2020年夏号・成人科9月27日 ナザレン希望誌ウェブ(テスト)版

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御子の福音を恥としない ローマ 1:1-17

◯はじめに
 パウロはユダヤ教の熱心な家庭で生まれ、ベニヤミン族出身の、純粋なユダヤ教徒だったのです。キリストに出会うまでは、それが誇りであり、自らも当時最高の学府とされたガマリエルの門下生として律法を学び、厳格なパリサイ人として、律法に仕えていたのです。彼は当時、台頭してきたキリストの教えを受け入れることができなくて、教会を迫害して、先祖伝来の神様に熱心に仕えていたのです。しかし、そんなパウロに、迫害を急ぐダマスコ途上で、天からの光を受けて、キリストの招きの声を聞き、キリストの救いにあずかったのです。この出来事がパウロの信仰生活の土台となっているのです。
1、負い目のある者
 パウロの履歴を見た時に、それはユダヤ教的には完全無欠な肩書きであり、人間的に見れば羨(うらや)むほどの優れた家柄と経歴があったのです。けれどもパウロはそれをまるで糞土のごとく掃き捨てたのです。なぜならキリストを知った事によって、それらが自分の人生にとって損でしかないことを悟ったからです。ユダヤ教の世界ではあっても、空しく消えて行く誉れと利益を、人生の目的であるように思い、誇るべきものでないものを誇っていたことに気がついたのです。けれども十字架に架かり、全ての罪と呪いを贖ってくださったイエス様を知った時、そこに永遠的なよろこびと、感謝がわき上がって来たのです。今までの教会を迫害するほどの宗教的熱心さは、結局、自分の生き方を正当化するための自己義と、仲間から賞賛される優越感から来る自己満足でしか過ぎないことに気付いたのです。自分の目的のためになら他人の権利も、利益も平気ではく奪出来る、自分の中にある冷血な罪を実感したのです。けれどもそんな自分のために、キリストは血を流し、贖い赦してくださっていることをも知ったのです。パウロはイエス・キリストによって贖われていることを知った人はみな、この事実を伝える責任があると感じたのです。なぜなら、キリストはすでに、すべての人を贖い、赦し、癒されているからです。それゆえ「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」(ローマ1:14新改訳)と語ったのです。
2、福音を恥としません
 「わたしは福音を恥としない」との、パウロの言葉には福音の絶大さが表現されており、パウロの宣教に対する情熱を彷彿 (ほうふつ)させています(編注:彷彿させる=はっきりと思い出す、の意)。キリストに出会う前、彼はキリストの教えを愚かだと考えていたのです。それは伝統的な教えからは外れた異端であり、神に呪われたものであると感じたからです。またキリストの教えに従う者は、多くは無学で教養が無い漁師や貧しい女、子供であると見ていたのです。キリストの弟子達の中に、身分の低い者や、人々から卑しめられていた、もと徴税人や重い皮膚病の人たちがいたからです。そして彼らの主は、自らを神としたと言われて、反逆罪で十字架に架けられ殺されたイエス・キリストだったのです。そんな教えをパウロは、ゆるすことができずに、異端者とし、教会を攻撃し、クリスチャンを迫害する運動の活動家だったのです。そんなパウロが福音に出会ったのです。
 教会を迫害するためにダマスコに行く途中、天からの激しい光に打たれ、倒れてしまったのです。パウロはその時、キリストの声に触れて、自分が迫害しているのはキリスト御自身であることを知らされました。彼の霊的な目が開かれ、キリストが救い主である事を証しする者へと変えられていきました。十字架に架けられる者は呪われた者と、世間では言われていても、キリストが十字架で死なれたからこそ、私たちに救いが成就したのです。この十字架こそ恥ずべき物では無く、「信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(16節)と高らかに宣言しています。

設 問 パウロはなぜ、恥だという言葉を用いて福音を表現したのでしょうか。

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