2020年夏号・小中高科7月19日 ナザレン希望誌ウェブ(テスト)版

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■ 説教準備のためのテキスト研究
名はヤコブからイスラエルへ 
創世記 32:22-32 (朗読は32:28-29)
伝えるポイント:神は、神と闘って勝ったヤコブを「イスラエル」と名づけられた。彼はこのときから、古い自分(押しのける者)を捨てて、神にある新しい人生に変えられた。

 20年前、ヤコブは兄エサウの復讐を恐れパダン・アラムに向かう途中、ベテルでの体験をするが、今回は、パダン・アラムのラバンのもとを去って父イサクのもとに向かう途中にも神の御使いが現れた。ヤコブは、その場所をマハナイム(二組の陣営)と名付けた。
 ヤコブが父のもとに帰るにあたって、避けて通れないのが兄エサウとの再会である。兄はまだ怒っているに違いない。そこで彼はエサウに遣いを出し、ご機嫌伺いをした。
 しかし遣いの報告は、「四百人のお供を連れてこちらにおいでになる途中」というものだった。それは仕返しのための軍勢か、「ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ。」
 ヤコブは神に祈り、約束に基づいて神に助けを求める。
 そして彼は、人々や家畜や財産を「二組」に分けた。9節からわかるように万一のことがあっても全滅しないようにするためでもあったし、あるいは贈り物を次々と自分の前を進ませて、その間にエサウの気持ちをやわらげ、怒りをなだめようとしたのかもしれない。距離を開けて次々と進み行かせるのは、贈り物の豊かさを印象付ける心理的な効果を狙ってのことでもあろう。いかにもヤコブらしい。
 「贈り物を先に行かせ、ヤコブ自身は、その夜、宿営地にとどまっていた。」「その夜。ヤコブは起きて…子どもを連れてヤボクの渡しを渡った。」「ヤコブは独り後に残った。」
 夜の渡河は危険なのに、なぜそれを敢行したのだろうか。少しでも早くエサウを迎える準備を整えておこうとしたのか。あるいは渡河の途中でエサウに攻撃されるのを恐れたのか。
 またヤコブは妻や子供たちを渡らせて、自らは渡らずに留まったのかもこの文脈では定かでない。22節は、23-24節、あるいは 23 ‐31節の略述と見ることも出来る。
 さらにヤコブの一行は、ヤボクの上流をすでに南側に渡っており、この度はヤボクの渡しを南から北に渡ったのだとの見方もある。マハナイムの位置は不明。ペヌエルは、恐らくヤボクの両岸にまたがる現トゥルル・アッダハブで、ヤボクの南岸とも北岸とも考えられる。
 ヤコブは人生の重大な局面を翌日に控え、独りになりたかったのだろう。その時、何者かがヤコブの前に立ちはだかり格闘となった。それは互角の戦いで、明け方にまで及ぶ長い戦いであった。
 それは神の御使いであった。神はご自分のみわざを為させるために、ご自身が選んだ器の前に立ちはだかることがある。私たちも人生の大事な局面で、一晩中、祈りによって神と格闘しなければならない時がある。ヤコブは生きるため死力を尽して戦った。ヤコブが神のみわざにあずかるためには、己が力ではなく、神と向かい合い神に取り扱われ打たれる必要があった。ヤコブは自分の腿の関節がはずされた時に、相手が御使いであることを悟った。それで彼は必死になって祝福を求め、そして祝福を得た。
 聖書では「名は体を表す」ことがよくある。ヤコブは「押しのける者」として生きてきたが、神によって「イスラエル」という新しい名が与えられた。(「イスラ」は〈戦う〉(サーラー)の派生語と考えられ、「エル」は〈神〉)それは神にある新しい人生、やがて神の民となる 12部族の父としての姿である。
 御使いは、神の代理として名前のない存在として描かれている。神はモーセに「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」と仰せられた。これは罪ある人間が、その罪の眼で神の顔を見ることは許されないという意味である。それ以上に罪ある人間が、きよい神のご臨在に触れることは恐ろしい。それは死を意味する。しかしこの時ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。
 ヤコブはエサウに顔を合わせて会うのを恐れた。過去の自分の罪の行いの報いを受け、殺される危険もあった。しかしヤコブはそのエサウに会う前に、神と顔と顔とを合せる体験をさせられた。それは死を覚悟することであったが、彼は救われた。もはやヤコブはエサウに会うのを恐れない。

