2021年冬号・3月21日小中高科 ナザレン希望誌ウェブ版

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■ 説教準備のためのテキスト研究
イエスさまのお名前によって ―ヨハネ 16:22-24
伝えるポイント;神に祈るときは、イエスの名によってお祈りをしよう。

ポイント1
 祈ることは言うほど簡単ではあない。祈ったのに、ちっとも効果が無いと無意味さを感じる。決して自己中心的な、欲深い祈りではないのにと。一心に平和を祈っているのにと。それは人間の勝手な言い訳ではなかろうか。「わたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる(ヨハネ16章24節)」と主は断言された。私たちは自分がやるべきことを棚にあげて神様の全責任にするところがある。自分に都合の良い偶然をあてにすることはあっても、私たちは本気で祈ったと言えるのか?瞬発力ぐらいはあるが持続力に欠ける。いったい今まで、本当にきかれなかった祈りがあるか?カテキズム(注1)には次のような意味のことが書かれている。祈りが戦いである理由は、祈りとは、祈りから逸らせようとする誘惑と戦うことだからだと。自分自身が、そして環境が、全力をあげて私たちを祈りへの集中から逸らせようとする。祈りが難しい理由の殆どは「意識の散漫(さんまん)」であると。つまり祈っても意識が集中せず、思いがあちこちに飛んで私たちの注意を神から逸らしている。しかしこの「散漫」の内容から、私たちの本心も明らかになる。そして「意識が逸れた、祈りから逸れた思いの内容を見れば、私たちの本心が明らかにされる。」祈りと生活は一体である。つまり、私たちは自分の祈りの内容に応じた生き方をするものである。

ポイント2
 福音書や使徒言行録には主の弟子がいかに「主の名によって」行ったか、主の名によって祈り、歩んだかが記録されている。パウロはコロサイ3章17節において「あなたがたが何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い・・」と勧めた。

ポイント3
 しかし「主の名による」はずのことが問題を起こす場合もある。それは十戒が禁じた「主の名をみだりに唱える過ち」である。マタイ7章ではこう言われた。「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。わたしは彼らにこう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。主の名による問題とは、聖名を自分の権威づけ、自分の利益のために用いること。「虎の威を借る狐」の如く。自分の欲望なのに、それが主のみ旨だと言い張る。「聖書のどこそこに、こう書いてあるから私は正しい。おまえは間違っている」と。神の名を使った自己正当化が結果的に偽善であり人々の前で神の聖なる名を汚すことにならないかは、余程注意する必要がある。

注1 カテキズムとはカトリック教会の古い書物で、部分的には私たちプロテスタント信仰と相いれない個所もあるものの、長いカトリックの歴史の中で人々が直面してきた様々の具体的な問題について、よく考え抜かれた答えが問答形式でわかりやすく書かれている。しかし上述は同書要約版第4編第1章572~574節より松川が勝手に解釈して要約したので正式な引用とはいえない。

■ 中高科
イエスさまのお名前によって ―――― ヨハネ 16:22-24
伝えるポイント;私たちを徹底的に赦し愛してくださるイエスさまを救い主として信じると、どんなに辛い時でもイエスさまのお名前によって、希望をもって祈ることができます。

準 備

・今日の箇所は13章から始まるイエスさまの“告別説教”の一部です。
・ヨハネ福音書のイエスさまの告別説教は、螺旋階段のように同じテーマが繰り返し表れ、その都度、その内容が深まっていく傾向にあります。
・告別説教の一部を抜き出し、言葉だけを追っていくと、抽象的な表現の連続で、何を言っているのかわからなくなります。しかし、告別説教を貫くのは、イエスさまの弟子たちへの愛です。告別説教の冒頭にこうあるからです。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時がきたことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」世にいる弟子たちを愛し抜き、その足を洗ったイエスさまの眼差しを思い起こしながら、告別説教(13章から17章)を繰り返し味わってみましょう。この地上に弱い弟子たちを残して十字架にかからなければならないー試練を前にして、どこまでも弟子たちの事を考えるイエスさまの切ないまでの想いが伝わってきます。このイエスさまの愛を子どもたちに伝えましょう。
・16章では、告別説教は終わりを迎えようとしています。聖霊の働きを述べると共に、十字架の受難を予告し、弟子たちの心を励まします。

