2020年秋号・11月15日小中高科 ナザレン希望誌ウェブ版

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■ 説教準備のためのテキスト研究
「善をもって悪に勝ちなさい」 ローマ12:17-21
伝えるポイント:復讐は神にまかせて、善をもって悪に勝ちなさい。

◇12:1-15:13 教会共同体への勧告
 ローマ書は、12:1から倫理的・実践的「勧め」へと明らかに変化する。倫理的・実践的勧めを、手紙の末尾に集める傾向は、パウロやパウロの名によって書かれた他の手紙にも見られる特徴である(Ⅰテサ4-5章、フィリ4章、ガラ5-6章、コロ3-4章、エフェ4-6章)。この構成は、パウロが3章から8章で論述してきた<信仰義認>に深く関わる。
 パウロは、律法遵守を救いの条件とする事で神のものである「救い」を自分達でコントロールできると思いこんだ律法主義者達の「歪んだ宗教心」を摘発し、「キリスト・イエスの十字架と復活にこそ我々の救いの根拠がある」という福音を広く宣べ伝えてきた。「イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって罪ある者、功績なき者が無償で正しい者とされ救われた、だからこそ、私達は神の定められた倫理的規範(律法)を守る事ができる」、つまり「福音から律法」の流れこそ真理を表しており、「律法を守る者こそ、神に救われる(福音)」という「律法から福音」の流れは真理ではないというのがパウロの主張である。従って、11章までに論述した<福音の真理>に基づいて倫理的「勧告」が始まるのが12章以降である。パウロは、11章までで述べた福音の真理が我々にもたらす<果実の実>として、福音に生かされる者が導かれる倫理的勧告を述べる。それは、人間の歪んだ宗教的行動を奨励したり鼓舞したりすることが目的ではない。寧ろ、キリストの霊に生かされてある者としての<生活の指針>であり、神に十分愛される者として神の愛に応える<行いの基準>をパウロは示そうとしている。
◇12:1~15:13構成
<勧告>は、二つの部分に分けられる。①12章~13章は、基本的な呼びかけであり、②14章から15章は、教会内の和解をテーマとした勧告となっている。14章から15章は、ユダヤ人と非ユダヤ人が宗教的習慣の違いによって対立するようになっていたという当時のローマ教会の問題を反映した内容となっている(11/8のテキスト研究参照)。
◇12:9~21 同等な関係
 12:9-13節は「共同体内部の同等な人間関係」に焦点があわせられ、12:14-21節は「外部との同等な関係」に集中しているが、共通するのは、出来たばかりのキリスト教会に伝わっていたイエスの言葉伝承やユダヤ教の知恵文学伝承からの訓戒が記されている事である。例えば、14節はマタイ5:44,17からであり、21節は、マタイ5:39に見られるイエスさまの言葉として伝えられたもの、19節後半は申32:35、16節は箴3:7、17節は箴3:4、20節は箴25:21~22とユダヤ教知恵文学からの伝承からの言葉である。
 難解な20節後半の「そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積む事になる」という言葉については、エジプトからの影響が考えられる。燃え盛る炭火を容器一杯につめて頭の上に置くのは、エジプトの宗教儀礼では悔い改めのしるしであったという。「飢え渇く敵を助ける事は、敵を神の御前での悔い改めに導く事に通じる」というのである。この20節で17-21節の主題が明らかになる。つまり、非友好的な人間関係に於いて暴力行為や復讐を抑制することは、「人間的な愛の行為」というよりは、寧ろ、「すべての者に対する神の平等な愛に信頼することを学んだ信仰の果実」(マタイ5:43-48参照)だという事。その基盤にあるのは、人間の愛ではなく、キリストの十字架の愛である。
人間関係は不安な状態では育まれない、平和が確保された状態(18節)でこそ育まれる。ローマ信徒への手紙全体を通じて、パウロは、「人を惑わす偽りの平安や確信」と、キリストの福音を基盤とした「真の平安や確信」を峻別できるように…と論述し、彼の読者に勧めているようである。

■ 中高科
「善をもって悪に勝ちなさい」 ローマ12:17-21
伝えるポイント:復讐は神にまかせて、善をもって悪に勝ちなさい。

●準備
 迫害する者、悪意をもって敵対する者に対して、信仰者としてどのように対処すべきかという事が今日の聖書箇所と言えます。この世にあっては復讐することが、当たり前のようであったとしても、そうではなく、むしろ、イエス様がマタイ5章43節44節において「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と教えられたように、初代教会は、その教えを忠実に守り、その教えに生きていたといえます。
 この生き方は十字架にまで忠実に従って歩まれたイエス様の生涯に見る事ができます。
 キリスト者は敵対する者の滅びを求める呪いではなく、神の救いが敵対する者にも及ぶように祈るべきである。「悪をもって悪に報いる」という事でなく、善い事をなして、敵対する者に勝利した事をお話したいと思います。