■  中高科
名はヤコブからイスラエルへ
創世記 32:22-32(朗読は32:28-29)
伝えるポイント:神は、神と闘って勝ったヤコブを「イスラエル」と名づけられた。彼はこのときから、古い自分(押しのける者)を捨てて、神にある新しい人生に変えられた。

説教にあたって
 長い逃亡生活から父の家へと戻るため、ヤボクの渡しを渡るヤコブ。彼は兄エサウを恐れ、心には大きな不安があった。そんな中、ヤコブは夜明けまで神と格闘する。名前を聞かれ、「ヤコブ(押しのける者)」だと答えるヤコブに、神は「イスラエル」という新しい名前を与えられる。自分の真の姿を認めるとき、神は祝福と新しい人生を与えてくださる。

説教例
 兄エサウから逃れ、叔父ラバンの家にたどり着いたヤコブでしたが、彼を待っていたのは、20年にもわたって叔父の家畜の群れを飼うという過酷な労働でした。したたかな叔父に何度もだまされながらも、ヤコブには神さまの守りがあったので、ラバンの娘ラケルとレアを妻として、たくさんの子どもや家畜にも恵まれ、ヤコブは成功を収めていきます。
 あるとき、神より故郷の父の家に帰るように言われたヤコブは、家族と家畜の群れを引き連れ、故郷のカナンに向けて旅立ちます。しかし、故郷に近づくにつれ、ヤコブの心は大きな不安でいっぱいになります。それは、自分が長子の権利をだまして奪った兄エサウを恐れていたからです。兄さんは今度こそ、自分を殺して復讐するんじゃないだろうか?目を閉じれば、兄の怒った顔が脳裏に浮かんできて安眠することができません。
 そこで、ヤコブは兄のご機嫌をとるため、上等の家畜と奴隷たちを選んで自分の先を進ませ、贈り物作戦を考えます。しかし、使いの者からエサウがヤコブを迎えるため、400人もの伴の者とこちらに向かっていると聞いて、ヤコブは震え上がり、神に助けを祈るのです。あなたはかつて、私と子孫とを祝福すると約束されたではありませんか、と。
 その晩、ヤコブは家族を連れてヤボクの渡しを渡ると、自分ひとりがあとに残りました。彼は20年前、たったひとりで初めて野宿したベテルでの夜のことを思い返していたのかもしれません。いつの間にか、ヤコブは眠りに落ちていたのでしょうか。夢かうつつかわかりませんが、何者かがヤコブに格闘を挑んできます。その闘いは夜明けまで続きました。相手は勝てないとなると、ヤコブの腿の関節を打ったので、以来彼は不自由な身体になってしまいます。しかし、ヤコブは去ろうとする相手を捕まえて「祝福してくださるまで離しません」とねばるのです。ヤコブはこの相手は神さまだと気づいていました。そのとき、「お前の名は何というのか」と突然、神さまから問われます。「私はヤコブ(押しのける者)です」と彼は、自分の本当の名を答えます。かつて、父イサクをだまし、私は長男エサウです、とかたったヤコブでしたが、神の前に彼は自らの本当の姿を認め、そのうえで祝福を願い出ました。どこまでも神の祝福にこだわるヤコブです。そんなヤコブに神さまは「イスラエル」という新しい名を与え、彼を祝福します。
 どうして、兄エサウがしりぞけられ、人を押しのける生き方をしていたヤコブが選ばれたのでしょうか。それは彼が、自分のそうした罪深い性質を知っており、それがゆえに永遠なる神の「祝福」にいつも焦がれていたからではないでしょうか。そして、ヤコブが自らの真の姿を認めたとき、神さまは彼の求めていた「祝福」をくださり、ヤコブは新しい人生へと歩み出すのです。神さまの前に謙虚に本当の自分を差し出すこと、私たちの人生も同じです。すべてはそこから始まります。