説教例
 皆さんは、まだ小さい頃、お父さんやお母さんなど大人の家族が急にいなくなって不安になった事はないでしょうか?小さい時に、いつも助けてくれる大人、頼りにしていた大人がいなくなるのはとても怖いことだし、これから先どうなるのか心配になります。オロオロしてしまいます。今日の聖書箇所のお弟子さんたちはそんな状況でした。「この人のためなら」と何もかも捨てて従ったイエスさま、いつも優しく時には厳しく自分たちを教え導いて、悪いものから守ってくださったイエスさま。その大好きで、誰よりも頼りにしていたイエスさまが、自分はもうすぐいなくなる、会えなくなる・・と弟子たちに告げるのです。イエスさまがいなくなれば、周りは敵ばかりです。「大好きな先生であるイエスさまはいったいどうなるのだろう?私たちはいったいどうすればいいのだろう?」弟子たちの表情は戸惑いと不安でいっぱいです。
 そんなお弟子さんたちにイエスさまは語りかけられます。「あなたたちは一旦は悲しみのどん底に突き落とされ途方にくれます。でも、その悲しみがどんなに深くて大きくても必ず喜びに変わります。それは悲しみや不安を忘れる位大きな喜びで、誰からも奪われることがなくずっと続く喜びです。」
 イエスさまがおっしゃるのは、復活のイエスさまに出会う喜びです。復活のイエスさまに出会う時、人は父なる神さまがいかに徹底的に自分たちのことを赦し愛しているか実感できます。それは何にもまさる大きな喜びです。その父なる神は、イエスさまを自分の救い主と信じ、イエスさまのお名前によって祈る人の祈りを聞き届けてくださるお方です。イエスさまのお名前による祈りですから、私達の自分勝手な祈りではありませんが、私たちに最もよい形に変えて必ず聞き届けてくださいます。
 イエスさまは、この弟子たちと同じように私たち一人一人がどんな状況であっても、愛し抜いてくださいます。だから私たちも神さまに祈れないような辛い時にも、イエスさまのお言葉を信じ、希望をもって父なる神さまにイエスさまのお名前によって助けを求め、祈り叫んでいきたいと思います。

■ 小学科
イエスさまのお名前によって ―――― ヨハネ 16:22-24
伝えるポイント;神に祈るときは、イエスの名によってお祈りをしよう。

準 備
 祈るときも、黙想のときも、主イエス・キリストに思いを馳せつつ祈る、もしくは黙想する。そのことの大切さを主イエスは私たちに告げています。

説教例
 「願いごとを叶えてあげよう」と誰かから言われたら、どうしますか? 喜んでその人に自分の願いごとを伝えるでしょうか? 何を願うか迷うかもしれませんが、それより誰からそのようなことを言われたかの方が重要です。世の中には残念ながら「だましてやろう」と思っている人がいますから。甘い言葉で近寄ってきて、人のお金をだまし取ったり、怪我を負わせたり、ひどいことをされた人たちの話をニュースで聞くことがあります。
 しかし、今日の聖書の場面で「願いなさい」と弟子たちに仰るのは、そんな悪者ではありません。神さまの独り子、救い主であるイエスさまです。イエスさまがもうすぐ捕らえられ、十字架の上で死なれる前の夜、弟子たちに、ご自分の苦しみと死について話をなさったのです。あなたがたから引き離され、苦しみを受け、果ては殺される、そのことであなたがたは深い悲しみに襲われるでしょう。しかし、「私は死から復活し、あなたがたともう一度会う。そしてその喜びをもう奪うことのできる者はもういないのだ」とイエスさまは仰います。そしてそこで弟子たちに教えられたのが、「イエスさまのお名前によって」父なる神様に祈り願うことでした。そうすれば願うことは与えられ、喜びで満たされると。イエスさまのお名前で祈るという恵み深い特権が、当時の弟子たちだけでなく、イエスさまを主と信じるクリスチャン全員に与えられた瞬間です。
 どういうことでしょう? イエスさまのお名前で祈り願えば何でも叶えてくださる、ということでしょうか? そういう意味で言われているのではないでしょう。私たちの祈り願う事柄は、結構自分勝手なもの、自己都合のものが多いように感じます。あまり害のないものもあるでしょうが、もし全部叶えられていたら、きっととんでもないことになっていると思います。他の人々や神さまのことを考えない(それは神さまのみ前に罪です)、そんな都合のよい願いであっても、イエスさまのお名前で祈ることで、神さまは私たちの祈りを聞いてくださる、ということです。自分のことしか考えなかったり、他の人を羨ましがったり、嫌ったりする心、そういう「弱さ」に私たちは悩み、苦しみますが、そこから神様が助け出してくださるのです。イエスさまのお名前で祈り続けていくことで、私たちの心も造り変えられていきます。私たちの罪の赦しのために十字架に架かられたイエスさまの心がどんなものであったか、思いを馳せることができるからです。それも神様の導きです。主イエスさまのみ心に適う形で、私たちの願いが聴かれていくのです。
 23節に「その日には」と言われていました。イエスさまはもう復活されました。そして使徒たちにも聖霊が与えられました。それらの日とも考えられますが、しかし、天に昇られたイエスさまがもう一度地上に来られる日が最終的な「その日」でしょう。それがいつになるのか私たちには分かりません。「その日」とは、イエスさまのお名前によって祈る私たちの祈り全てが、神様のみ心に適う形で聞かれ、私たちの喜びが満たされるときです。その日を待ち望みつつ、イエスさまのお名前によって祈り続け、支えられていく私たちでありたいと願います。

■ 小学科ワーク

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