちたご褒美と思いたい。夫人政子ももちろんこの輪の中で愛信と共に日々を送っていたが、ある日家で骨折したこともあって、その不自由な生活の介護のために川越にあるキングスガーデン埼玉に入所したが、1994年7月に茅ケ崎へ帰ることもかなわず、ここから天に召された。87歳であった。同所はキリスト教の精神に基づいて設立された特別養護老人ホームで、愛信は聖書のお話をするために週一回ここ通っていた。
 藤沢教会にとって愛信と共に礼拝を守ることは、ひじょうな喜びであった。いつも独特のはにかんだ微笑みを絶えさない先生、初代牧師だったなど絶対口に出さない先生。
 掃除の日だと言えば、さっと上着を脱いで参加しようとする先生。玄関までの外階段をパイプ椅子に載せられて上り下りするとき、嬉しそうに周囲に手を振る先生。誰もの脳裏に焼き付いている記憶である。
 故樋口茂牧師(1999年1年間、教団主事を務めながら藤沢教会の牧師を兼務していた)は藤沢教会40周年記念誌にこう寄せている。「私は45年ぶりで木田先生の前で説教することになりました。先生はその頃とてもお元気で、講壇から私が何か強調して申し上げると、アーメンと答えていただいたことが何度もありました。(途中略)確か木田先生は講壇から見て前から2列目の右端に座っておられ、慈顔をもって私を見つめていただいていました」
 亡くなる年の5月、教会では愛信数え年99歳に当たって「白寿の祝い」を開いた。足腰の衰えはあるものの、カクシャクとしており、誰もが百歳の愛信を目に浮かべていた。11月16日のキリスト新聞4面には3段抜きの愛信の大きな顔写真が載り、その周辺を「謙遜を貫いた高潔な生涯」「格調高い名通訳者」「ナザレン教団復興に尽力」といった文字が囲んで読者の目を引いた。坂井の寄稿文の見出しと副見出しである。「木田愛信先生を送る」と題したその本文を坂井はこう結んだ。「2002年8月の礼拝で、先生は驚くほどつやのある大声で、整然としたお祈りをなさった。34周年の教会創立記念礼拝(9月第一主日)を見届けるかのように、この日から急速に体力が弱まり、同月24日14時ご家族に見守られつつ安らかに天に召されて行かれた。98歳6か月であった。」
 葬儀は藤沢牧師永野健一司式の下、盛大に行われた。座席80人程度の会堂内とテレビ画面設置の駐車場共に過密状態であったが、神の忠実な僕として生き抜いてきた木田愛信を送るにふさわしいものであった。遺骨は木田家の墓所青山墓地に収められた。藤沢教会の会堂には、愛信政子夫妻のにこやかな写真が今も掛けられている。

あとがき
 本文の大部分は、1998年ごろ茅ケ崎の坂井宅で、8回にわたり行った木田先生との対談カセットテープを起稿したものです。ほかに教団90年史、藤沢教会10,40,50周年記念誌、他いくつかの教会の記念誌などから些細な情報も含めて転用、さらに日本基督教短期大学40周年記念誌、ナザレン新報2002年11月号樋口茂先生の追悼文、関係者個人の記憶などを確認の材料としました。また、希望誌2003年冬号から2004年冬号まで5回連載の愛信先生の父「木田文治牧先生の生涯(坂井・編)」から一部重複記載をしています。まだまだ多くのエピソードもあると思われますが、このへんが編者の限界です。文中年代や場所などの誤謬、あるいは編者の過剰な思い込みについてはご容赦ください。なお、ここに欠けている資料や話題がありましたらご提供ください。補填追加して完成度を高めておきたいと願っています。この希望誌の前身「教会学校教案 1959年1,2月号」に木田先生がご自身のアメリカにおける子ども時代が「日曜学校の思い出」と題して掲載されています。
 編者坂井は、十代の終わりのころから亡くなる直前のお見舞い参上の日まで、様々な場面で木田先生と親しくお交わりをいただきました。ここに「私ごときものが」(これは木田先生の常套語)この拙文をまとめる機会を与えられたことに心から感謝する次第です。

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