2021年春号・ナザレンの講壇から ナザレン希望誌ウェブ版

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いちばん小さな奇跡の話
マタイ17:22~27
尾山台教会牧師 梅實淳一

 この日、イエス様一行がカファルナウムの町にいた時、神殿税を集める人たちが、ペトロの所に来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と詰問したといいます。当時の聖書の世界では、イスラエルに住む20歳以上の人間は、エルサレム神殿の為毎年税金を納めなければいけないと決められていました。ところが、「お前たちの先生は、穢れた徴税人どもと食事をしたり、ユダヤの掟を破るような人だから。まさか、神殿税も納めないつもりじゃないでしょうねぇ」と、ペトロを急襲したというのです。ペトロは思わず、「納めます」と答えました。まるで、怖い上級生達に詰め寄られたかのように、「いや、納めますよ。勘弁してください」と。イエス様に確認する事もなく、一人で勝手に、答えてしまったというのです。
 「ペトロって、なんか線が細いな」と感想を持つ方もおられるかもしれません。しかし、ペトロにしてみたら、彼の心の中は、この時、それどころではなかったのではないかと思うのです。と言いますのも、この出来事があった直前に、彼はイエス様から2回目の受難予告の言葉を聞いていたからです。
 「一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。『人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。』弟子たちは非常に悲しんだ。」(22、23)
 イエス様は、このようなご自身の身に及ぶ受難が、必ず起こる(16:21)とおっしゃっていました。神がこの事をなすから「必ず」起こる。神の御手が「必ず」私を死に引き渡し、そして神の御手が「必ず」私を死から起こす。神は生きておられるんだ、神が働いておられるのだ、と。
 しかし、ペトロ達はそのイエス様の言葉を、しっかりと聞き取る事が全くできませんでした。イエス様の言葉を聞いて「弟子たちは非常に悲しんだ」というのです。自分たちが一番頼りにしているお方が、人々から捨てられて、十字架につけられて殺されるなんて。これ程、絶望的な事はないかもしれません。「そんなことになったら、自分はいったいどうしたらいいんだろう…」。ペトロ等弟子たちの「悲しみ」、心の痛みの正体は、突き詰めて言えば、生きて御業をなしてくださる、神の姿が全く見えなくなってしまった、という事にあると思います。私たちも生活の中で経験する事ですが、禍がただ、自分の身に降りかかってくることでしかない禍。生ける神なしの、希望のない出来事しか見る事ができなくなる事。それが、弟子たちの非常な悲しみの正体だったのではないでしょうか。
 その様な悲しみの中での、今日の急襲の出来事ですから、「そんな事どうでもいいんだ!」と言わんばかりに、「納めます」と答えたのが、この時のペトロだったのではないかと思います。
 さてそんな上の空の中、お金を取りに家に帰ったペトロに、イエス様が出会ってくださいます。
 全ての事を見抜いてご存じであった、イエス様の方から、そんなペトロに声をかけられるのです。
 「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか」(25)。ペトロにしてみたら、藪から棒にイエス様は何を尋ねられるんだと思ったかもしれません。ただ、このように尋ねられるイエス様の思いは、初めから定まっていたと思います。つまり、受難の告知を受け、大きな問題を抱えて、神が生きておられることが全く分からなくなって、上の空で、税金払いますと言ってしまったペトロに、そのお金を渡してあげる事です。
 しかし、イエス様は、「ペトロ、お前思わず言っちゃったんだな。ほらこのお金を使いなさい」と、財布を取り出して銀貨をペトロに渡すという事はなさいませんでした。そうではなくて、一つの不思議な提案をなさるのです。
 「湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」(27)と。そして実際にペトロが湖に行って釣りをしてみると、その様になったというのです。
 イエス様はどうして、こんな事をわざわざペトロにさせようとなさったのでしょうか。銀貨一枚を肩代わりするなんて、財布から銀貨を取り出せばいいもの。イエス様でなくても誰にでもできる事です。それを湖に行って、さらに釣りをさせたら、その釣れた魚の口に銀貨があった。どうしてわざわざこのような、あってもなくても良いような、小さな奇跡をもってペトロに答えようとしたのでしょうか。それは、この小さな奇跡によって、神を見失い、望みを失ったペトロを、もう一度神の御手の中に引きずり出そうとする、イエス様の愛があったからだと思います。ペトロに、このイエス様の受難と十字架の中に、神は生きておられるという事を教えるための小さな奇跡だったのだと思うのです。
 教会の教理の中に、「神の摂理」という教理があります。「神の摂理」とは、全能の神の、今生きて働く力の事です。残念ながら、この摂理という教理は、神が定めた冷たい運命や宿命のようなものだと時々誤解される事がありますが、本当はそんなものではありません。私が、何度もこの言葉から慰めを受けて来たし、本当に優れているなと思う摂理を表している言葉は、宗教改革時代につくられた『ハイデルベルク信仰問答』の問い27の言葉です。

