2021年冬号・2月7日成人科 ナザレン希望誌ウェブ版

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ヨハネ7章10~24節 神から出た教えに聞く

 「教えを聞く」という題を与えられています。しかしイエスはこの題に示されている「聞く」ことを踏まえて、み言葉を聞いた者たちが「み言葉を生きる」ことの大切さを7章は伝えているのです。そのことに目を向けて本日の個所を読んでまいります。
 7章には仮庵の祭りのことが書かれていますが、モーセを代表として出エジプトしたヘブライの民が荒野を放浪したとき、神が守ってくださったことを記念して行われる大切な祭り (聖会)です。祭りに参加した人たちは祭りの間中、放浪した民を神が守り、導き、どれほど愛してくださったかを感謝の内に聞き続け、神を賛美し続けるときであったと思われます。ある意味「信仰三昧の時」であったでしょう。
 その祭りに途中から参加していたイエスは「盛大に祝われる祭りの終わり日」に語り始めました。「祭りの終わりの日」と書かれたことに意味を感じます。この日「イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい』」(37節参照)という言葉です。「終わりの日」とは、先ほども書きましたが信仰三昧の時から離れて、それぞれが日常の生活の場へ戻る日のことです。この日にイエスが大声で話されたことは「聖霊」に関することでした。
 この聖霊は、出エジプトした民への神の恵みについて聞いた祭りの参加者たちにとって、聞いた言葉が生きる力と道を与えるものであることを、イエスは語ったのです。
 これは、神からの教えは聞くだけではなく生活の場で生きていくことが必要である、というメッセージそのものなのです。だからこそ祭りの終わりの日、すなわち生活の場に戻って行く日にイエスは声を大きくして語っておられるのです。それは生活の場にあって、聖霊の助けによって生きていくことが必要だとご存知だったからです。
 「生活の場」というのは人間関係の中で生きるということです。パウロはガラテヤ書5章で、「霊(聖霊のこと=筆者)の結ぶ実は「愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制」だと書きました(22、23節参照)。これらの実はすべて人間関係に関わるものです。ですから、祭りの場から生活の場に戻ることによって必要になるのは「人間関係に必要なこと」ということができます。それをパウロは「霊の結ぶ実」と語ったわけです。
 「生ける水の川」について触れなければなりません。イエスの時代のユダヤ地方では、水源となるのはヨルダン川ただ一つでした。もし他にも川(水源)があれば、どれだけ生活の形が違っていたかを実感として受け止めていたでしょう。それを良く知っておられたイエスが、信仰の問題また心の問題として、神の教え、しかも聖霊によって届けられる神の教えは信仰を生きる者にとって唯一の「川」なのだと伝えていることが解(わか)ります。
 私たちは今、このメッセージをしっかりと聞き受け止め吟味しながら、生活の場で聖霊に支えられて生き、キリスト者としての歩みができることを祈ります。
【設問】 あなたにとって、礼拝説教で聞いた言葉がどれほど活かされているか考えたことはありますか?  
参考賛美「安けさは川のごとく」(新聖歌 252)

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