2020年秋号・10月25日成人科 ナザレン希望誌ウェブ版

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神の栄光を待ち望む     ローマ 8:18-30

 信仰には100%「神の義」、すなわち人間の罪が主イエス・キリストの十字架による死と復活によって赦されたとする信仰と行為による信仰、この2つがあります。どちらも信仰の形であり間違ってはいません。(編注:「行為による信仰」とは、決して行いによる救いを言っているのではなく、信仰が行いとして現れていく意味でご理解ください。)
 しかし、私たちは信仰を行為で充実させようとする傾向がいくらか強いのかもしれません。なぜでしょうか。自分の信仰が分かっており、その一方で自分の現実が信仰とは裏腹の言動をときに引き起こしてしまう矛盾を心の内奥で感じているからでしょう。こうした矛盾がわたしたちの中でいつも起こってしまいます。
 こうした矛盾の中でわたしたちは信仰の歩みを続けなければならない現実があります。
 この矛盾をパウロはここで説明をし、望みに生かされることを明確にしようとしています。すなわち生身の人間としての現実は、罪の影響によって信仰にそぐわないところに置かれてしまいます。しかし、そこには、常に神に与えられた霊によって己を客観的に把握し、信仰によって罪を避けようとする思いがいつも働きます。信仰者の生き方の現実はいつもこうしたところにあり、ここに信仰の闘いがあります。
 私たち信仰者は、信仰によって主イエス・キリストの十字架による死と復活によって罪が贖われたと知りながら、わたしたちの現実を具体的な形にしていく私たちの身体(肉)が実際に贖われることを求めているのです。そこに埋めることのできない矛盾を感じながら、行為によって信仰を何とか充実させようとしているのかもしれません。
 この事実を、パウロは18-25節で少し難しい言葉を並べながらも説明しています。こんな矛盾の中にあっても、信仰によって得ることのできる希望にもつながっていることを明確にしています。
 こうして神に与えられた霊によって神の計画された栄光へと導かれていくことをパウロは最後に力強く語っています。28節以下はだれでもよく知るみ言葉であろうと思います。
 こうして、私たちの信仰の闘いは神のご計画の中に神の栄光のために導かれながら、私たちの言動のすべてが何一つ無駄になることなく用いられていくのだと示されています。
 だからこそ、戸惑いながらも信仰を励んでいこうとする私たちの思いは、神によっていつも知られています。そのことを私たちはいつも信じて、希望をもち続けることが肝心です。
 
【設問】 
1.私たちの信仰の中にもつ裏腹さとはいったいどんなものでしょうか。
2.私たちのこの信仰とは裏腹の言動に対し、神はどのように導いてくださいますか。 

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