問27 神の摂理について、あなたは何を理解していますか。
答  全能かつ現実の、神の力です。それによって神は天と地と全ての被造物を、いわばその御手をもって、今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によって、私たちにもたらされるのです。
 「父親らしい御手によって…」。ここに冷たい運命論とは違った、神の摂理。イエス様が受難予告の中でも見ておられた神の姿があります。
 イエス様はペトロに釣りをさせて、小さな奇跡によって、このペトロの父でもある全能の神を伝えたかったのだと思います。「ペトロ、あなたの事は全部分かってるよ。見てごらん。こんな魚も、そしてこんな一枚の銀貨も。神の全能の、働く力の中にあるんだ。大丈夫。あなたの父は生きておられるんだ。その事を信じよう」。それがこの小さな奇跡に込められたイエス様のメッセージだったのではないでしょうか。
 私たちも、ペトロと同じように、大きな問題にぶつかり、神が生きておられ、その御手をもって、自分たちに働き、支えておられる事が全く分からなくなってしまう事があります。もう治らないかもしれない病を抱える事もあるし、愛する人を天に送る事もあります。教会が存続の危機に陥る事もあるし、自然災害に見舞われることもあるし、恐ろしいものは数えてもきりがありません。神は無力なんじゃないかと、私たちから望みを失わせる事例は、数え上げたらいくらでもあります。しかし、まさにそのように私たちが、神を見失い、神の無力しか見えなくなった時に、私たちは、その様などん底の自分の隣にこそ、イエス様が共にいてくださる事を知らされます。なぜなら、神を見失い、神は無力なんじゃないかと、一番苦しまれたのは、本当は、ペトロや私たちではなく、イエス様だからです。イエス様はここで、「人々の手に引き渡され、そして殺され」ようとしておられるのです。そのイエス様が、ペトロに、また私たちに呼びかけられるのです。「この十字架も、偶然じゃない。父親らしい神の御手によって私にもたらされるんだ。大丈夫。あなたの天の父は生きておられるんだ。その事を、一緒に信じよう」。そして、事実イエス様は、十字架にかかられた後、神の御手によって、死者の中からお甦りになったのです。
 さて、これは私の勝手な想像なのですが、ペトロはイエス様の十字架と復活の後、しばらくはイスラエルにいたと思われるので、また、エルサレムの神殿税を納める事があったのではないかと思います。そして銀貨を納める度に、イエス様がペトロの為だけにしてくださった、この小さな奇跡の出来事を思い起こしたと思います。
 神殿税。実は、初めに少し説明しましたが、この神殿税には聖書に記されていた大切な意味がありました。出エジプト記30章11~16節に書かれているのですが、この神殿税は、「命のあがない」として、全ての20歳以上のイスラエルの人が納めなければいけないと、定められていたものでした。命の代金です。イエス様は、自分の神殿税だけでなくて、あの時、ペトロの神殿税も払ってくださいました。それは明らかに、イエス様の十字架のあがないを暗示するものです。「ペトロ、お前の神殿税は、いや、お前の命の分は私があがなう。ペトロ、お前は自分のお金で、自分の命を買い取る必要はない。私が支払うんだ。お前の過ちも、罪も全部私が支払うんだ。」
 後に、イエス様の十字架と復活の出来事を経験して、ペトロは、きっとこの小さな奇跡の出来事を、あの銀貨の感触と共に、思い起こしたと思います。「そうだ、あの時も、イエス様は私の命の分を支払ってくださったんだ。そして十字架で、この私を神のもとへと買い戻してくださったんだ。」
「ペトロ。あなたの父は、今も、生きておられるんだよ。一緒に信じよう」。復活されたイエス様が昇って行かれた天から、今も聞こえてくる気がいたします。復活節の皆さまの歩みが豊かに祝福されますように。

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