2021年冬号・3月7日成人科 ナザレン希望誌ウェブ版

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ヨハネ14章1~14節 父のもとへ行く唯一の道であるイエス

 ヨハネ福音書の14~16章は1~13章および17~20章とは趣が違う形で書かれています(次週参照)。14~16章は他の箇所と違って、復活以後に語られたのではないかと思わせる用語が見受けられます。例えば「祈り」に関して、また「弁護者」についての言葉が代表的です。ヨハネ福音書の読み方にもよるのでしょうが、イエスの復活後の言葉として読み聞くときに、より一層の重みのある言葉として私たちの心に届いてくると私(筆者)には感じられます。実際には復活以後の言葉であるか否かが大事なのではありません。聖書のすべての言葉は何をメッセージとして伝えているかが大事なのです。それは聖書と対話をすることによってこそ読者である私たちの思いや心に響いてくるものであり、それを私(筆者)はメッセージという言葉で表しています。そのようにして聖書を読みますと、私たちにとってのヨハネ福音書14~16章は、再臨時のイエスと私たちとの出会いと結び付いた言葉として語られていると受け止めさせられます。
 今回は「父のもとへ行く唯一の道」ということが課題ですが、「父のもとへ行く」ということの具体的な意味は、イエスの父である神と出遭うことを意味しています。イエスがトマスとフィリポに対し「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」(9節)と語った言葉によって、父なる神と私たちが出遭うことが難しいことを感じさせられます。7節が伝えるように、イエスを知ることによって神を知ることが出来るはずなのですが、実際にはトマスもフィリポもイエスを見ても父なる神を知ることが出来ませんでした。ましてやイエスを目で見ることがない私たちには、より難しいことだと言わなければならないでしょう。しかも6節後半では「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とイエスは語っていますが、イエスを見ていない私たちにとり、イエスを通るとはどういうことなのでしょう。それは私たちの信仰によるものではなく、天に帰られたイエスが再び地上に来られるとき(再臨のとき)に、私たちを迎えてくださることによって起こることなのです。この「迎える」(3節)という言葉は「連れ出す・率いる・呼び寄せる」等にも訳されています。イエスが主導権をもってイエスの前に私たちを呼び出してくださる、という意味です。このことによってイエスが「道・真理・命」であると私たちは知らされるのです。私たちの側は全くの受け身です。言い換えますと、イエスによって招かれることによってのみ、イエスが「道・真理・命」であることを知ることになります。それだけではなく、イエスの招きによってイエスの内におられる「父」に出遭わせていただくことにもなるのです。ですから「父のもとへ行く唯一の道」というよりは、憐みによってイエスが私たちを呼び寄せてくださって、父なる神に出遭わせてくださるということなのです。これは大きな喜びという言葉を超えたとてつもない喜びではないでしょうか。

【設問】
「聖書との対話」とは、皆さんにとってはどの様な事かを話し合ってみてください。
参考賛美「み言葉なる 光のうち」(新聖歌316番)

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