2021年冬号・3月14日小中高科 ナザレン希望誌ウェブ版

目次に戻る    カリキュラム一覧に戻る

■ 説教準備のためのテキスト研究
イエスさまにつながっていよう ―――ヨハネ 15:1-9
伝えるポイント;ぶどうの木であるイエスにつながっていることで、枝である人は豊かに実を結ぶことができる。

ポイント1、
 洗礼者ヨハネは「足元に置かれた斧」について語った。収穫するより先に、実を結んでいない木を見ると斧で切り倒してしまう。なぜなら、実を結ばない木は役に立たないばかりか、実を結ぶ良い木のじゃまにしかならないからだという。彼は言った。「いまや、あなたを切り倒すための斧が、あなたの足もとに置かれてある。あなたが実を結ばないならば、この斧はあなたを切り倒すために叩き込まれる。」私たちが何のために生きているのか?「実を結ぶため」である。人生とは、人が、実を結ぶために、神から与えられた時間である。そして人生の実というのはヨハネにおいては「悔い改めにふさわしい実(マタイ3章8節)」である。詩篇 にはこうある。「 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。(詩 51篇19節)」花も実もある人生、成功者のイメージとは、重なり合わない。ヨハネのみならず、キリストご自身が強調されたこと、それは「神は、世界の終わりに、実を結んだ葡萄の木から、その実を収穫しようとして期待しておられる」こと。神にとって、収穫される実とは、人間の魂そのものである。

ポイント2、
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。(ヨハネ15章5節)」「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。(エフェソ1章23節)」「 わたしたちは、キリストの体の一部なのです。(同5章30節)」現代におけるキリストの体である教会の本質が語られている。それは特定の場所とか建物ではない。人数の多さでもない。かつてアブラハムもヤコブも孤独な礼拝を献げた。イエスは、あえて大群衆をも解散させられた(マタイ14章22節)。イエス御自身としっかりつながるのが教会の本質。

ポイント3、
 「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。(マタイ6章6節)」。主は信仰の根本部分を「密室における神様ご自身とのつながり」に絞っておられる。使徒パウロは投獄中の身であったため、諸教会に行って皆と直接会うことはできなくなった。だからこそ数多くの手紙を書いた。パウロが手紙を書いたから、その文章を私たちは2000年経った今も読むことができる。もしパウロが自由の身だったら新約聖書の大部分は後世に残らなかったことになる。だから、私たちが家の中でひたすら自粛を余儀なくされても、あるいは遠くに引っ越しても、それどころか病院のベッドから動くことすらできずとも、心でつながることは出来る。交わりの本質は「心でしっかりつながること」。

■ 中高科
イエスさまにつながっていよう ―――――― ヨハネ 15:1-9
伝えるポイント;ぶどうの木であるイエスにつながっていることで、枝である人は豊かに実を結ぶことができる。

準 備
 イスラエルでは、「ぶどう」は繁栄と祝福の象徴である。エゼキエル15章では、イスラエルがぶどうの木に例えられている。聖書には、ぶどうに関する言葉が400ほどある。
 この個所では、イエスがぶどうの木の幹で、従う者が枝として、また父なる神が農夫で、ぶどう園は神の国として語られている。人生において、実を結ぶ大切さと幸いはガラテヤ人への手紙5:22-23の御霊の実の描写を思い起こさせる。
 実を結ぶためには、第一に幹につながっていなければならない。「イエスにつながる」とは、「イエスを主と信じて仰ぐことであり、イエスのみ言葉に心から従う」ことである。イエスにつながる者は新しい人生が始まることを覚えたい(第二コリント5:17)。次に太陽の光を受けなければならない。イエスの愛と恵みを心一杯受け止めることは、実を結ぶ人生を歩み始める動機づけとなる。更に、剪定される必要がある。果樹は剪定しなければ、次の時期に良い実を結ぶことができない。神が喜ばれないものを示されたら、悔い改めて、それから離れる必要がある。そうして生きる者は必ず豊かな実を結ぶ人生を送る者となるのである。

