2020年夏号・小中高科9月13日 ナザレン希望誌ウェブ(テスト)版

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■ 説教準備のためのテキスト研究
葦の海を渡る
出エジプト記 14:5-31(朗読は14:13-14)
伝えるポイント:神がイスラエルのために戦われたので、モーセは海に向かって手を差し伸べた。すると海は二つに割れ、イスラエルの民は葦の海を歩いて渡ることができた。

 エジプトを出立したイスラエルは、雲の柱、火の柱に導かれた。出エジプトのルートの詳細は分かってはいない。学者によって様々な説がある。
 しかし14章1節で、主は突然ルートの変更を告げる。それは「引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するよう命じなさい。バアル・ツェフォンの前に、それに面して、海辺に宿営するのだ。」そこは敢えて逃げ場のない袋小路の場所だった。それはエジプトの全軍を破って、主の栄光を現わすためだった。
 ファラオは、えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。
 戦車を引くのは馬で、御者(ここでは「騎兵」と訳している)と射手、さらに「士官」〈ヘ:シャーリーシュ、第 3の人〉の 3人が乗った。ファラオはエジプト中の戦車隊と、また「歩兵」を動員してイスラエルの民を追った。ファラオが考えを変えたのは、「主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされた」ことによる。
 ファラオの軍隊を見た時のイスラエルの反応は、非常な恐れであった。その時イスラエルは主とモーセに対して文句を言った。この後も続くイスラエルのつぶやきのモチーフである。
 それに対してモーセは確信を持って「恐れてはならない。」と励ます。
14「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」万軍の主御自身が戦われるのである。人間は一切手出しをすることなく、ただ神の救いを見ればよい。
 「聖戦」という概念は、「自分たちに神の義があり、自分たちのために神が味方となられるので、人間の武力で敵を倒していく」というものがほとんどである。しかし聖書に登場する最初の「主の戦い」聖戦は、主御自身が戦われるのであって、人間は静かにしてその結果を待つものである。
 15節はモーセ自身の中にも不安があったことを物語る。そのようなモーセに対して 16 ‐18節は、主の指示が書かれている。
 イスラエルを導いていた神の使いである雲の柱・火の柱は、イスラエルの民の背後に回り、エジプト軍の間に割って入った。「真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。」
 時間稼ぎが出来ている間に、「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。」とある。
 映画の影響で、一瞬で海が割れたように考えがちだが、モーセは「夜もすがら」手を挙げ続けた。海は強風に押し返されて、乾いた場所が表れた。イスラエルの人々はその中を歩いて渡った。
 背後に迫るエジプト軍も、海の中に入ってきた。時が移り「朝の見張りのころ」となった。これは2時から 6時ごろに当るだろうと考えられている。主は、エジプト軍をかく乱し、戦車はぬかるみに車輪を取られ進めなくなった。
 渡り終えたモーセは、主の命令に従って、手を海に向かって差し伸べた。すると「夜が明ける前に、海は元の場所へ流れ返った。」重装備のエジプト軍は逃げそびれ、皆が水死した。
 「主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた」という言葉が、これ以後イスラエルの信仰告白となり、あらゆる機会に言い表されることとなる。それは旧約における神の贖いのみわざそのものである。

 30 ‐31節は、出エジプトの出来事の要約である。イスラエルの民は、主の「大いなる御業を見た。」その結果「民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた」のである。

 ここで、ファラオが死んだということは明らかにされていない。またエジプト側の資料にも言及はない。


■ 中高科
葦の海を渡る
出エジプト記 14:5-31(朗読は14:13-14)
伝えるポイント:神がイスラエルのために戦われたので、モーセは海に向かって手を差し伸べた。すると海は二つに割れ、イスラエルの民は葦の海を歩いて渡ることができた。

説教にあたって
 葦の海の奇跡は遠い昔の物語なのではありません。今を生きる私たちの物語なのです。説教を聴く中高生にとっての古い自分とはどのようなものでしょうか?また彼らにとって新しい命に生かされるとはどのような生活を送ることでしょうか?そんな思い巡らしをしながら、説教の準備をしていただければと願います。