●説教例
 創世記26章15節~25節にアブラハムの子、イサクは主なる神様の語りかけを聞き、飢饉が起こった時、豊かな地であるエジプトに行くことをしないで、神様が命じられる土地であるゲラルに留まりました。ゲラルの地にはぺリシテ人が住んでおり、そのペリシテ人と間に井戸を巡っても争いが起こりました。ペリシテ人たちは、イサクが主の祝福を受け、穀物の種を蒔くと100倍の収穫をうけたばかりか、多くの羊や牛の群れ、多くの召し使いをかかえるようになり、豊かになったのを見て、イサクに対してねたみが生じました。ペリシテの王様から、その土地から出て行って欲しいと告げられたイサクは、ゲラルの谷に行き、天幕を張り住みました。その移動した場所には昔、父親のアブラハムが堀った井戸が幾つかありましたが、ペリシテ人達が埋めてしまっていた井戸を再び掘りなおして、水が湧き出るようになりました。するとゲラルの羊飼いたちが来 て「この水は私たちのものだ」と言いがかりをつけてきたので、言い争いになりましたが、イサクその井戸を手放し、さらに別の井戸を掘りました。井戸を掘り当てると、そこも言い争いになったので、さらに移動して井戸を掘ると、その時には争いにならなかったというので安心して過ごすことができました。イサクは、自分の手で掘った井戸を2度も奪われるという試練に出会いました。しかし争うことなく、神様を信じて、次から次へと井戸を掘り当てました。そのイサクには、主が「私はあなたと共にいる」という約束を与えておられました。そんなイサクの出来事を見ていたゲラルにいるペリシテの王アビメレクは、イサクのところに来て互いに危害を加える事がないような契約をしようと言い出したといいます。神様は御言葉に従って歩むイサクを祝福されました。神様が共におられるという主の確かな臨在観をもって生きたイサクは、危険から守られるばかりか物質的祝福も与えられました。神様が共におられると言う事、これは何物にも代えがたい宝です。イサクと共に神様はおられ、あらゆる祝福を与えてくださり、渇き尽きる事のない命の水の井戸をイサクは手にしていた事を知らされます。
 私達は、目には目を歯には歯をという言葉があるのを知っています。この言葉は、やったら、やられた10倍返しにして返す事ではなく、目をやられたら目でおさめなさいという事であり、それ以上の復讐する事があってはならないという教えですが、イエス様を信じる者たちの生き方は、自分に敵対するものに対して戦うのではなく、むしろ善をもって生きる事によって勝利していくことが求められています。神様が共におられる時、私達を祝福してくださらないはずはありません。時になぜという事があるかも知れませんが、しかし、神様を信頼し、神様に祈り、神様の教えに生きていく時に、神様は私達に必ず道を開いてくださるという事をしっかりと心に留めて歩みたいと思います。

■ 小学科
「善をもって悪に勝ちなさい」 ローマ12:17-21
伝えるポイント:復讐は神にまかせて、善をもって悪に勝ちなさい。

●説教にあたって
・テキスト研究をご覧ください。
・インド独立の父ガンジーは、「“目には目を”では全世界を盲目にするだけだ」と言ったそうです。彼は、キリスト者ではありませんでしたが、イエス・キリストの教えから学び、「非暴力不服従」運動で大英帝国からの独立を勝ち取ります。「復讐は神に任せて、善をもって悪に勝ちなさい」とは深い知恵に裏打ちされた戒めと言えます。
・しかし、これほど「言うは易し、行うは難(かた)し」という言葉も少ないでしょう。被害の当事者になった時に私達は自分自身の内側に湧き上がって来る復讐心に驚くばかり、敵を赦す事のなんと難しいことかは、私達の多くが経験している事です。しかし、復讐は、命も平安も生まない事も判っています。私達は、ただ、キリスト・イエスの十字架の愛にすがり復讐の衝動をやり過ごし、神に委ねる他はありません。そうして忍耐した時、私達はよりはっきりと神の愛を知ることが出来るのだと思います。
・むき出しの暴力や悪意の被害者になりやすいのが子ども達です。虐待やいじめなど心ない行為の被害にあい深く傷ついている子どもになった思いで、しかし尚、キリストの愛に生かされている者として、この聖書箇所を取り次ぐことが肝要です。他者を憎まざるを得ない痛みを他人事のように語る事は慎みたいと思います。

●説教例
 さっき、聖書テキストを読んでもらったけれど、みんなどう思う。「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」とか、できるかな?
 確かに、嫌な事をされたからやり返す事をしていたら、争いはどんどんエスカレートしてしまう、っていうのは確かな事だと思う。「足を踏まれた者の痛みは、足を踏んだ者には分からない」と言うように、私達人間は自分達がされた嫌な事は実際より大きくとらえる一方、自分が人にした事は過少評価してしまう。だから、復讐はやられた以上の事をしてしまって、どんどんエスカレートする。復讐は、なんの解決にもならないばかりか、状況をますます悪くするだけ。確かに、理屈じゃ判る。
 でも、実際に自分がひどい事をされたら、「やり返したい!」と思うだろう。ここでパウロ先生の言っている事は、イエスさまの教えでもあるのだけど、いくらイエスさまの教えでも守る事はすごーく難しい。
 すごく嫌な事をされて傷ついた、復讐してやりたい、自分と同じようにつらい目にあわせてやりたい…そう思うのは、人間だから仕方がない。でも、実際に行動に移す前に考えてみたい。「イエスさまがこの場にいたらどうするか?」って。イエスさまは全ての人間一人一人の為に、十字架についてくれた。それほどみんなの事を愛している。私の為にも、私を傷つけた敵の為にも十字架についてくれた。もし、自分が憎くて仕方ない相手に復讐しようと剣を振り下ろそうとしていたら、イエスさまはどうされるだろうか?-きっと私と相手の間に飛び込んで身代わりになって私に刺されると思う。私達が自分をひどい目に遭わせた人に復讐するって、結局、イエスさまを傷つけるという事になる。だから、別の選択をした方がいい…そう考えられればいいな。
 でも、だからといって酷い目にあっているのに、黙って耐え続けなさい!という事とは違う。安全な所へ待避することは本当に大切な事。イエスさまが命を投げ出して救おうとされた私達一人一人はとても貴重な存在。だから避難は復讐とは全然違う。ひどい目に遭わされている時は、信頼できる大人に話して助けてもらおう。みんながイエスさまの愛によって、イエスさまの妹や弟として喜んで生きていけるように祈っています。

■ 小学科ワーク

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