2020年秋号・11月8日小中高科 ナザレン希望誌ウェブ版

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■ 説教準備のためのテキスト研究
「神さまの愛の圧倒的勝利」 ローマ8:31-39
伝えるポイント:神の愛の圧倒的勝利のゆえに、誰も私たちを神の愛から引き離すことはできない。

◇31節
 ローマ書でパウロは数々の問いを設定する事で議論を展開している。8:31もそのような設問のひとつである。パウロは、この問いによって、「将来の栄光への希望」というテーマから「神の愛」というテーマに移行する。神の愛は、5:5~8で私たちを欺かない確かな「希望」の究極的根拠として記されている(5:5 「希望はわたしたちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」、5:8「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」)
◇31節後半から34節
パウロは、この5:8以降、8:35まで、希望への根拠として愛という言葉を使わなかった。神が彼自身の御子を犠牲とした行為が第一に証明しているのは、神が「わたしたちに敵対するもの」ではなく、「わたしたちに味方するもの」という事である(31節後半~32節)。そのことは、神が人間に関わるあらゆる問題に関して常に「わたしたちの側に立つ」ということを意味するものではない。寧ろ「神がわたしたちに味方する」とは、「不義なる者を義としてくださる神の恵み」(3:23-24)の中核にある神の一方的な愛である。「神の愛」は、地上の命の営みを天上の生活に変えるものではない。「神の愛」は、人間による選択の余地を残す。選択の自由のない所に、愛はないのだから。だから、個人も共同体も、自分(たち)の下した選択について、神の前に申し開きをしなければならない(コリントⅡ5:10「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住処としていた時に行ったことに応じて報いをうけなくてはならない」)。
しかし今や、天上の法廷に於いて、神はキリスト・イエスにある者達の味方をされる。だから、誰もキリスト・イエスにある者たちを訴える者はいない。そしてキリスト・イエスにある者は、義とされるのである。(33節から34節)。こうして、パウロは、8:31~8:34に於いて、3:23~24(「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」)という信仰義認の論述の出発点に立ち戻る。
◇35節、37節~39節
ここでパウロは、①キリスト者が経験する困難としてパウロ自身が経験したであろう七つの苦難を列挙(35節)し、更に②神の意図を脅かす十種類の超人的力を列挙(38節~39節前半)するという二つの修辞的表現を用いて、「何者もキリストの愛から私たちを引き離す事はない」と強調する。だから、「必ず“キリストにある者”の味方をしてくださる神によって私たちは勝利を収めている」(37節)という論理を展開している。キリストの愛(35節)とは、究極的には永遠なる全能の神ご自身の愛なのだ(39節)。この愛により頼み、十字架に架けられ三日後に復活したナザレ人イエスを、「我が主イエス・キリスト、我が神主よ」と呼ぶ事ができるのである。
◇36節
 35節と37節の間にある36節は、4章以降はじめて現れる旧約聖書の引用となる。本来この詩44:23はイスラエルの敵による攻撃を神に嘆き訴える叫びであったが、新約時代には「神に忠実な者は常に暴力的な死の危険に晒されている」という黙示録的な考え方を表すものとされてきた。パウロはその詩44:23を「苦しい試練は、それを受ける人が神に属していることの確かなしるしである」という事の論拠という新しい用い方をしている。

■ 中高科
「神さまの愛の圧倒的勝利」 ローマ8:31-39
伝えるポイント:神の愛の圧倒的勝利のゆえに、誰も私たちを神の愛から引き離すことはできない。

●準備
 神様は、神様を信じる私達の側に立って下さるお方です。義とされ、神の子とされている者の側に神様がつかれないわけがありません。
 「御子をさえ惜しまず」という言葉に、神様の最愛、最上のものを残さずに与えて下さったという意味が込められています。
 「死に渡された」とは父なる神様が御子であるイエス様を手放してしまったという事です。ただ人類の救いというこの一点の為に喜んでキリストを与えて下さいました。そのようなお方である神様は、私達の御子と一緒にすべてものを与えて下さるお方です。御子が私達の味方なので、すべての事が益へと変えられていくというのです。キリストは私達の為に父なる神にとりなしてくださるお方であり、罪を訴えようとするサタンから守り、救い出してくださるお方であるという事を分かり易く伝えたいと思います。

