2020年秋号・コロナ禍における特別寄稿① ナザレン希望誌ウェブ版

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新型コロナウィルスは教会に何をもたらすか
石田学(小山教会牧師、日本ナザレン神学校長)

教会の現状
 昨年末に、現在の世界の状態を予測した人がいるでしょうか。わたし自身、新型コロナウィルスの問題がニュースになり始めてからも、2月の中頃までかなり楽観的でした。二月末頃から、いろいろな会議や集会が中止になり、あるいはオンラインで開催されるようになりました。わたしが最初にオンライン会議を体験したのは、日本福音連盟常任理事会で、2月7日のことでした。以来、会議のほとんどはオンラインでおこなわれるようになり、現在に至っています。4月に入ると、神学校も大学も入学式は中止になり、新年度が始まったのは、5月中旬になってからです。それもオンライン授業で。
 わたし自身は、コロナウィルスの感染拡大に対して、二つの相反する思いが交錯しています。過剰反応しすぎているのではないかとの思いと、深刻に受け止めるべきだという思いが、同時にわき上がってきて、わたし自身の内でせめぎ合っているというのが実情です。 
 ほとんどの教会が何らかの対応を迫られ、コロナウィルス禍以前と何も変わっていないという教会は、おそらく存在していないと思います。礼拝を一定期間完全に休止した教会から、礼拝の分散、人数制限、短時間化、賛美の休止、マスクと消毒の義務化をする教会まで、程度の差はあれ、なにがしかの対応を迫られてきたのではないでしょうか。小山教会の場合、地域的に感染者数が少なく、あまり緊迫感がありませんので、礼拝は通常通りにおこなっています。それでも恒例となっている復活祭の持ち寄り昼食会は中止となり、ご自身や家族に持病があるなどの事情で礼拝に来ることを控えておられる方、ご自宅の地域の人々への配慮などから、礼拝出席を休止しておられる方がおられます。教会が集団感染源となった事例がニュースで報道されることで、教会での集会に対する不安や、周辺住民の目を気にせざるを得ないなどの問題が生じています。栃木県小山市のある教会で集団感染が起きました。そのため、わたしの教会でも、家族から教会に行くことに反対されたり、礼拝に行くことに対して近所の人たちから警戒の目を向けられるようになった方がおられます。こうした状況がいつまで続き、いつ終息するのか、まったく先が見えない状況にわたしたちは直面させられています。終わりが見えないことが先行きの不安をかき立てます。だが、それ以上に、今回のコロナウィルス禍をどう理解し、受け止めるべきかという問題が、神の恵みと慈しみに信頼を置くわたしたちにとって、最大の課題ではないでしょうか。

コロナウィルス禍をどう考えるべきか
 最初に明らかにしておくべきことは、二つの誤りを避けなければいけないということです。一つの誤りは、この禍の原因が神であると考えること。直接に神を新型ウィルスの元凶とは考えないにしても、なぜ神はこのようなことを許すのか、なぜ神は放置しているのかと神に非難を向けることは、神に原因を帰することに通じます。もう一つの誤りは、こうした疫病の流行を、人間の罪に対する神の罰だと解釈する誤り。イエス様ご自身が苦難を罪深さへの裁きと見なすことに反対なさいました(ルカ13:1-5)。このことを踏まえた上で、コロナウィルスの問題について考えてみましょう。
 手がかりとして旧約聖書のヨブ記に目を向けたいと思います。ヨブ記は、天上における神とサタンとの対話から始まります。サタンが神を挑発します。ヨブが神を敬うのは、神の祝福を受けて繁栄しているからなのだから、繁栄が奪い取られたなら、ヨブは神を呪うに違いないと。そこで、神はサタンに、彼の命を奪う以外ヨブを自由にしてよいとの許可を与えます。ヨブは息子・娘たちと財産の全てを失い、自らは重い病に苦しむこととなります。ヨブの苦境を聞いた友人たちが訪れて語るのは、ヨブの苦難を陳腐な因果応報、つまり正しい者は栄え、罪びとは報いを受けるという原理で説明しようとする言葉でした。実は、ヨブ自身も同じ原理に囚われています。自分の受けている苦難は不当であると主張し、それゆえ神に向かって嘆き、訴えるのに、神は応えてくださらないという苦悩に苛まれます。ヨブは、なぜわたしがこのような苦難に遭うのかという嘆きの象徴的な存在です。重要なことは、天上の神とサタンの対話が、読者であるわたしたちには物語られますが、ヨブや友人たちはもちろん、この世界で生きている全ての人たちにとって、知り得ないことだということです。つまり、この世界で生きる間、苦難の理由も原因も、わたしたちには閉ざされていて、知ることはできません。なぜなのかと問うこと自体、答えのない問いでしかないのです。人は知りようのない苦難に対して、因果応報や勧善懲悪の理論を持ち込もうとします。あるいは繁栄や安全を神の祝福と結び付けようとします。そうした考えを退ける究極の証が、キリストの十字架ではないでしょうか。わたしたちは現在、新型コロナウィルスの脅威にさらされ、恐れと不安を抱いています。その現実の中ですべきことは、原因を推測したり神の罰や裁きを想定することではありません。禍の現実を受け止めた上で、教会として、信仰者として、なにをすべきか、どのように生きることができるかを考え、工夫し、実践することだと思います。

新型コロナウィルスは教会に何をもたらすか
 コロナウィルスの流行は間違いなく禍です。しかし、その禍の中でわたしたちはどのように神をたたえ、感謝を捧げ、信仰共同体として共に神を礼拝し、愛と憐れみを実践するのかを工夫し、この禍以前にはなかった工夫と生き方を生み出してゆくことができるはずです。事実、それまで伝道や教勢の行き詰まりに意気消沈していた牧師や教会が、嬉々としてオンラインで礼拝や説教を配信し、文書による牧会に力を注ぎ、そのことを通して、コロナウィルスのために教会に来ない人たちだけでなく、これまで教会弱者であった、さまざまな人たちが教会との繋がりを持つことができるようになっています。礼拝の在り方、教会の形態そのものが劇的に変化しつつあります。礼拝だけでなく、聖会や聖書の学び、教会学校もオンライン化してゆきます。公開されているオンライン礼拝には、教会や教派を超えて人々がアクセスしてきます。結果として、二つのことが教会にもたらされることでしょう。一つは教会弱者とされてきた人たちにとって、教会へのアクセスの壁が低くなり、また今まで教会との繋がりを持つことのなかった人たちが、教会との接点を持ちやすくなること。もう一つは、教会や教派といった枠組が低くなってゆき、結果として教会の共同体性が従来とは違うものへと移り変わってゆく可能性があることです。どのようなものへと変化してゆくのかは、今後の検証課題です。


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