2020年秋号・11月8日成人科 ナザレン希望誌ウェブ版

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賜物に従って自分を献げる       ローマ 12:1-8

 私たちの中に信仰が根付くと、生き方が変わっていくのが自然だと考えます。真の信仰は生活を180度変えてしまうほどのエネルギーを秘めています。
 実際生活がどのように変わっていくのでしょうか。自分中心の生き方から神を主軸に置いた考え方に変わっていきます。言い方を替えれば、神のための、或いは神を証しするための生活設計が始まっていくのです。
 パウロはそのことを次のように記します。「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(1節)ここに言う「礼拝」とは日曜日ごとに行われるものを意味しているのではなく、神をあがめるということです。私たちのこの体で神をあがめ、神を証しする、そうするためにこそ私たちは信仰に導かれ、聖霊の満たしを受けているのです。
 自分の体を使って(神に献げるために)具体的に何ができるのでしょうか。私たちには普段の生活しかありません。普段の生活は信仰があってもなくても何ら変わるところはありません。しかし、神を主軸とする生活は普段の生活に大きな意味をもってきます。普段の生活の中で神のために何ができるかをどこかで考え、生活の隅々まで信仰によって変えられていくからです。
この普段の生活の中でも特に自分の得意とするところ、これは人の前でも披歴でき自慢とすることもあったはずです。これが信仰的な表現をすると、神から与えられた賜物というものです。これまでの生活の中で賜物は唯一自分の自慢の種になっていたはずです。しかし、賜物は特別な人にだけ与えられるものではなく、すべての人に必ず一つや二つは与えられているものです。
この賜物を自分の中に探し求め、発見し、その賜物に気づくこと、他人によって気づかされることも、神をあがめ礼拝するための第一歩となるのかもしれません。
 その賜物を信仰によって持ち寄り、信仰者がお互いに共有するところが信仰共同体としての教会であることをパウロは3節以下で明確に語っています。しかも自分が持っている信仰以上に賜物を出し切ることはできません。信仰によって現在持っている賜物を用いることができればそれでよいのです。それが私たちの本来なすべき礼拝です。またこの教会生活こそが私たちの生活の中心をなすものとなっていくことでしょう。
 この賜物と教会組織については、1コリント12章でも詳しく展開しています。参考にするとよいでしょう。

【設問】
1.私たちが本来なすべき礼拝とは何ですか。
2.あなたが神のために用いることのできる賜物は何ですか。

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