説教例
 先週は、過ぎ越しについて見ていきました。子羊を殺して、その血を家の入口の二本の柱と鴨居に塗ると、災いが過ぎ越していきました。血を塗らなかった家には災いがやってきました。これは世の罪を取り除く神の子羊イエスさまの十字架での犠牲を指し示す出来事です。イエス・キリストの十字架の恵みによって私たちはあらゆる災いが過ぎ越していく人生に招かれることになりました。さあ、そうやって、災いが過ぎ越して行き、イスラエルの民は奴隷とされていたエジプトの地を脱出することができました。エジプトの王は、もうエジプトから出て行くがよいと言いました。それで出発したのですが、エジプトの王さまも、大事な労働力が国から出て行っては困るということで、大軍を率いて、イスラエルの民を取り戻しに行きました。イスラエルの民にとって目の前は葦の海、後方はエジプト軍、もう逃げ場がありません。イスラエルの民の中には、エジプトに居続ければ良かったのだと文句を言う人も出てきました。
 これって、私たちの信仰生活もあることで、キリスト者になっても問題が起こる、災いみたいなことが起こるのです。そしたら、キリスト者にならなきゃ良かった、なんで教会に行くのだろう…と思ったりし始めます。
 災いは過ぎ越しました。すべてが益に変えられます。前方が海で後方が軍隊でも問題は過ぎ越すのです。神さまは、わたしが戦うのだから、静かにしていなさいと告げます。モーセが杖を上げると海が割れ、イスラエルの民は海を渡りました。そして、渡り終えたところに、エジプト軍が入ってきておりましたが、海は元通りになり、エジプト軍は滅びてしまいました。
 これは私たちの物語です。「神さまに愛されているわけがないよ」「赦されているはずがないよ」「神さまが最善に導くはずがない」なんて言葉にキリスト者になっても追いかけられる…これはある意味、エジプト軍です。葦の海を渡る、というのは洗礼です。洗礼で、神の言葉を否定する一切のものが滅びてしまったのです。あとは、オレオレ詐欺みたいなもので、嘘の声、架空請求です。
 洗礼の恵みがますます増して行って、わたしは神に愛されていて、すべての罪が赦されていて、最善に導かれているんだ。だからどんな災いも過
ぎ越していく…そう思える君に必ずなれます。神さまがあなたを導くのだから大丈夫です。

<この箇所は、2014年夏号9月28日の教案を、久保木聡氏の承諾を得て転載しました。>

■ 小学科
葦の海を渡る
出エジプト記 14:5-31(朗読は14:13-14)
伝えるポイント:神がイスラエルのために戦われたので、モーセは海に向かって手を差し伸べた。すると海は二つに割れ、イスラエルの民は葦の海を歩いて渡ることができた。

説教にあたって
 イスラエルの民が救われたのはモーセを通した神さまの言葉を信じて海の中を進んで行ったからである。キリストの十字架と復活、そして御言葉を信じて歩むことで救われることを伝える。

説教例
 モーセたちイスラエルの民は奴隷から解放され、とうとうエジプトを脱出したのです。そして神さまが示す地、カナンへと旅立っていったのです。しかし地図というものはなくて、そこへどう行ったらよいのか分かりません。でも昼間には彼らの前に大きい雲の柱が現れ、夜になると火の柱が現れました。柱の中から神さまが「こっちだよ」と教えてくださったのです。イスラエルの民たちは、その方向について進んで行ったのです。何日か経つと神さまが「海の近くに行って、そこでしばらく休みなさい」とモーセにおっしゃられたのです。イスラエルの民たちは海の傍で休むことにしました。
 その頃、エジプトの人たちは困っていました。自分たちのために働く奴隷がいなくなったからです。王、ファラオは決断しました。「イスラエル人を連れ戻すのだ」。そして大勢の兵隊や戦車を引き連れて追いかけて行ったのです。海の傍でくつろいでいたイスラエルの民たちの前に、エジプトからやって来た軍隊が現れたのです。人々は震え上がりました。しかも目の前は海だから逃げられません。殺されるか海で溺れ死ぬしかなかったのです。「もう駄目だ。こんな荒野で死ぬくらいだったらエジプトで働く方が良かった」と人々は泣きわめきだしたのです。
 するとモーセが立ち上がったのです。「静かにしなさい。怖がらなくても大丈夫です。神さまが私たちのために戦ってくださるのです」。そのとき神さまが「杖を持った手を海の上に差し出しなさい」とモーセに仰いました。彼は言われた通りに海に向かって手を差し伸べたのです。すると突然、激しい東風が吹いてきました。海の水が右と左に分かれ乾いた道が現れました。このあり得ないことにイスラエルの人々は驚きました。「ここを渡って大丈夫なのだろうか、水の壁が崩れ落ちたら溺れて死んでしまう」と思ったのかもしれません。でもこのままではエジプトの軍隊に殺されてしまいます。だから前に進むしかありません。怖かったでしょう。だけどこれは神さまの業だと信じ、そこに入り岸に向かって行ったのでした。無事に彼らが渡り終えると神さまは「海に向かって手を差し伸べなさい」とモーセにおっしゃったのです。その通りにすると今まで分かれていた水が元に戻り追いかけてきたエジプトの軍隊を飲み込んだのでした。
 イスラエルの民たちは神さまを信じて海の中にできた道を進んで行ったから救われたのです。もしかしたらイエスさまを信じることは苦しいことに巻き込まれるのじゃないかと躊躇するかもしれません。でも神さまの言葉を信じて進んだイスラエルの民のように進みだし、人間の罪の身代わりとして十字架にかかり復活されたイエスさまを信じることによって罪が赦され、救われ、永遠の命が与えられるのです。


■ 小学科ワーク

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