説教例
 皆さんはぶどう狩りに行ったことがあるでしょうか。ぶどうの木がたくさん実を結んでいる様子を見ているだけで豊かな気持ちにさせられますね。聖書には、ぶどうの木のことがたびたび記されていますが、ぶどうの木は繁栄と祝福の象徴として描かれています。イエスさまも、「わたしはまことのぶどうの木で、あなたがたが、わたしにつながっているなら実を豊かに結ぶ」と言われました。
 私たちにとって、生活の中で「実を結ぶ」とはどういうことでしょうか。それは、ガラテヤの信徒への手紙5:22-23に記されているように、心の中に愛や、喜びや、平和があることです。どんなに恵まれた境遇に置かれていても、心の中に怒りや憎しみがあり、また不平や愚痴ばかりあるなら、決して実を結んでいる生活とは言えません。また、「実を結ぶ」とは他の人に対しても寛容になれたり、自然に親切にしてあげられたり、いつも善意で接するような生き方をすることです。そこには、幸いな事柄が目に見える形になって現れてくる筈です。それだけでなく、誰も見ていなくても、誠実な態度をとり、柔和な人となり、また悪いことに傾いて行かないように自分を制するように行動できることです。その人こそ、生活の中で豊かな実を結ぶ人なのです。
 ではどうすればそのような生き方ができるのでしょうか。それは、「枝に例えられる私たちが、幹であるイエスさまにしっかりつながっていることです」。「イエスさまにつながる」とは、イエスさまを救い主と信じること、またイエスさまのお言葉に従っていることです。枝が幹から切られては決して実を結ぶことはできません。そして、枝が幹から養分を受けて成長し、実を結ぶように、私たちもイエスさまのみ言葉に育まれる必要があります。また、「イエスさまの愛と恵みに感謝する」ことです。植物は太陽の恵みがなければ育ちません。私たちは、私たちを心から愛して下さるイエスさまの愛を心に受け止めて、それに感謝して生きようとするときに、愛の実を結んでいくのです。さらに、「イエスさまが喜ばれないものを捨てる」ことです。ぶどうの木は、「剪定(せんてい)」と言って、余分な枝を切らないと次に良い実を結びません。私たちの内に、「これはイエスさまが喜ばれない」というものを感じたら悔い改めて、それらを切り離さなければなりません。そうすれば、悔いがなく、感謝と喜びを味わう日々を過ごすことができるのです。

■ 小学科
イエスさまにつながっていよう ―――――― ヨハネ 15:1-9
伝えるポイント;ぶどうの木であるイエスにつながっていることで、枝である人は豊かに実を結ぶことができる。

準 備
 ぶどうの木は高くは成長しないけれど、あちらこちらに枝を延ばしていく木です。教会の多様性、横への広がりを示唆しているのではないでしょうか。暑い夏に照り付ける日差しの下ではこかげも作り、ちょっとした癒しの空間となります。そんな教会でありたいですね。イエスさまにしっかりとつながっていましょう。

説教例
 ぶどうの木と農夫のたとえを用いて、イエスさまは弟子たちに教会の話をされました。ぶどうの木がイエスさまで、それを植える人が神様です。実を実らせる枝が弟子たちであり、イエスさまを信じるクリスチャンと言えます。イエスさまに「つながる」、それはイエスさまをしっかりと見つめて歩むことです。それがイエスさまの父である神さまにつながることになるのです。2節でイエスさまに「つながっていながら、実を結ばない枝」のことが話されていますが、これは形だけつながっているように見えるけれど、実はつながっていない枝のことでしょう。ぶどうの幹から樹液を受け取れていない状態、つまり本当の意味ではイエスさまにつながることができていないのです。
 イエスさまにつながることが大切。しかしその一方で、6節を読むとイエスさまにつながっていない枝のことが語られ、怖い感じを受けます。「枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」とあるからです。読みようによっては、なんだか脅されているようにも受け取れます。たとえ「イエスさまにつながっていたい」という気持ちがあっても、いつもいつも順調に従っていくことができる「信仰の優等生」であり続けることは難しい、それが私たちの正直な姿だと思うのです。
 とはいえ、そんな私たちだからなおさら、イエスさまにつながることを強く求めていくことが必要があるのです。それはイエスさまの愛にとどまり続けることです。うまくいかないこともあるでしょう。生きていれば当然いろいろな失敗があります。でもその中から、次は神さまを、そして家族を、友達を、地域の人々をよりよく愛することができるのか考え、行動していくことが大切です。「わたしの愛にとどまりなさい」と9節で言われているように、イエスさまが求めておられる「実」とは愛だからです。
 さっきの「イエスさまにつながっていない枝」の話も、もしその「枝」を愛していなければ、何も言わず放っておくと思います。本当に愛しているからこそ見放さずに、「栄養を受け取れていなかったら、枯れてしまうよ」という言葉を告げるのです。それは本当に愛するがゆえの言葉です。
 幸いにも、イエスさまというぶどうの木は、当たり外れがある他のぶどうの木とは違います。「まことの」ぶどうの木であるお方です。私たちはいつも人を愛していくことができるほど強くないけれど、イエスさまはそんな弱い私たちを愛し抜かれました。それがイエスさまの十字架に示された愛です。イエスさまは神さまの揺ぎない愛で、私たちをも愛して下さったのです。今日の聖書では、その愛に満ち溢れるイエスさまが皆さん一人ひとりに語りかけられるのです、「まことのぶどうの木であるわたしにつながっていれば、枝であるあなたは必ず豊かに実を結ぶことができる」と。イエスさまが弟子たちに約束されたこの御言葉を通して、愛の実を結ぶ私たち、愛にとどまる一週間とさせていただきましょう。

■ 小学科ワーク

2021 希望 冬 ワーク_page-0011

目次に戻る    カリキュラム一覧に戻る

2021年冬号小学科ワーク13週分のPDFダウンロードはこちらをクリック
(googleアカウントが必要です。)

御言葉カードはこちらをクリック
(googleアカウントが必要です。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?