●説教例
 私達が生きていく上で困難、試練のない人はだれもいないと思います。いつも良い事ばかりあればよいのですが、そうではないことがあります。
 このローマ信徒への手紙を書いたパウロは多くの試練に出会いました。その事をコリントの信徒への手紙第二11章23節から28節に書いています。
 「キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多 く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜、海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」
 パウロは、イエス様を信じる前は、イエス様を信じる者たちを迫害する人でした。しかし復活のイエス様との出会いを通して、イエス様による救いを人々に宣べ伝える人へと変えられました。そのことのゆえに、幾つもの信仰者としての迫害を受けても、決して信仰を捨てようとは思いませんでした。
それは、神様が私達を罪の世界から救い出す為に、ひとり子であるイエス様を十字架につけてまでも、私達を愛して下さったからでした。
 本来ならば、私達の罪ゆえに、私達自身が裁かれるべき存在ですが、イエス様が私達に代わって、その罪の代価を支払ってくださったことによって私達は罪のない者へと変えられるのです。
 私達一人ひとりを愛して下さっておられる神様を信じて、これからも歩みたいと思います。

■ 小学科
「神さまの愛の圧倒的勝利」 ローマ8:31-39
伝えるポイント:神の愛の圧倒的勝利のゆえに、誰も私たちを神の愛から引き離すことはできない。

●説教にあたって
・10/18,10/25,11/1,11/8のテキスト研究を参照ください。
・8:31~39は、8:21から始まった<神は、不義なる者を恵みによって義とされる>という「信仰義認」についての論述の結論であり、信仰義認の論拠は、神の圧倒的な愛である事が描かれています。
・独り子を犠牲にしてまで罪人の味方となってくださる父なる神の愛により罪を赦され救われた者として、神への感謝と賛美を込めて語ることが説教の最も重要な点であろうかと思います。

●説教例
 みんなには、「この人は絶対にどんな時でも私の味方になってくれる!」という人はいるかな。親とか家族の人たち、お友達。「どんな時でもあなたの味方だ」と言ってくれる人がいるのはとても幸せなこと。
 でも、「私には“どんな時でもあなたの味方だよ”と言ってくれる人は一人もいない」と悲しむ必要はありません。神さまは私たちに「どんな時でもあなたの味方だよ、あなたを見捨てないよ!」と言ってくださるからです。だって神さまは、私たちのために、とってもとっても大切なひとり息子のイエスさまを十字架に架けたほどに、私たちの事を愛し抜いているのです。だから、神さまがこのイエスさまを信じる者達を最後まで見捨てるわけはないのです。
 神さまが私たちを深く愛している…って、どういう時に一番分かると思いますか?ラッキーなこと、よいことばかりが続いて体も健康で人からも褒められて、「何の問題もない!私ってすごくない?」と思える絶好調の時かな。それとも、辛くて苦しい事が続いたり、病気になったり、いじめられたり、まさか、食べるものがなくなったり、着るものがなくなるほど貧乏になった時かな?

 私たち人間は、絶好調で何の問題もない時はだいたい、調子に乗るんだよね。「まぁ、神さまの助けがなくても平気、平気」と神さまの事を忘れてしまう事が多い。だから、順調な時ではなくて、実は困った時こそ、神さまの愛がよく判る時だと思う。でも、本当に苦しい時、病気になったり食べ物や着る服がない程貧乏になって困った時、色々と非難されたり攻撃されたりして切羽つまっているのに、誰にも助けてもらえなかったら、神さまの愛なんてとても感じることはできない。どうしたらいいんだろう?
 イエスさまの十字架の愛を思い出すといいと思う。イエスさまを十字架に架けて殺すまでに私たちを愛してくださる神さまを思い出す。そうして、「神さま!助けて」と呼ぶときっとわかるよ。神さまが私たちの味方であるって分かる。「どんな時でもあなたを見捨てない」と神さまが言っているのが分かる。私たちがそうやって生きていく事ができるためにイエスさまは十字架に架かってくださったから。
 でも、「神さまは私の味方なんだから、私は何してもいいんだ!」と勘違いしちゃいけない。私たちの事を深く愛している神さまは、私たちが悪いこと、好き勝手にする事は望んではおられない、すごく悲しまれる。神さまが私達を見捨てないというのは、「悪いままでいていいよ!」という事じゃない。「神さまは決して見捨てないから、神さまの助けを借りてイエスさまの妹や弟になれるように、一生懸命に生きようね」と導いてくれるということ。そのことを忘れずにいたいと思う。
 教会学校のみんなが、どんな時でも私たちを深く愛してくれる父なる神さまの子供として元気に一週間を過ごして行くことができますように、お祈りします。

■ 小学科ワーク

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