■ 小学科
名はヤコブからイスラエルへ 
創世記 32:22―32(朗読は32:28-29)
伝えるポイント:神は、神と闘って勝ったヤコブを「イスラエル」と名づけられた。彼はこのときから、古い自分(押しのける者)を捨てて、神にある新しい人生に変えられた。

説教にあたって
 ヤコブという名前は、「踵を掴む者、押しのける者、騙す者」という意味がある。これは彼の本性を表した名前であり、欲望達成のためにはそれを辞さない人だった。それに対してイスラエルという名前は、「神に支配されている者、守られている者、神の者」という意味がある。ヤコブが人生最大のピンチに見舞われ助けを求めた時に、神は御自分の者とされ大きく変えられた。私たちも同じく自分の思いのままに生きる者ではなく、キリストを通して神さまの子となることが求められていることを伝える。

説教例
 双子のお兄さんのエサウを騙して神さまの祝福を奪い取ったヤコブは、家を追われラバン伯父さんの所で暮らすことになりました。そこで結婚して子ども与えられ、また羊など多くの家畜を得ました。しかしそこを離れて別の所で生きるために家族と共に旅に出ることになりました。そしてヤコブはエサウに使いを送ることにしました。するとエサウは4百人の僕を率いて会いに来ると返事をしたのです。それを聞いたヤコブは「もしそんな大勢に襲われたら自分も家族も皆、殺されてしまう」と震え上がったのです。そんなある夜、ヤコブはある方と出会いました。その方を掴んで「お願いだから私を祝福してください」と求めました。しかしその者は「お願いだから去らせてくれ」と、ヤコブから何とか逃げようとしたのです。ヤコブは彼から祝福してもらうために、逃がさないように必死で掴みかかり戦ったのです。「神さま、私を祝福してください。助けて下さい」と力の限り必死に叫び祈りながらそうしたのです。すると相手の者は力ずくでは勝てないと思い、ヤコブの脚に触れたのです。すると足を引きずるようになってしまったのでした。それでもヤコブは彼を離さず祝福を求めたのでした。その者が「お前の名は
何というのか」と尋ねると「ヤコブです」と答えたのです。
 ヤコブという名前の意味は、踵を掴む者、押しのける者、騙す者という意味があります。彼は自分が思いのままになるために人を騙してきました。そしてあなたは自分の思いのままにするために何をする者でしょうか。努力する人ですか、思い通りいかなくて諦めてしまう人ですか、妬む人ですか、泣く人ですか、腹が立って怒ったり暴れたりする人ですか、ヤコブと同じように嘘をついて騙す人ですか。そんなヤコブは「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」(29節)と言われたのです。イスラエルとは神さまに守られている人、神さまの者という意味があります。「あなたは騙す者ではなく、イスラエル、神に守られている者、神の者となりなさい」。するとヤコブは神さまによってイスラエルと名前が変えられ人生までも変わってしまったのでした。こうしてイスラエルはエサウ兄さんと再会するのです。
 神さまはあなたにもヤコブのように自分の思いのままに生きる者ではなく、イエスさまを信じて神さまの子になりなさいと招いておられます。イエスさまは、あなたの罪の罰を身代わりになって十字架で受けて下さり死なれました。だけど三日目に蘇り天に昇られたのです。これを信じるなら罪が赦され救われ永遠の命が与えられるのです。

■ 小学科ワーク

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